●アルバータ農民連合United Farmers of Alberta:UFA


【歴代州首相】
ハーバート・グリーンフィールド(1921〜1925)
ジョン・エドワード・ブラウンリー(1925〜1934)
リチャード・ギャビン・リード(1934〜1935)

 農民連合(United Farmers)は、初めは農政圧力団体で、その後は政党となり、現在は農業協同組合チェーンとなっている。

 (1) 連邦政治
 アルバータ農民連合は1909年、アルバータ農民協会とカナダ社会組合が合併して結成された、無党派の圧力団体であった。1920年までには会員数3万人以上となり、アルバータで最も影響力のある圧力団体となった。アルバータ無党派連盟(NPL)が1917年に政界進出したため、アルバータ農民連合も対抗上1919年、政界に進出した。アルバータ農民連合は、後にアルバータ無党派連盟を吸収した。
 1919年、アレクサンダー・ムーアがアルバータ州の補選に勝利し、最初の下院議員となった。その後は1921年連邦議会総選挙で2議席、1925年に2議席、1926年に11議席、1930年に9議席を獲得している。

 (2) アルバータ州政治
 連邦政界に食い込むことに成功したアルバータ農民連合は、1921年のアルバータ州議会選挙にも進出した。その結果、定数61議席中38議席を獲得し、17年続いた自由党政権に終止符を打ち、いきなり政権与党となった。
 アルバータ農民連合は党首なしで選挙を戦ったため、誰を首相にするかで頭を抱えた。指導者のヘンリー・ワイズ・ウッドは、最初の幹部会で満場一致で首相候補に指名されたが、彼は党を押さえる方を重視し、これを辞退した。そこで、自由党党首のチャールズ・スチュワート首相に首相になるよう依頼したが、さすがに拒否されたため、最終的に選挙に出馬しなかったハーバート・グリーンフィールドを首相に就けた。
 アルバータ農民連合政権は、政治経験はほとんどなかったが、いくつかの大胆な改革に着手した。1923年、グリーンフィールド政権はアルバータ小麦基金を設立し、禁酒法を廃止した。
 1925年には、ジョン・ブラウンリーが首相に就任した。彼は1929年に連邦政府と交渉し、州の天然資源の権利を獲得した。それは、中・東部州がカナダ連邦を結成したとき認められた権利だったが、西部州はその当時まだ州になっていなかったので、認められていなかったものである。後にアルバーテキスト ボックス: ハーバート・グリーンフィールド。タには膨大な石油埋蔵量があることが判明したので、この取引は州の未来に重大な影響を与えたことになる。
 ブラウンリー政権は発足以来財政黒字を続けていたが、1929年に世界恐慌が起こった。穀物価格は暴落し、農民たちが生活苦から農地を手放すようになったため、政府はアルバータ小麦基金を通じて小麦を買い占め、価格の安定をはかったが、膨大な支出のため州財政は赤字に転落した。
 ブラウンリー首相は1930年、州議会選挙で連続3選を果たしたが、経済と財政の混乱は続いた。1932年にはエドモントンで、1000人ものデモ隊による「ハンガー・マーチ」が行われた。

 

 (3) ブラウンリー首相淫行疑惑
 ブラウンリー首相は1934年、司法長官の秘書ビビアン・マクミランが18歳のときから3年間性的関係を持ったことで、彼女とその父アランから州法の誘惑罪で起訴された。
 ビビアンの主張によると、ブラウンリー首相はエドソン市長アラン・マクミランの17歳の娘ビビアンに下心を抱き、卒業を待ってエドソンからエドモントンに呼び寄せ、司法長官秘書の仕事を斡旋した。そして193010月、ブラウンリーは停車中の車の中で、気が狂わんばかりに彼女を想っており、どうか自分と関係を持ってほしいと哀願した。彼女が拒否すると、別居中の病弱な妻にとって妊娠は命の危険があり、彼女の身に何かあっては自分は首相職を続けられないと言ったという。彼女は後部座席に移動したが、そこで彼女の意志に反し「部分的に挿入」されたと語った。彼女の話の中で最も衝撃的だったのは、ブラウンリー夫人の外泊中、首相の部屋で、眠っている息子のすぐ横で行為に及んだことだった。
テキスト ボックス: ジョン・ブラウンリー。 彼女は1932年にジョン・コールドウェルと恋に落ち、全てを告白した。それからブラウンリーに関係の解消を願い出たが、彼は逆上し、アルバータで仕事に就くことはできなくなると脅迫したという。
 ブラウンリー首相は、ビビアンの話を創作であり、自分を陥れるための自由党の陰謀だと断言した。彼は私立探偵を雇い、コールドウェルが「高い政治的地位にある人」から高額の報酬を約束されたことを突き止めたと主張した。また原告側弁護人のニール・マクレーンが自由党員だということも指摘した。
 誘惑罪は、奉公人の女性が妊娠すると勤めが果たせなくなるため、妊娠させた男性を告訴できるように定めた200年前の法律だった。後に誘惑された奉公人の父も告訴できるよう改正されたが、被害女性自身が告訴できるように改正されたのは1903年のことであった。
 被告側は公判で、ビビアンの供述にはところどころ矛盾があることを指摘し、この点を証拠を挙げて一つ一つ突いていった。そして誘惑罪の過去の判例は全て妊娠の事実があったが、本件において原告は妊娠していないばかりか、何らの損害を申し立てていないと主張した。ブラウンリー被告も、もしも関係が合意の上でないなら、誘惑罪ではなく強姦罪で起訴されたはずだと抗弁した。
 自由党系のエドモントンの地方紙「ビュレティン」は、裁判の詳細を逐一報道した。ビビアンについては「不屈の精神で悲惨な災難を証言」、ブラウンリー首相については「嫉妬と性に狂った男」と報じた。陪審員は隔離されておらず、これらの報道を読むことができた。
 一審で陪審員は、ブラウンリー首相を有罪と評決した。ところがウィリアム・アイブス判事は評決を覆し、無罪を宣告した(この事件を契機に、判事は評決を覆せない法律が成立した)。彼は、たとえビビアンの供述が真実だとしても、原告は妊娠または病気の申告なくして損害を主張することはできないテキスト ボックス: ビビアン・マクミラン。とした。
 だが一審で勝利したにもかかわらず、ブラウンリー首相はすでに大きな政治的ダメージを受けていた。彼は数日後に総理・総裁を辞任した。
 なお1935年の二審判決は、ビビアンの証言を「証拠によって全く裏づけられてなく、とうてい信用することはできない」として一審判決を支持した。1937年の三審判決は、ブラウンリー被告を有罪とし、ビビアンへ1万ドルを支払うよう命じた。

 

 (4) 社会信用フィーバー
 ブラウンリー首相辞任後、彼の政権で予算庁長官や鉱業大臣などの要職を歴任したリチャード・リードが首相に就任した。
 経済の混乱が続くなか、アルバータ農民連合は左は社会主義、右は社会信用論から攻撃された。ダグラス少佐が提唱した社会信用論は、福音伝道者のウィリアム・エイバーハートが州民に毎月25ドルを「社会信用」として支給すると宣伝したことで、注目を集めていた。エイバーハートは当初、既成政党に社会信用論を採用させようと目論んでいたので、1935年アルバータ農民連合の党大会に招かれ演説した。
 党員の何人かは、アルバータ農民連合は社会信用論を採用すべきだと請願した。だがリード首相は、社会信用論はまやかしだと考えていた。投票の結果、社会信用論は大差で不採用となテキスト ボックス: リチャード・リード。ったが、リードが集計で不正を行ったと噂された。エイバーハートはこれを受けて、自ら社会信用党を結成するほかはないと決意した。
 リード首相はそれから、社会信用党への大々的な批判を開始した。法律の観点からは、銀行業務と関税は連邦政府の管轄であり、エイバーハートの構想である州政府の金融業への進出や州関税の設定は憲法違反だと指摘した。財政の観点からは、州民に毎月25ドルを支給するには、税を10倍にする必要があると反論した。
 エイバーハートはまた、ダグラスの理論を十分理解していなかった。ダグラスはエイバーハートのパンフレットについて「最初から最後まで間違っている」と指摘した。ダグラスはそもそも「社会信用党」を名乗る政党結成に懐疑的で、迷惑とさえ考えていたふしがあった。リードはそこに目をつけ、ダグラスをアルバータ州の経済再建顧問として招聘し、エイバーハートと論争させることで、彼の無理解を浮き彫りにさせようと目論んだ。だがダグラスはそれを見抜き、パンフレットの些細なミスを指摘するにとどまった。
 理論的批判が効果がないとわかると、ブラウンリー前首相はラジオでエイバーハートを「ハーメルンの笛吹き男」と中傷した。エイバーハートは「笛吹き男は街から全てのネズミを一掃した」と言い返した。
 農民たちは依然として貧困のうちにあったが、アルバータ農民連合にはこれといった対策はなく、社会信用党への批判に明け暮れた。有権者は難解な経済の話には関心がなく、ただ毎月政府から25ドル支給されることにしか関心はなかった。
 結党から瞬く間に権力の座に上りつめたアルバータ農民連合は、その衰退もあっという間だった。1935年州議会選挙は、投票率は実に80%にものぼり、社会信用党が定数63議席のうち56議席を獲得する大勝利を収め、世界初の社会信用政権を樹立した。翌日のボストン・グローブ紙は「アルバータは狂ったのか!」という見出しを打った。与党アルバータ農民連合は全ての議席を失い、党員の多くが協同連邦党や社会信用党に移籍した。1930年の連邦議会選挙で当選したアルバータ農テキスト ボックス: ウィリアム・エイバーハート。民連合議員たちも、9人のうち8人が協同連邦党に移籍した。その全員が1935年連邦議会選挙で、協同連邦党から出馬して落選した。もう一人の下院議員ウィリアム・トーマス・ルーカスも、保守党から出馬して落選した。
 その後の歴史は、社会信用論に関するリードの予見が正しかったことを示した。 1937年、アルバータ農民連合は選挙に独自候補を擁立しないことを決定した。1939年には、政治部門を廃止し政界から完全に撤退した。

 (5) オンタリオ農民連合
 オンタリオ農民連合(United Farmers of OntarioUFO)は、オンタリオ州で1919年から23年まで与党だった。連邦議会総選挙では1921年に1議席、1926年に1議席、1935年に1議席を獲得している。

 (6) 農業協同組合として
 政界から撤退したアルバータ農民連合は、1934年からはカルガリーに本部を置く農業協同組合となった。最初の農業サプライストアは、1954年にカルガリーに設置された。
 アルバータ農民連合は現在、12万人以上の会員数を持ち、アルバータで36の農場と店舗を、またブリティッシュコロンビア・アルバータ・サスカチュワンで100以上のガソリンスタンドを経営し、年間18億ドル以上の収益を上げている。アルバータ・ベンチャー・マガジンの調査によると、アルバータ農民連合はアルバータで37番目に大きい収益を上げている企業である。

 

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