この森で、天使はバスを降りた(The Spitfire Grill)

 

 

1996年アメリカ
監督:リー・デイヴィッド・ズロートフ
出演:アリソン・エリオット、エレン・バースティン、マーシャ・ゲイ・ハーデン

 

 ギリアドの自然が美しい。インディアンの伝承で「天の神々が美しさに惹かれ降り立った村」というのが、わかるような気がする。
 本作のテーマは「木々の癒しと再生」である。森の中でジョーは「ムダな木だ」と言うが、パーシーは「こんなに美しいものはない」と言う。ところがそのムダな木が、実は金になることが後に判明する。木の皮に重要な薬理成分が含まれており、皮を剥いで再生を促せば良質の成分を得られるのである。ジョーは森の中でもう一度「これで町を再生できる」「ぼくたちにとってもいいニュースだ」と語り、パーシーに求婚する。しかしパーシーは「私はもう、子供をもつことはできないの」と告白する。
 このシーンは、物語進行のうえで実は必要ない。というより、ジョーの存在そのものが必要でなく、彼なしでも物語は成り立つのである。にもかかわらず、この森のシーンは作中で重要な意味を成している。木の皮を剥ぐと、それは木にとっては傷であり、皮が再生される。ジョーはそこに町の再生を夢見て、パーシーとの新しい生活を夢見る。だがパーシーは流産のダメージにより、子を産む(命の再生)ことはできないのである。

 負傷したハナは自分の代わりに、パーシーに缶詰を運ばせる。ハナの不思議な行動に、パーシーは(視聴者も)「森の人」がハナの息子だと察知する。会ったこともない彼にパーシーが親しみを抱き、命がけででも守ろうとしたのは、ハナの失われた息子が、子を亡くしたパーシーにとって他人事ではなかったからだろう。パーシーが傷ついた心を森で癒したように、ハナの息子も戦争で傷ついた心を森で癒していた。パーシーはジョーに「お金なんか関係ない」と言ったが、ハナの息子はお札を折り紙の材料に使っていた。森ではお金は必要ないからである。

 パーシーが丘の上で歌っていたのは、「ギレアデの乳香」という黒人霊歌である。

There is a balm in Gilead
(ギレアデに乳香あり)
To make the wounded whole;
(傷ついた人を癒してくれる)
There is a balm in Gilead
(ギレアデに乳香あり)
To heal the worried soul.
(悩める心を癒してくれる)

Some times I feel discouraged,
(ときには失望することもある)
And think my work’s in vain,
(我が労苦は無駄ではないかと)
But then the Holy Spirit
(でもそんなとき聖霊は)
Revives my soul again.
(我が魂を再生させる)

If you can’t preach like Peter,
(たとえペテロのように語れなくても)
If you can’t pray like Paul,
(たとえパウロのように祈れなくても)
Just tell the love of Jesus,
(ただ主の愛を語り継ごう)
And say He died for all.
(主は皆のために死んでくれたと)

 なおギレアデとはイスラエルの乳香の産地であり、乳香とは樹皮から採れる止血材である。
 パーシーの葬式のシーンで流れるオルガン曲が「ギレアデの乳香」であることは、歌詞がないだけに気づきにくい。パーシーの悲劇的な最期を理解できないという意見が多いが、舞台にギリアドの町を選んだ理由が、乳香による傷の癒し、一命を投げ出しての贖い、魂の再生を歌ったこの黒人霊歌を強く意識したものであることに疑いの余地はない。パーシーの死と無実を知った村人たちは、オルガンを聴いていたたまれない気持ちになっただろうし、ネイハムの唐突に見える改心も理解できるのではなかろうか。
 二度と子を産むことはできないパーシーだったが、一身を以って贖うことで村人たちの心を再生させることができた。村人たちも心を入れ替え、新しい来訪者を温かく迎える。それは子連れのシングルマザー、クレアだった。パーシーがバスを降りた日は暗く寒い雪の夜だったが、クレアがバスを降りた日は日差しの明るい暖かい昼下がりだった。人々は子を背負った彼女の姿に、自分たちがついに見ることのなかったパーシーの幸福を見出し、心癒されていくのである。

「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、ただ一粒にすぎない。
  しかし死ねば多くの実を結ぶ。」  (ヨハネ福音書12章)

 

 

 

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