ケベック独立問題

 

 

 ケベック独立運動は、景気に連動すると言われている。カナダの景気が悪いときに限って独立運動が加熱するというのである。また若い世代ほど独立支持層が多いことが知られている。
 ケベック独立運動には「独立(independence)」、「主権(sovereignty)」、「分離主義(separatism)」などの用語が使われているが、どれも実質的には同義のようだ。ケベック党の支持者はしばしば「主権」を話題にする。そして独立したケベックが法的に妥当な国際的協定を結ぶことができると主張する。連邦主義者(反独立派)は「分離主義」の用語を用いて、否定的な印象を「主権派」に与えようとしている。かつて1995年の「三党合意」に荷担したケベック民主行動党は、今日「自治主義(autonomism)」という用語を採用し、「主権」路線から転換したようである。
 「主権」の用語は、ルネ・レベックによる1967年の主権・連合運動(MSA)結党から始まった。「主権・連合(Sovereignty-association)」はケベック国の主権獲得および、カナダとの間の経済的・政治的連合の創設を意味しており、レベックのマニフェスト「オプション・ケベック」において最初に使用された。1980年の住民投票によれば、ケベック党は「主権」について、「全ての税を課し、全ての法律に関して投票し、全ての条約に調印する」ことと定義づけているようだ。ケベック独立国と残りのカナダとの関係は、2国間関係を管理する行政機関に加入した金融および関税同盟のようなものと考えられよう。このアイデアの源は、今も統合を続けているヨーロッパ共同体(現EU)と思われる。
 カナダとアメリカはいずれも貿易に関する障壁は非常に高く、独立を達成した後にカナダがケベックの輸出品をボイコットするなら、新しい国は経済的困難に直面することが予想される。「主権・連合」構想は、独立を志向するにあたり、住民の経済的不安を払拭するものである。だが作家のイボン・デシャンは「ケベック人が望んでいるのは、強いカナダの庇護下にケベック独立国があることであり、それはあたかも、欲しいものは何でも与えられ甘やかされた子供が、それ以上欲しがっているかのようだ」と喝破した。
 ケベックが分離独立すれば、カナダは東西に分断されることになる。経済力の低下から、G7から外されることにもなりかねない。カナダ連邦は求心力を失い、東部諸州はアメリカ合衆国に編入し、連邦解体に至る可能性が大きい。
 ケベック州には独立志向のハード・ナショナリストが30%存在するほか、「主権・連合」を支持するソフト・ナショナリストもいるが、いっぽうでは独立に無関心のアロフォン(母語がフランス語でも英語でもない)や先住民もいる。1995年の住民投票では、アロフォンの90%、クリー族インディアンの77%、イヌイットの96%が独立反対の意向を表明した。また独立に反対する連邦主義の政治家たちは、しばしば「インディアン独立カード」をちらつかせケベック独立を牽制した。
 1995年の最後の住民投票が否決に終わると、その後の10年間は主権・独立あるいはいかなる憲法改正案も支持されなくなる「住民投票疲れ症候群」が見られるようになった。今では70%の州民が住民投票を再度行うことに反対している。ケベック党のブシャール党首は、1998年州議会選挙に勝利したにもかかわらず、再度の住民投票を実施しないことを宣言した。彼は「勝てる状況を待つ」と語った。住民投票はその後実施されていないし、2003年州議会選挙でケベック党はついに野党に転落、2007年州議会選挙では大敗して野党第一党の地位さえ失った。1980年には30万人いたケベック党員は、今は6万人にまで減少している。現与党のケベック自由党と野党第一党のケベック民主行動党は、いずれも3度目の住民投票実施に反対を明言している。

 

 

●ド=ゴール大統領「自由ケベック万歳!」発言
 1967年7月、モントリオール万国博覧会に合わせケベック州を公式訪問したド=ゴール大統領は、モントリオール市庁舎のバルコニーで大観衆を前に演説し、その最後に両手を高くあげて“Vive le Québec libre!”(自由ケベック万歳!)という叫びで締めくくった。彼はアルジェリアの独立を認めていたので、ケベック独立をも支持するかのようなこの発言は、一部のフランス系カナダ人には受けた。だがカナダ人の多くは、二つの世界大戦においてフランスにカナダ兵を送っており、多くの犠牲者を出したその見返りが露骨な内政干渉だったことに憤った。またカナダ連邦と異なり、ド=ゴールがバスク語・ブルターニュ語・コルス語などのマイナリティ文化に抑圧的であることも見抜いていた。第一次大戦出征者やカナダ政府の逆鱗に触れたド=ゴールは、その後の訪問スケジュールを全てキャンセルされ、早々に帰国することを余儀なくされたのである。

 

 

●聖ヨハネの日(Fête de la Saint-Jean-Baptiste
 キリスト教が伝来する前のヨーロッパでは、太陽が最も高くなる夏至の日に火の祭が行われていた。キリスト教が伝来すると夏至の祭の日は「聖ヨハネの日」となり、夏の重要な祭として祝われるようになった。洗礼者ヨハネはケベックとニューファンドランドの守護聖人となり、聖ヨハネの日の習慣はフランスからケベックへと伝えられ、6月24日に豊穣と毛皮貿易の発展を祈願する祭として定着した。
 1834年、モントリオールの新聞「ラ・ミネルブ」の創業者デュベルネが「聖ヨハネ協会」を創立し、アイルランド人の聖パトリック・デーのようにフランス系カナダ人も聖ヨハネの日を盛大に祝おうという運動を始め、それ以来毎年6月24日にはパレードやコンサートが開催されるようになった。1834年の聖ヨハネの日には、ジョルジュ=エティエンヌ・カルティエ作詞
“Ô Canada! mon pays, mes amours”(おおカナダ!我が祖国、我が愛)が初めて演奏された。

Comme le dit un vieil adage:(古い諺に言う)
Rien n'est si beau que son pays;
(祖国より美しいものはない)
Et de le chanter, c'est l'usage;
(そう歌うのが伝統だ)
Le mien je chante à mes amis
(我、友に歌う)
L'étranger voit avec un oeil d'envie
(異人たちは羨望の眼差しで見る)
Du Saint-Laurent le majestueux cours;
(サン・ローランの壮麗な流れ)
À son aspect le Canadien s'écrie:
(その眺めからカナダ人は歌う)
Ô Canada! mon pays! mes amours!
(おおカナダ!我が祖国、我が愛)

 なおカナダ連邦はまだ成立しておらず、ここで言う「カナダ」とは当時のローワーカナダ、すなわち今で言うケベック南部のことである。

 1880年の聖ヨハネの日には、聖ヨハネ協会の依頼で作られたアドルフ=バジル・ルーティエ作詞・カリサ・ラバレ作曲の“
Ô Canada”(後の国歌)が始めて披露された。
 1925年には、聖ヨハネの日はケベック州の法定休日となった。

 1960年代の「静かな革命」によってケベック人のカトリック離れが進むと、宗教的な祭は若者たちに敬遠され、聖ヨハネの日は政治的色彩を帯びるようになり、以後ケベック独立の示威行動をする日であるかのように扱われている。1968年の聖ヨハネの日には、連邦主義者のトルドー首相が出席していたので、分離主義の過激派が酸の入った瓶や石を投げ、警官隊が出動する騒ぎとなった。1977年には、ルネ・レベック州首相によって聖ヨハネの日は“
Fête nationale du Québec”という名の祝日となった。

 

 

●フランス語憲章(101号法)
 フランス語憲章は1977年ケベック党政権によって導入され、「フランス語はケベック州とその政府、その法における公用語であり、日常の会話、教育、ビジネスに用いられる言語である」と規定している。この法律はインディアン居留地には適用されない。
 フランス語憲章は当初、ケベック州の法律はフランス語のみで公布され
ると規定していたため、連邦最高裁判所によって1988年、連邦憲法に違反し無効と判断された。またフランス語以外の言語による広告も違法と規定していたが、最高裁判所は、他言語を排しフランス語のみの使用を義務づけることはできないとしたものの、フランス語の表示がその他の言語より「より大きい外観」または「著しい優位」を持つことを、ケベック州政府が義務づけることは合憲と認めた。憲章は判決に従って、1993年に改正された。

 フランス語憲章がひとたび導入されるや、ケベック社会は少なからぬ混乱にみまわれた。英語あるいは英仏二か国語で表記された看板が撤去され、フランス語のみのものと取り換
テキスト ボックス: ケベック市の道路標識。英語起源の道路名「スコット」が、フランス語の「フランス系アメリカ」に変更されている。古い標識を撤去せず、わざわざ斜線を引いてその上に新しい標識を取り付けて「見せしめ」にするのは、ケベック州の「英語撲滅運動」の一環か。えられた(憲章は商標には言及していない)。英語系メディアが、「言語警察」が憲章に違反した人に最高7千ドルの罰金を課すことができる、この法律をタテに非フランス系民族を弾圧できると報道すると、およそ30万人ものケベック住民がオンタリオなどへいっせいに流出して行った。イギリス系・少数民族系企業や外資系企業も次々にトロントに移転、モントリオール銀行ですら拠点をトロントに移し、名称から「モントリオール」をはずすことさえ検討したという。1976年のオリンピック開催時にはカナダ最大の都市だったモントリオールは、トロントにその地位を奪われることになる。議席を失って一度は壊滅した右派政党ユニョン・ナショナルは、英語系住民に支持され1976年の選挙で11議席を獲得し息を吹き返した。
 モントリオールにあった英語校の多くも、1970年代に閉鎖を余儀なくされた。憲章は、16歳以下のすべての児童は原則としてフランス語で義務教育を受けなければならないと定めるいっぽう、教育過程の大部分をカナダの英語校で受けた子供や、ケベックの英語校で義務教育を受けた両親の子供には英語校で学ぶことを保証し、それ以外の子供はフランス語校で学ぶことを規定している。一見公平なように見えるが、例を挙げると、オンタリオで生まれ英語校で学んだ日系二世がケベックに移住した場合、親も本人もケベックの英語校で学んだことがないため、英語しか話せなくてもフランス語校に通わなければならない。
 人権監視機構は1988年、トニー・コンダクス著「南アフリカ、ソ連、ケベックの『血統ドクトリン』」を刊行した。この論文はフランス語憲章とアパルトヘイトを比較して、両者は親がどのカテゴリーに属するかに基づき個人を分類し、それを次の世代へと引き継ぐ「血統優先ドクトリン」を採用していると捉え、法の下の平等と自由という民主主義社会の基本的理念は、市民の権利が別々の2つのカテゴリーに分別されることによって破壊されることになるだろうと警告した。
 スタンレー・リードとフランセス・リードは法廷で、ウェブサイトのコンテンツは憲法の規定に照らして連邦政府司法権の管轄であり、フランス語憲章は適用されないと主張したが、ケベック裁判所は、ケベック州から発信されあるいはケベック州に向けて販売される商用ウェブサイトにはフランス語憲章が適用されると判断した。

 

 

1980年住民投票
 1976年に政権を獲得したケベック党政権のレベック首相は、彼の持論である「主権・連合」の賛否を問う住民投票実施に踏み切り、事実上独立への第一歩を踏み出した。
 住民投票の設問は、以下のようなものであった。

“Le Gouvernement du Québec a fait connaître sa proposition d’en arriver, avec le reste du Canada, à une nouvelle entente fondée sur le principe de l’égalité des peuples ; cette entente permettrait au Québec d'acquérir le pouvoir exclusif de faire ses lois, de percevoir ses impôts et d’établir ses relations extérieures, ce qui est la souveraineté, et, en même temps, de maintenir avec le Canada une association économique comportant l’utilisation de la même monnaie ; aucun changement de statut politique résultant de ces négociations ne sera réalisé sans l’accord de la population lors d’un autre référendum ; en conséquence, accordez-vous au Gouvernement du Québec le mandat de négocier l’entente proposée entre le Québec et le Canada?”
(筆者訳:ケベック州政府は、国家としての平等に則り、それ以外のカナダとの新しい協定について交渉するという提案を発表する。その協定は法律を制定し、税を課し、諸外国との関係を構築する独占的な権限換言すれば主権をケベックに与える。また同時に、カナダとの間に通貨を含む経済的連合関係を継続する。これらの交渉から生じるどのような政治的変化も、別途行われる住民投票の承認を経て実行されるに過ぎない。これらの条件においてあなたは、提案された協定についてカナダと交渉することをケベック州政府に委託しますか?)

 リズ・パイェット女性問題担当大臣は3月9日、ケベック党支持者の前で、「ノー」を支持する女性を「イベット」(校則に登場する従順な少女の名前)と非難し、自由党党首クロード・ライアンの妻マドレーヌを「イベット」と呼んだ。だがこの発言が公になると、年配の女性たちは「イベット」であることに誇りを持っていたし、若い女性たちは「イベット」は馬鹿にされていると感じたので、憤慨した。
 マドレーヌはこの発言を逆手に取り、政治集会を次々と開催した。3月30日、ケベック市のシャトー・フロンテナックで開かれた「イベットの枝」と称する集会には、1700人の女性が参加した。またモントリオールでは4月7日、1万4000人の女性が集会に参加し、パイェットの発言を非難し「ノー」支持を表明した。パイェットは州議会で謝罪した。
 他州の首相の多くが、ケベック独立国との経済的連合について交渉を拒否するとコメントしたので、「イエス」側は旗色が悪くなった。トルドー首相は投票6日前の5月14日、もしも「ノー」側が勝利した場合はカナダ憲法の改正に応じるという声明を発表した。多くの人々はこれを、ケベックの要求に沿う形で憲法を改正する公約と受け取った。

 1980年5月20日に実施された住民投票の結果は、「イエス」40.4%、「ノー」59.6%で否決となった。

 住民投票の敗北にもかかわらず、ケベック党政権は1981年の州議会選挙で、定数122のうち80議席を獲得する圧勝で再び信任を得た。いっぽう、連邦のトルドー政権はカナダ憲法改正の作業を再開した。彼はいわゆる「キッチンの妥協」により、カナダ諸州の協賛を得て1982年に新憲法制定を実現させたが、ケベック州は拒否権が認められなかったため、レベック州首相だけが批准を拒否した。
 レベックは後に独立問題を選挙の目的にしてはならないと主張し、独立を支持する強硬派の反発を買い、党首辞任を余儀なくされた。

 

 

●ミーチレイク協定
 (1) 全首相による憲法会議
 ケベック州は、1982年憲法を批准しなかった。だが連邦最高裁は、連邦政府がイギリス議会に1982年憲法の承認を請求することへの拒否権は、ケベック州にも他のどの州にもなく、新憲法はケベック州の異議にもかかわらず全ての州に適用されると判断した。
 1984年、進歩保守党のマルローニ党首はケベックと西部の「大連立」によって総選挙に大勝し、政権を奪取した。ケベック人の彼は、ケベック州だけが批准しなかった1982年憲法を、ケベック州が容認できる内容に改正し、ケベック州を憲法体制に取り込むことを公約した。いっぽうケベック州では1985年、自由党が分離主義のケベック党を下し、ロベール・ブラサが首相の座に復した。
 こうして連邦政府とケベック州政府は、トルドーとレベックの冷え切った関係を清算し、ともにまたケベック人ではあるが反分離主義者が首相となり、関係は好転した。マルローニ首相は1987年憲法改正に向けて動き出し、ブラサ首相が提示した5条件を全て丸飲みする形で草案作成にかかった。5条件は以下の通りであった。
・ケベックが「独特の社会」であることを憲法に明記すること
・憲法改正の拒否権をケベック州に与えること
・移民政策に関して州の権限を拡大すること
・連邦政府の支出権を縮小すること
・最高裁判所判事と上院議員の任命に州が参加すること
 マルローニ首相は、ケベック州チェルシーのミーチレイクにあるウィルソン・ハウス(「カーバイドの父」トーマス・ウィルソンの元別荘)に10人の州首相を招いて協議し、この5条件をもとにした憲法改正試案を作成して、1987年6月3日、11人の首相全員がこれに調印した。この「ミーチレイク協定」は3年後の1990年6月22日を期限に、全ての州議会の批准を得て憲法改正するものとした。

 

 (2) 反 対
テキスト ボックス: 各州首相。前列左からマッケナ(ニューブランズウィック)、ピーターソン(オンタリオ)、ブラサ(ケベック)、ブキャナン(ノバスコシア)、フィルモン(マニトバ)。後列左からパターン(ノースウェスト)、ゲッティ(アルバータ)、ギズ(プリンスエドワード島)、バンダーザム(ブリティッシュコロンビア)、デバイン(サスカチュワン)、ウェルズ(ニューファンドランド)、ペニケット(ユーコン)。 自由党は難しい立場に立たされた。ミーチレイク協定はケベック州では人気があったが、これは1982年憲法の改正案であり、これを支持することはトルドーの新憲法制定過程に瑕疵があったと認めることになるからである。だが反対すれば、自由党が地盤としてきたケベックの支持を失う危険があった。ジョン・ターナー党首は結局、協定支持に回った。新民主党のエド・ブロードベント党首もこれを支持した。だが新党・改革党のプレストン・マニング党首は、協定は憲法が定めた州間平等の原理に反するとして反対した。ケベック党も反対に回った。世論調査では当初、大多数のカナダ人が協定を支持していたが、反対派はしだいに数を増やしていった。
 反対理由の多くは、ケベックを「独特の社会」と認める条項にあった。ケベック以外では、ケベックに「特別な地位」を認めることに強い抵抗があった。連邦主義者のトルドー前首相は「連邦政府は連邦内のバランス保つため、何でも州の言いなりになるべきではない」「ケベックが独特であるのと同様に他州も独特である」「マルローニは諸州を売り渡した」と語り、協定に公然と反旗を翻した。自由党内の反対派議員は、すでに引退したトルドーに反対派のリーダーになるよう頼んだ。これは1984年の総選挙に敗北し、政権を手放したターナー党首への党内抗争の色彩を帯びていた。
 批判はさらに、協定が成立した経緯にも向けられた。国の将来を決めるのに連邦首相と州首相が密室で会談し、その経緯に国民が不在であることは、「ポスト人権憲章世代」にとって民主的でないと映った。
 協定はいくつかの州で選挙の争点となり、ニューブランズウィック州では1987年、協定に反対する自由党のフランク・マッケナが政権に就き、前政権の批准を撤回した。ニューファンドランド州では1989年、協定に反対する自由党のクライド・ウェルズが、17年続いた進歩保守党政権を倒して政権に就いた。
 1990年には国民の大多数がミーチレイク協定に反対するようになり、もはやマルローニ首相が公約達成のため意固地になっているに過ぎなかった。協定を何としても成立させるため、失効期限の前月、ジャン・シャレーの委員会は修正案を作成した。だがマルローニ側近のルシエン・ブシャール環境大臣は、これに抗議して閣僚を辞任した。離党した彼はケベック民族主義の議員を糾合して、分離主義の新党「ケベック連合」を旗揚げしたため、マルローニ首相は激怒し、夫人に「もし私が先に死んでも、ブシャールを絶対葬儀に参列させるな」と語ったという。

 

 (3) デッドライン
 協定を批准しないニューブランズウィック・ニューファンドランド・マニトバの3州のため、失効期限の20日前にあたる1990年6月3日に首相会議が開催され、新しい協定が作成された。10人の州首相全員が、再び「新」協定に署名した。その内容は以下のようなものであった。
1995年7月1日までに上院改革を行う。上院は選挙され、実効性を有し、真に州を代表するものとする。上院議席はケベック24、オンタリオ18、プリンス・エドワード島4、その他の州各8とする。
(筆者注つまりケベック24、オンタリオ18、西部32、東部28となる。現行憲法はケベック・オンタリオ・西部・マリタイムの各地域に等しい議席配分を定めており、現在は24議席で、ほかにニューファンドランドが6議席有するので東部は30となる)
・準州にも上院議員と最高裁判所判事を指名する権限を与える。
・男女平等を保証する。
・先住民とマリナリティ言語に関する会議を開催する。
・新しい州設置の手順を定めた「カナダ条項」に関し検討する。
 この首相会議でニューファンドランド州のウェルズ首相は、国民の多くが感じていることを口にした。
「我々は、憲法改正のために二度とこの方法を用いるべきではない。国民に内容を知らせることなく、11人の首相が密室で決めるのは、2600万の国民に甚だ不公平である。」
 彼は署名には州議会での同意が条件だとして、党議拘束なしの自由投票を行い、自分は投票に影響を与えないようにすると約束した。
 ニューブランズウィック州議会は6月15日、全員一致で協定を批准し、残るは2州となった。マニトバでも協定を承認するため、州議会が召集された。だがクリー族のイライジャ・ハーパー議員(新民主党)は、協定はフランス文化の尊重を謳っているが先住民の文化は尊重していないとして、反対を表明し、協定期限の12日前には議事妨害を開始した。マルローニ首相は「マニトバには協定を承認する義務がある」とコメントしたため、国民の強い批判を受けた。
 ニューファンドランド州のウェルズ首相は、連邦政府からの再三の突き上げに辟易し、期限切れ当日の6月22日「オタワの圧力に屈するくらいなら投票を中止する。これ以上操縦されるのはまっぴらだ」と語り、予定されていた州議会での投票中止を発表して、ミーチレイク協定にとどめを刺した。協定はすでに国民に見放されており、賛成票を投じれば選挙に差し支えるので、どのみち否決されるのは目に見えていた。連邦のローウェル・マレー政府間関係大臣は「ウェルズは最後の希望の綱を断ち切った」と非難した。
テキスト ボックス: ミーチレイク協定を潰して支持者にガッツポーズをするイライジャ・ハーパー議員。
 (4) 協定失効
 ミーチレイク協定失効後、世論調査はケベック州住民の過半数が「主権・連合」を支持することを示した。これはケベック州政府による、1992年までに主権もしくは新しい連邦に関する住民投票を開くことを約束したアレール報告書に至った。これを受けて199011月、マルローニ首相はキース・スパイサーを委員長とする「国家統一に関する市民フォーラム」を開催する。これが後に、新しい憲法協定につながっていくのである。
 オンタリオ州のデビッド・ピーターソン首相は、ミーチレイク協定成立のため積極的に働いたことで州内の強い批判に晒され、1990年の州議会選挙で敗北し、自身も議席を失って引退に追い込まれた。

 

 

●シャーロットタウン協定
 (1) 新たな協定
 ミーチレイク協定失効後、カナダは戦後最大の不景気を迎えたが、財政赤字は420億ドルにも達し、マルローニ首相は新しい連邦消費税(GST)を導入して、さらに景気を悪化させた。内閣支持率は史上最低の11%にまで落ち込んだ。
 1991年ジョー・クラーク元首相は憲法問題担当大臣となり、「国家統一に関する市民フォーラム」を受けて新しい憲法改正草案をまとめた。かくしてマルローニ首相は1992年8月28日、カナダ連邦発祥の地であるシャーロットタウンに連邦政府、州政府、準州政府、ファースト・ネーションズ会議、カナダ先住民会議、イヌイット同朋団、メティス全国会議の代表を招き、10人の州首相全員の承認を得て新しい憲法改正試案「シャーロットタウン協定」が成立した。マルローニ首相はミーチレイク協定での国民の不満に鑑み、クラークの反対を押し切って、新しい協定を国民投票にかけることとし、全国民と全ての州の過半数を得て憲法改正するものとした。
 シャーロットタウン協定はミーチレイク協定と同様、ケベックを「独特の社会と認める」こと、上院改革のほかに、先住民の自治、連邦権限の州への委譲が含まれていた。

・州政府が成立させた州法を覆す連邦政府権限を廃止する
・林業、鉱業、その他の天然資源と文化政策を連邦から州の管轄に委譲する
・「カナダ条項」に平等主義、多様主義と「ケベックは独特の社会である」と認める条項を入れる
・最高裁判所裁判官9名のうち3名はケベック州から選出する(筆者注ケベック州ではイギリスの慣習法ではなく成文民法を用いていたため)
・ケベック州は下院議席を常時25%以上有する
(筆者注ケベック州の人口は24%。現行憲法は、ある州が人口の少ない州より少ない下院議席を持つことを禁止している)
・「トリプルE(等しく、選挙された、実効的な)」上院
・上院は、フランス文化と言語に関する評決では議会の過半数とフランコフォン議員の過半数の両方を必要とする
・上院議席は全ての州に6議席、全ての準州に1議席を与え、将来は先住民に1議席を与える
・3年の猶予をもって先住民の自治政府を承認する
・ヘルスケア、福祉、教育、環境保護を推進する社会憲章を制定する

 

 (2) 世論の反応
 与党進歩保守党と、既成政党の自由党と新民主党は協定を支持した。先住民団体、英語系メディア、財界、労働組合、いくつかの女性団体も協定支持に回った。彼らはそれが単なる妥協案にすぎず、多くの欠陥を内包していると承知していたが、成立させなければ国家が分裂してしまうと危機感を抱いた。
 協定の最大の反対者は、またしてもトルドー元首相だった。彼は国民平等の観点から強く反対し、協定はカナダの終わりを意味すると主張した。
 分離主義のケベック連合とケベック党は、協定はケベックの要求を十分満たしていないとして反対に回った。ケベック州住民の多くはミーチレイク協定の失敗に懲りて、二番煎じの協定に冷ややかな目を向けた。
 西部を拠点とする新党改革党は“kNOw more”(もっと知ろう/もうたくさんテキスト ボックス: バンクーバー・アートギャラリー前での連邦派のデモ。“My Canada includes Quebec”“Mon Canada comprend le Québec”と書かれている。だ)のスローガンを掲げ、ケベック優遇に断固戦うとともに、上院改革が十分でないと主張した。ケベックへの反感から協定に反対した改革党は、民主主義を装うことに努めたが、彼らは反福祉・反フェミニズム・反移民・反環境だったため、いくつかの市民団体とくに女性団体が、公共サービス低下を懸念して協定反対を表明すると、改革党は世論の注目を集められなくなった。
 先住民団体は、自分たちに十分検討する時間が与えられないまま、一方的に二者択一を突き付けられたことにとまどった。「ケベックを独特の社会と認める」条項は、マスコミによって「白人は尊敬される民族だと憲法に盛り込むことに同意したら、先住民に自治を認めてやる」とはやし立てられた。また先住民の女性たちは、先住民の自治よりも女性の権利が保護されることに関心を抱いていた。
 ブリティッシュコロンビア州のキャスター、レイフ・メアは「協定は、ブリティッシュコロンビアやアルバータなど急成長している州の代価をもって、ケベック・オンタリオの中部ブロックが持つ権力を固定化する企てだ」と主張し、西部で支持された。
 ケベックと西部の「大連立」によって成立したマルローニ政権は、ケベックに憲法を批准させるためケベック優遇策を採る必要があったが、そこから来る西部の不満に対しては州権拡大と上院改革で懐柔し、ミーチレイク協定で起こった先住民からの不満には自治で懐柔するという、ケベック優遇を通すためにはなりふり構わぬ八方美人ぶりで、このような連邦権限の州への切り売りは、アナーキストの幻想であり、かえって国家を分裂に導くのではないかという不安が国民の間に広がっていった。
 協定に反対する人を「カナダの敵」と決めつけるマルローニ首相の尊大さもまた、問題視された。彼はケベック独立と国家の分裂、すなわち国民の愛国心を人質に取ってケベックを優遇する憲法改正を行うという悪質な脅迫を行っていた。また国民的英雄のトルドーですら成し得なかったケベックの憲法批准という歴史的事業を、彼が制定した1982年憲法を改正することで実現するというやり方は、トルドーにとっては悪夢でしかなかった。さらに、伝統的に自由党の基盤であるケベックを保守党が奪うためにケベックを優遇するするという露骨な党利党略は、国民のための政治にはほど遠かった。
 シャーロットタウン協定への支持率が低下するなか、ケベック州のブラサ首相は、悪性黒色腫を患い余命いくばくもないことを告白した。彼は協定成立に文字通り政治生命をかけた。国民投票の前日にはトロント・ブルージェイズがワールドシリーズを制し、愛国心が盛り上がって投票に影響を与えると言われた。

 

 (3) 投票結果
 19921026日、憲法改正を問う国民投票とケベック州での住民投票が行われた。その設問は以下の通りである。

“Do you agree that the Constitution of Canada should be renewed on the basis of the agreement reached on
August 28, 1992?”
(筆者訳:あなたは、1992年8月28日の合意に基くカナダ憲法改正に同意しますか?)

   州         賛成  反対  投票率
ケベック         43.3  56.7  82.8
ブリティッシュコロンビア 31.7  68.3  76.7
アルバータ        39.8  60.2  72.6
サスカチュワン      44.7  55.3  68.7
マニトバ         38.4  61.6  70.6
オンタリオ        50.1  49.9  71.9
ニューブランズウィック  61.8  38.2  72.2
ノバスコシア       48.8  51.2  67.8
プリンスエドワード島   73.9  26.1  70.5
ニューファンドランド   63.2  36.8  53.3
ユーコン         43.7  56.3  70.0
ノースウェスト      61.3  38.7  70.4
全  国         45.7  54.3  71.8

 全国と6州が協定を否決した。
 カナダ人の多くはケベックが優遇されすぎだと感じ、ケベック人はケベックの権限が小さすぎると感じて反対票を投じた。ケベック民族主義者と残りのカナダの間には大きな溝があり、妥協点を見出すことは誰にも困難であることは明らかだった。協定否決を受け新聞は「ケベック問題・東西対立・先住民問題は開けてはならぬパンドラの箱であり、これを開けた政治家は自爆することになる。マルローニはカナダの民族問題をこれ以上ないほどにまでこじらせた。今後の政権はケベック問題は見ざる、言わざる、聞かざるで無視を決め込むのが最善だろう」と、ケベック民族主義者に妥協案を提示することの危険性を訴えた。マルローニの失敗の教訓に学んだクレティエン首相はこれをよく守り、ケベック問題には無関心を決め込んで10年の長期政権を維持したが、政権末期にはスポンサーシップ事件で介入し自爆した。

 

 (4) シャーロットタウン協定の影響
 連邦首相と全ての州首相との合意が国民投票で拒絶されたという事態は、あまりにも重大であった。しかもマルローニと多くの州首相にとって、これは2度目であった。総辞職するだろうという大方の予想に反し、マルローニは「これからは経済建て直しの時だ」と居直ったが、下院任期はあと1年しかなく、北米自由貿易協定(NAFTA)を締結して辞任するのは目に見えていた。
 マルローニは翌年2月に引退を表明し、後継党首選びが始まったが、再登板を希望したクラーク元首相は、憲法担当大臣として協定に責任があった人を選挙の顔にするわけにはいかず、周囲に反対され政界を引退した。マルローニは自分が失敗した場合に備え、ライバルのクラークにいい思いをさせないよう、あらかじめ責任をなすり付けておいたのである。マルローニは6月23日、連邦議会でNAFTAを批准し最後っ屁をかまして2日後に総辞職し、政界を引退した。余談だが、彼は新居のリフォームが間に合わないという理由で首相官邸から立ち退かなかったため、後任のキャンベル首相は首相別荘で政務を執った。マスコミは何の疑いもなく彼を「史上最低の首相」と酷評した。

テキスト ボックス: 「トルドー廟」の前で目眩を覚えるマルローニ。1982年憲法を制定したトルドーは国民的英雄の座に登りつめたが、憲法改正に失敗したマルローニは史上最低の首相と呼ばれた。 国民は、シャーロットタウン協定に関わった全ての者に鉄槌を下さずにはいられなかった。協定否決のちょうど1年後の19931025日、下院選挙で進歩保守党はわずか2議席と歴史的惨敗を喫する。新民主党もわずか9議席と、史上最低の結果に終わった。伝統的にケベックに支持基盤のない新民主党が協定を支持したことは、戦略的に誤りであり、西部の同党の支持者の多くが右翼の改革党に投票した。こうして既成政党が没落するいっぽう、協定に反対した二つの新党改革党とケベック連合が躍進した。これは一過性の出来事と考えられたが、その後も改革党は野党第一党の地位を不動のものにし、ケベック連合もケベック州の第一党であり続け、進歩保守党は二度と党勢を回復することなく2003年に消滅した。シャーロットタウン協定はマルローニ政権だけではなく、カナダ政界を根本から変えたのである。カナディアン・プレスは1992年、「今年話題の人物」に史上初めて人間以外で「シャーロットタウン協定」を選出した。
 協定に関するケベック自由党の分裂は、その後のケベック民主行動党の結成に至った。ブラサ首相は1994年に政界を引退し、ダニエル・ジョンソンJr.が後継総理・総裁に就任したが、その年の州議会選挙でケベック党に敗れ政権を失った。ブラサは1996年にこの世を去った。
 シャーロットタウン協定によって、ケベック民族主義者は連邦政府との交渉に見切りをつけ、独立への動きを活発化させていく。こうしてケベックは、1995年の2度目の住民投票へと突入していくのである。

 

 

1995年住民投票
 ケベック連合は1993年、初めて臨んだ下院選挙でいきなり野党第一党に躍り出た。ケベック州首相ジャック・パリゾーはこれを好機と見て、ただちに新たな住民投票実施に動いた。
 住民投票の設問は、以下のようなものであった。

“Acceptez-vous que le Québec devienne souverain, après avoir offert formellement au Canada un nouveau partenariat économique et politique, dans le cadre du projet de loi sur l'avenir du Québec et de l'entente signée le 12 juin 1995?”
(筆者訳:あなたは、「ケベックの未来に関する法案」及び「1995年6月12日に調印された合意」の範囲内において、カナダとの新しい経済的かつ政治的パートナーシップを築くための公式な申請をした後、ケベックが主権を持つべきであることに同意しますか?)

 「1995年6月12日に批准された合意」とは、またの名を「主権に関する三党合意」とも言い、ケベック党のジャック・パリゾー党首、ケベック連合のルシエン・ブシャール党首、ケベック民主行動党のマリオ・デュモン党首との間の合意のことで、住民投票での承認後1年以内に立法権・徴税権・外交権を含む主権を宣言し、カナダとの経済的・政治的パートナーシップを樹立し、カナダ・ケベック間の理事会・共同議会を設立するという内容である。1980年の住民投票がカナダ政府との「主権・連合」を問うたのに対し、1995年の住民投票は、テキスト ボックス: 左からジャック・パリゾー党首(ケベック党)、ルシエン・ブシャール党首(ケベック連合)、マリオ・デュモン党首(ケベック民主行動党)。残りのカナダとのパートナーシップにおける「主権」が問われることになった。

 (1) 先住民の動向
 先住民諸集団は、ケベック州の大部分が自分たちの土地であると主張している。ケベック北部の先住民クリー族とイヌイットは、自分たちにケベック独立国に参加することを強制するのは国際法違反にあたるとして、「イエス」が勝利しケベック州が独立の権利を行使した場合、自分たちも民族自決権を行使すると述べ、独立への動きを強く牽制した。また彼らは19951024日、独自の住民投票を実施した。その設問は次のようなものだった。
“Do you consent, as a people, that the Government of Quebec separate the James Bay Crees and Cree traditional territory from
Canada in the event of a Yes vote in the Quebec referendum?”
(筆者訳:ケベック住民投票において『イエス』が多数だった場合、ケベック州政府がジェームズ湾クリー族とクリー族地域をカナダから分離することに、あなたは民族として同意しますか?)
 僻地にもかかわらず、投票率は実に96.3%にものぼり、そのうち77%がカナダ連邦残留の意志を表明した。

 ヌナビックのイヌイットも、独自の住民投票を実施した。その設問は次のようなものだった。
Do you agree that Quebec should become sovereign?
(筆者訳:あなたはケベックが独立すべきであることに同意しますか?)
 イヌイットもまた96%が、ケベック独立に反対する意志を投票で示した。

 

 (2) 分離派の勢い
 1982年憲法で独特の地位を認められず、ミーチレイク協定もシャーロットタウン協定も破綻したため、ケベック州民には大きな失望感が残り、選挙戦序盤は分離派がリードすることになった。ポール・マーチン財務相は「もしケベックが独立すれば、100万の職を失うことになるだろう」と語ったが、このような連邦主義者による恫喝とも取れる発言は、逆に分離派を勢いづけた。
 199412月、ブシャール党首は壊死性筋膜炎のため左足を切断した。難病と闘いながら独立に向かって突き進む彼の姿は、「イエス」側への強力な追い風となった。彼は投票3週間前には「ケベック人とは白人のことだ」という失言を犯したが、勢いは止まらなかった。
 投票2週間前の世論調査では、「イエス」側が「ノー」側に5%の優位を示し、あたかも来月にもケベックが独立するかのような空気が漂った。パリゾー首相は「イエス」側が勝利した場合、2日以内にケベック州議会を召集し、主権法案への承認を諮ると語った。さらに、ケベック独立の最初の行動として「手をカナダの隣人にまで広げ」、それからカナダ連邦政府と交渉し、交渉が失敗に終わった場合は独立を宣言すると発表した。
 ブシャール党首は1027日、ケベック州の全ての軍の基地に対し、ケベック独立に備えケベック国防軍の創設を求めた。彼は明らかにカナダの軍人に対し、利敵行為に勧誘した。そこでデビッド・コルネット国防大臣は、ケベックと交渉する際に人質となるのを防ぐため、CF-18戦闘機をケベック州外に移すよう命じた。
 連邦内閣の閣僚は、国境、連邦への負債や、ケベック選挙区で選出されたクレチエンがカナダ首相のままでいられるかどうかなど、法的問題の検討に入った。

 (3) 連邦派の巻き返し
 危機感を抱いた連邦主義者は、1024日におよそ1万人にものぼる集会を開催し、クレチエン首相はそこで、より多くの権限をケベックに与える憲法改正を約束するという、かつてマルローニ首相が火だるまになった禁じ手を使おうとした。この後、世論調査は「ノー」が「イエス」をわずかに上回ったと発表したが、それらはいずれも2%以下の優位であり、誤差の範囲内に過ぎなかった。
 投票3日前の1027日には、モントリオールのダウンタウンで、10万人の市民がケベック州外から動員され、カナダ統一を祝う「統一集会」を開催し、ケベック州民に「ノー」に投票するよう働きかけるキャンペーンを大々的に行った。スポンサー企業がデモ参加者に無料で交通機関を提供するなど違法な協力がみられたが、会社所在地がケベック州外だったため、法的責任を追及されることはなかった。

 (4) ケベックの一番長い日
 19951030日に実施された住民投票は、地方から順に開票された。7割開票の時点では「イエス」がわずかにリードしていたが、大都市モントリオールでは有権者の多くが「ノー」に投票した。投票率は実に94%にも及び、結果「イエス」49.42%、「ノー」50.58%で際どく否決となった。フランコフォンの60%は「イエス」に投票したが、アングロフォンの90%とアロフォン(母語がフランス語でも英語でもない)の90%は「ノー」に投票したことが判明した。
 国家元首の地位にあと一歩まで手が届きながらそれを掴みそこねたパリゾー首相は、うかつにも支持者の前で「金とエスニックのせいで負けた」と口走った。この発言はケベック独立問題が、ケベック州民みなのためのものではなくフランス系のためのものであるかのごとき発言であり、総理・総裁辞任を余儀なくされた。
 この日、連邦派のケベック自由党党首ダニエル・ジョンソンJr.の事務所が焼き討ちにあい、内部がほぼ全焼した。また数百人の分離主義グループが、勝利集会を行っている連邦派の会場に押しかけ、投石やメープルリーフの国旗を燃やすなどの騒ぎを起こし、警官隊と衝突した。

 

 

●明確化法
 クレチエン首相は1995年住民投票の際、州独立に関する憲法上の規定を改革すると語ったが、その後改革は、憲法改正には州の同意を必要とするというごくわずかなものに終わった。首相はまた、ケベック独立の法的妥当性について連邦最高裁に判断を求めた。最高裁は1998年8月、ケベック州の一方的離脱はカナダ憲法及び国際法に違反しているが、カナダ政府はケベック州民による住民投票での分離表明は尊重すべきであるとし、さらに住民投票の設問が明確に独立を宣言したものであり、それに対し明確な多数の同意が得られなければならないものとした。
 この判決には法的拘束力はなく、ここで言う「多数」についても定義づけがなされていなかったが、クレチエン政権はこれを受けて2000年「明確化法」を制定した。そこには、将来のどんな住民投票でも明確な設問の上になければならない、そして明確な多数派の同意がなければならないと定められた。しかし「明確な多数派」が具体的にどの程度を指すのか、単に半数を1票上回ればいいのか等については明確に定義されず、その解釈を事後的にどのようにでもできる余地を残したのではないかと言われた。
 これに対しケベック党政権は、自決権に基づきケベック州だけがケベックの将来を決定できるとする99号法案を成立させた。

 

 

●「ケベックはカナダの中の国」決議
 (1) ケベック民族主義者の動き
 ケベック民族主義者は、ケベック州を国に改称する運動を推し進め、1968年に「州議会(provincial Legislative Assembly)」を「国民議会(National Assembly)」に改称した。また州都ケベック市の周辺を「首都(Capitale-Nationale)」地域に、州立公園を「国立公園(Parcs-Nationales)」と改称した。
 2003年、ケベック州議会が「ケベック人は国を構成する」動議を採択した。2006年6月には、ケベック党のアンドレ・ボワクレール党首とケベック連合のジル・デュセップ党首が、ケベックを国として認めるようハーパー首相に要求して拒否された。

 (2) 自由党の思惑
 自由党は、スポンサーシップ事件でケベック州での支持を失い、2006年総選挙で政権を失った。そこで自由党ケベック支部は、ケベック州における支持回復を狙い、10月の州党大会でケベックを国と認める決議を採択した。
 このころ連邦自由党は党首選を行っていたが、8人の候補のうち、政治学者のマイケル・イグナチェフ候補がケベックを国と認める発言をした。これについてジャスティン・トルドー氏(トルドー元首相の子息)は「党首としての資質を欠いている」と非難した。またステファン・ディオン候補はイグナチェフを「トラブルメーカー」と呼んだ。この問題は党首選に影響し、本命視されていたイグナチェフ候補のまさかの敗退と、ダークホースと見られていたディオン候補の当選につながった。

 (3) 2つの動議
 ケベック連合のデュセップ党首は20061121日、「ケベック人は国(nation)を構成する」と認める動議を下院に提出した。彼はこの動議は否決されるだろうと考えたが、英語系カナダ人がこれを拒絶したと示すことが自党の立場にプラスすると考えた。もちろん動議が可決されれば、これをケベック主権を宣言する根拠とすることができる。
 それまでこの種の議論を「言葉の定義上の争いに過ぎない」として無視してきたハーパー首相は翌日、ケベック連合提出の動議が採決される前に独自の動議を提出した。この動議の英語バージョンは“Quebecer”を“Quebecois”に変え、またケベック連合の動議に「連合する(united)カナダの中の国」を付加したものだった。ハーパー首相はこの動議について、ケベック人のカナダにおける歴史的地位を認めることを強調しつつ、ケベック連合が提出した動議は、ケベック州をカナダから独立させるためにすべてのケベック人を独立分子の追随者にさせる企てであると指摘した。彼は、英語系カナダ人に動議を拒絶させることでケベック連合が利益を得ようとするのを見抜き、主要4党が受け容れ可能なギリギリの修正案を模索し、自党はあくまでも動議に賛成するとともに、ケベック連合を逆に動議に反対させようと図ったのである。ハーパー首相の動議は、ケベック連合の動議が採決されるより先に、また自由党党大会が始まる1129日より前に採決される必要があった。

 

 (4) 各党の動向
 ケベック連合はハーパー首相の動きを、あまりに党派的・戦略的だとして強い拒否反応を示した。デュセップ党首は議員に、ハーパー首相の「パルチザン」戦術に応じないよう説得した。デュセップ党首は議会で演説した。
 「ケベックの未来はケベック人のものである。ケベック議会においてケベック人だけが自身の未来を決めることができる。連邦議会でケベックを国と認めることは、記号論や党派心以上のものである。」
 ケベック連合のミシェル・ゴティエ下院幹事長は、ケベック連合提出の動議に対し、ケベックは「現在の(actuellement)カナダにおいて」国を構成するという修正案を提出した。これに対し自由党のルシエンヌ・ロビラール副党首は、「連合するカナダの中の」を付加し「現在のカナダにおいて」を削除する修正案の修正案を申し入れた。だがケベック連合は「連合するカナダにおいて」の付加には同意したが、「現在のカナダにおいて」の文言の維持に固執した。ロビラールがこれに同意しなかったため、彼女の修正案は廃案となった。
 自由党のビル・グラハム暫定党首は、国家統一を維持するため、各党は自党の立場を放棄して首相の動議を支持すべきだと主張した。新民主党は首相とケベック連合に対し、双方の動議を支持すると表明した。こうしてハーパー首相の動議は保守党・自由党・新民主党の3党の支持を受け、可決を確実なものにするいっぽう、ケベック連合の動議は絶望的となった。
 デュセップ党首は、自らが描いたシナリオをぶち壊しにされたことに憤慨したが、ケベック州のジャン・シャレー首相は、ケベック人の利益のため首相の動議を支持するよう求めた。ケベック民主行動党のマリオ・デュモン党首は、ケベック州の利益のために行われるべき連邦体制改正論議に道を開くものであるとして、首相の動議を評価した。ケベック党のボワクレール党首は、首相の動議で「国」という文言が使われたことを評価しながらも、憲法改正が行われないことを非難した。これらの動きを見てケベック連合は24日に方針を転じ、ハーパー首相の動議に賛成することを決定した。

 (5) 採  決
 採決は1127日に行われた。このとき下院の定数は308議席だったが、欠員が2名あり議員数は306名であった。ハーパー首相提出の動議は、26616の圧倒的多数で可決された。欠席は21名、棄権は3名であった。これを受けて議長が宣言した。「本院は、ケベコワが連合するカナダの中で国を構成すると認める」。(This House recognize that the Quebecois form a nation within a united Canada
 続いて下院は、ケベック連合の動議を否決した。新民主党とケベック連合議員は全員が投票した。
 保守党議員は首相から動議に反対しないよう厳命され、造反者は幹部会から追放されることになっていたが、6名が欠席した。その全員が西部選出議員だった。マイケル・チョン政府間関係大臣は、動議は曖昧であり、また民族主義を助長することにつながるとして大臣を辞任し、投票を棄権した。
 反対票を投じた16人のうち15人は自由党議員で、1名は無所属だった。

 ケベック州議会は30日、連邦議会でケベックを国と認める動議が採択されたことを肯定的に受け容れつつ、この決議によってケベック州議会及びケベック州民の権利・権限が削減されるものではないとする3党共同動議を採択した。

 

 

 

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