[3] ブレイブハート 〜スターリング〜

 

 

 

1286年、スコットランド国王アレクサンダー三世が落馬して死亡した。彼には王子はなく、王家の直系はノルウェー王エリク二世に嫁いだ娘マーガレット(既に死去)の娘マーガレットだけであった。3歳で即位した彼女は、あまりにも幼いゆえ親元から引き離すことができず、ノルウェーの宮殿で生活していたため「ノルウェーの乙女」と呼ばれた名ばかりの王だったが、1290年、女王としてスコットランドに着任することとなった。だが途中船が遭難してマーガレットは7歳で死亡し、アサル王朝はここに断絶した。

すると次の王位をめぐって、王家の血を引く13人もの貴族が争った。そこで内戦の危機に瀕したスコットランドは、王位継承をイングランド王エドワード一世(長脚王)の裁定に委ねることにした。エドワードはジョン・ベイリャルを王に指名した。

エドワードに臣従を誓わされたジョンは、当初は忠実に従っていたが、度重なる無礼な仕打ちに腹を立て、イングランドがフランスと戦ったギエンヌ戦争への出兵要請を拒絶し、かえってフランスと対イングランド同盟を結んだ。激怒したエドワードはスコットランドに侵攻し、ベリックで1万7千人を虐殺して、しかも死体を埋葬せず放置せよと命じた。彼は腐臭の漂うこの街でスコットランド諸侯に忠誠を誓わせ、ジョン王を追放し、各地にイングランドの代官を置いた。そして「運命の石」をイングランドに持ち去り、歴代の王はウェストミンスター寺院で「運命の石」を嵌めこんだ椅子に座って戴冠式を挙行すると定めた。彼は自分こそスコットランド王だと主張したかったようだが、スコットランドはこれを認めていないため、この後10年間王位は空位となる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真10 スターリング城。現在の城は16世紀以降のものである。

 

写真11 スターリング城から見たウォレス・モニュメント。写真左側が古戦場。左下にスターリング橋が見える。

 

 

 

ウイリアム・ウォレスは貴族ではなく地主の子だったが、1297年ラナークでイングランドの駐屯軍を襲ってイングランド代官を殺し、おたずね者となった。伝説によれば、彼が恋人に会いに行くのをイングランド兵に追跡され、彼が裏口から逃げたため家を恋人もろとも燃やされたのを恨んだともいわれる。彼は民兵を率いてローランド(スコットランド南部の低地)でイングランド軍にゲリラ戦を挑んだ。ほとんどの貴族はエドワードに服従し、ウォレスの動きを黙殺していたが、貴族の一人アンドリュー・ド=モレーもハイランド(スコットランド北部の高地)で戦っており、やがてモレー軍もウォレス軍に合流する。貴族たちの支持を得られず民兵だけで戦っていたウォレスは、今や訓練された貴重な騎士団を配下に置いたのである。

1297年エドワードはスコットランドを平定するため、サーレー伯ウォーレンの率いる軍勢を北上させた。するとウォレスはスターリング城(写真10)を見下ろすアビー・クレイグの丘の上に陣取り(写真11)、イングランド軍の側面を牽制した。そこには今日「ウォレス・モニュメント」が建っている。

スターリングシャーはフォース湾が内陸深く切れ込んでいて、スコットランドで最も細くくびれた地域である。フォース川流域は湿地が多いため、防衛ラインとして適しており、ローマ皇帝アントニヌス・ピウスもAD140年頃アントニヌスの長城を築いている。内陸深く切れ込んだフォース湾では潮の流れが増幅されるため、中世にはスターリングより下流に橋を架けることはできず、ローランドからハイランドに抜けるためには、スターリングシャーの湿地帯を通らなければならなかった。それゆえこの地域は何度も戦場に選ばれている。

スターリングは、スターリング城のある丘とフォース川に挟まれた狭い湿地帯の街である(図2)。スターリングすなわちフォース川の右岸を通過する軍は、スターリング城から側面攻撃を受け、湿地で応戦する脅威に晒されることになり、スターリングは要衝の地なのである。

テキスト ボックス: 図2 スターリング。人も馬も装甲したイングランド重騎兵はヨーロッパ屈指の強さを誇っており、まともに戦って勝てる相手ではなかった。騎兵を保有しているのは貴族テキスト ボックス: 写真12 現在のスターリング橋(オールド・ブリッジ)。合戦当時の橋は木造で、現在より800メートルほど上流にあった。だけで、ウォレス軍にはほとんど歩兵しかいなかったからである。しかし彼は敵を湿地に誘い込めば、重騎兵がその重みで脚を取られ勝機があると考えた。そしてスターリング城からアビー・クレイグに至る最短ルートはスターリング橋(写真12)だったが、この木造の橋は2人がやっと並んで通れるほど狭く、この橋の出口で待ち伏せれば、全体の数では劣っていても局地的には2人対多数で戦うことができるのである。

問題は、敵にどうやって橋を渡らせるかであった。

そのころイングランド軍は軍議の最中だった。イングランド軍に参加していたスコットランドの将校リチャード・ランディは、60人ほどが一度に渡れる浅瀬があることを指摘し、そこからまず500の騎兵が渡河してウォレス軍の側面を牽制し、橋の安全を確保してから本隊が橋を渡るべきだと主張した。しかしウォーレンは、軍を二手に分け各個に撃破されることを恐れ、躊躇した。

そのとき、降伏を勧めるためウォレスに派遣した使者が、戻って来て彼の言葉を伝えた。

「お前の司令官に伝えよ。我らは和を結ぶためではなく、戦うために来た。我らはいつでもヒゲとヒゲを合わせて戦う用意があると」。

それを聞くやウォーレンは激怒して、全軍にスターリング橋に向かって進撃を命じた。だがウォレスは、あらかじめ橋周辺の葦の原に伏兵を置いており、橋の北詰で戦闘が始まった。イングランド軍が橋に殺到するのを丘の上で見ていたウォレス(写真13)は、モレーの部隊に渡河を命じると、モレーの部隊は迂回してイングランド軍の退路を攻撃した。橋の北詰ではイングランド軍の先鋒が激しい弓矢の攻撃に晒され、テキスト ボックス: 写真13 アビー・クレイグから見たスターリング。街全体もスターリング城(右上)も、全て手に取るように見える。後退しようにも退路も混乱しており、狭い木造の橋の上で大勢の重騎兵がひしめき、ついに重みに耐えかね橋は落下、多くの兵が川に流され溺死した。そしてすでに橋を渡り終えた先鋒部隊は、後続部隊との連絡を絶たれ孤立し、ウォレス軍に殲滅された。これはスコットランドが占領下に置かれて以来、最初の本格的な勝利であり、また貴族が指揮する職業軍人だけが戦う戦ではなく、民間人の志願兵による勝利という意味においても意義は大きかった。

この勝利で勢いに乗ったウォレスは、スコットランドのベリックとロクスバラを攻撃し、さらにイングランドにも攻め入りノーサンバーランドとダラムを攻撃した。そしてウォレスはついに王国守護官に任命される。それは王位が空位の状況において、彼がスコットランドの最高指導者となったことを意味した。

だがウォレスには勝利に酔っている暇はなかった。片腕とも頼んだモレーはスターリング橋の戦いで戦死していたのである。エドワードは必ず報復に来る。スコットランド諸侯をまとめ上げ、彼らの力を借りなくては、勝利はおぼつかないのだ。

 

 

 

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