●社会信用党The Social Credit Party of Canada/Parti Crédit social du Canada)

 社会信用党→東西に分裂→統合→クリスチャン自由社会信用党→クリスチャン自由党→消滅

【歴代党首】
初 代 ジョン=ホーン・ブラックモア(1935〜1944)
第2代 ソロン=アール・ロー(1944〜1961)
第3代 ロバート=ノーマン・トンプソン(1961〜1967)
第4代 レアル・カウエット(1972〜1976)
第5代 アンドレ=ジル・フォルタン(1976〜1977)
第6代 ローヌ・レズノースキー(1978)
第7代 フェビアン・ロイ(1979〜1980)
第8代 マーチン・ハッタースレー(1981〜1983)
第9代 ケン・スウェイガード(1983〜1986)
第10代 ハービー・レインソン(1986〜1990)
第11代 ケン・キャンベル(1990〜1993)

 

 (1) ダグラスの社会信用論
 クリフォード=ヒュー・ダグラス(18791952)はイギリス空軍の少佐だったが、航空機工場で生産管理と原価計算に従事するうち、ある矛盾に気がついた。商品の価格を調べてみると、その大部分を構成しているのは生産設備の減価償却費や銀行への返済や研究開発費などで、労働者の賃金はわずかな部分を占めるものでしかなかったのである。彼は1919年から「ニュー・エイジ」に経済理論の論文を掲載し、翌年それをもとに「経済的民主主義」という著書を出した。
 ダグラスは、資本主義経済では製品は過剰に生産され、それが輸出によって解決されようとするために国際間の紛争が起こるというイギリスの経済学者J・A・ホブソンの考え方にも共感を表明し、戦争を防止するためにも国内の購買力を高める必要があると考えた。1921年出版の「信用のテキスト ボックス: ヒュー・ダグラス。力と民主主義」、1924年出版の「社会信用論」では、数式を駆使して自説を理論づけていった。
 その理論の根幹を成したのは、「A+B理論」と呼ばれるものだった。消費財の価格はA(賃金・俸給・配当)の部分とB(原材料・利子費用・減価償却費など)の部分から成るが、労働によって資本家はAとBを得るのに対し、労働者は賃金としてAだけしか得られず、働けば働くほど搾取されることになり、またAによってA+Bの価値のものを購入することはできないから、消費者はBの分の購買力を供与されるべきだと考えた。なお今日では、世界の総商品に対し総賃金は、2割に満たないと考えられている。
 そこで、勤勉な人には「社会信用」があるから、その「社会信用」を担保として国は国民に配当すべきだというのが社会信用論の骨子である。ダグラスは、不況を回避するには国が国民に「信用」を供与し、購買力を活性化する必要があると訴えたのである。
 社会信用論を最も簡単に理解できるたとえ話として、A・R・オレージは「劇場の座席数と同数の入場券を発売する」という話を挙げている。財を座席数、貨幣を入場券にたとえ、不況や失業は「入場券」の数が「座席数」より少ない数しか発行されていないから起こっているというのである。
 1930年代の世界恐慌はダグラスの正しさを裏付けたように見え、その後の出来事はことごとく彼の予想通りとなり「経済学のアインシュタイン」とさえ呼ばれた。国際的名声を得た彼は1923年にカナダ銀行経営調査会議、1930年にはマクミラン委員会で証言を求められた。数回にわたる世界ツアーではカナダ、オーストラリア、ニュージーランドで講演し、1929年には東京の世界工学会議でもスピーチしている。1935年にはオスロ・マーチャントクラブでノルウェー国王とイギリス公使の列席のもとで重要な講演を行い、同年アルバータ州政府の主席経済再建顧問に任命された。だがカナダ連邦政府は、ダグラスの勧告の立法化をあらゆる手段で阻止した。
 ダグラスの考えの根底にあった、購買力を高めるには信用を拡大する必要があるとする考え方は、今日では景気刺激策として普通に採られている。だが金本位制度に強く固執していた当時の政治家や経済学者にとって、彼の説はとうてい受け容れがたいものだった。イギリス労働党は1922年ダグラスの説を退け、ヒュー・ゲーツケルは「科学というよりむしろ宗教改革」と語っている。共産党も「信用を拡大して価格を下げるという両方のことはできない」としてダグラスの説を否定した。信用を拡大すればインフレを伴うという共産党の見解は正しかったが、景気を刺激するために信用の拡大が必要であることは故意に見過ごされた。

 ケインズは1935年、「雇用・利子および貨幣の一般理論」において「A+B理論はまやかしに過ぎない」と断定し、「ダグラス少佐が彼のB項目を、取替および更新のための当期の支出をともわない企業者の金融準備に限定していれば、彼はいっそう真理に近づくことができたであろう。しかしその場合でさえ、これらの準備金が新投資によって相殺される可能性を考慮することが必要である」と説明した。社会信用論は、第二次大戦までには説得力を失っていた。

 

 (2) 社会信用党の本質
 社会信用党は、ダグラスの社会信用論に基づきイギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、ソロモン諸島で結成されたが、政権獲得したのはカナダ西部だけだった。現実の社会信用党は例外なく最後にはダグラスの理論を否定し、キリスト教保守主義に傾倒した。キリスト教では教会を現実に合わせ改革することがしばしば起こるが、社会信用党は現実の世界をキリスト教に合わせ改革しようと試みたという点において特筆されるべきである。

 (3) カナダ社会信用党の結成
 世界恐慌はカナダ西部の農民の生活を直撃した。社会信用党と、社会民主主義の協同連邦党はこれがきっかけで創設されたものである。
 戦後長く平和と経済成長が続くなかで、恐慌の時代に考案された社会信用論は次第に矛盾を露呈し、カナダ社会信用党は1960年代には事実上これを放棄した。だがケベックのレアル・カウエットは真のビリーバーで、カリスマ福音伝道士でもあった。彼は社会信用論とケベック民族主義を融合させ人気を博した。また他に先駆けて英仏二か国語政策を主張し、国会議事堂内の食堂メニューを二か国語表記に変えさせている。
 1960年代の初め、党内にはアングロフォン派とフランコフォン派の間に抜き差しなテキスト ボックス: レアル・カウエット。らぬ対立が生じた。党の基盤は西部にあり、アルバータでは1935年から1971年まで与党、ブリティッシュ・コロンビアでは1952年から1972年と1975年から1991年まで与党と、州レベルにおいては西部で圧倒的な強さがあった。だが連邦レベルでは、ケベック選出議員が次第に増加していったのだった。
 1960年、党首選でアルバータのロバート・トンプソンとカウエットが対決した。ところがアルバータ州首相で連邦社会信用党を牛耳っていたアーネスト・マニング(改革党創設者プレストン・マニングの父)は、党首選に先立ち「アルバータはフランコフォン・カトリックを絶対に党首として認めない」という声明を発表した。そしてトンプソンがカウエットを下して党首に当選したと発表されたが、その内訳は公表されなかった。多くの党員は真の勝利者はカウエットで、投票結果はトンプソンによって捏造されたという疑いを抱いた。しかし1962年総選挙で、当選した30名のうち26名がケベック選テキスト ボックス: アーネスト・マニング。出議員となり、西部はわずか4議席に終わる。トンプソンはカウエットの勢力を無視できなくなり、副党首に就けた。

 (4) 分 裂
 1963年総選挙で社会信用党は24議席に減少したが、トンプソン党首は辞任を拒否したため、カウエットらケベック議員はフランス語で「信用運動(Ralliement des créditistes、後にRalliement créditiste)」を旗揚げし、社会信用党は事実上東西に分裂した。ケベック議員20人のうち13人がカウエットの「信用運動」に加わり、2人が進歩保守党に移籍し、5人は無所属となった。
 1967年総選挙でわずか5名となった西部社会信用党は、進歩保守党との合併を模索したが果たせなかった。トンプソンは1967年党首を辞任して離党し、1968年総選挙では進歩保守党から出馬した。1968年総選挙では、「信用運動」が14議席を獲得するいっぽう、西部社会信用党は西部の最後の議席を失った。
 こうして1971年、ケベックの「信用運動」と西部の社会信用党は再統合する。カウエットは党首選で3人の挑戦者を破り党首に就任した。だが不運にもスノーモービル事故に遭い、政治活動が不可能になると党は急速に求心力を失っていった。カウエットは1976年に死去した。

 

 (5) クラーク内閣不信任
 1979年総選挙では、定数282のうちジョー・クラーク率いる進歩保守党が136議席を獲得し、少数与党政権を築いた。同党は過半数にわずか6議席足りないだけだったが、右派の社会信用党がちょうど6議席持っているため、連立すれば安定政権を築くことができた。だが「原理原則の人」クラーク首相は譲歩を嫌い、統一会派を作って社会信用党に公認政党の地位を与えることを拒否した。そればかりか、社会信用党のリシャール・ジャネル議員に自党への入党を勧めた。
 同年12月、与党提出の予算案に対し、社会信用党はガソリン税収益をケベック州に割り当てるための修正を迫った。だがクラーク首相がこれを拒否したため、社会信用党は予算案採決の棄権を決意する。いっぽう野党自由党は、入院中の議員を救急車で引っ張り出してまで反対票を投じさせ、予算案を否決させ、クラーク首相を解散・総選挙に追い込んだ。そして翌年2月の総選挙は、クラーク政権だけでなく社会信用党をも吹き飛ばした。重要案件においてささいな取引を迫り、受け容れられないと見るや棄権するという策略は、国民の反感を買ったのである。社会信用党は全ての議席を失い、その後二度と回復することはなかった。

 (6) その後の行方
 地方の社会信用党は、ブリティッシュコロンビア州では1991年まで、アルバータ州では1971年まで与党であった。マニングは1968年の州首相退任後、1970年にカナダ上院議員に任じられ、社会信用党唯一の上院議員となった。彼は1983年に引退し、連邦議会における社会信用党の歴史に終止符を打った。社会信用論は銀行を敵視したが、彼は政界引退後に銀行の取締役になった。
 1990年に最後の党首となったケン・キャンベル牧師は、党名を「クリスチャン自由社会信用党」、後に「クリスチャン自由党」に変更したが、1993年総選挙で最低50人の候補者を擁立することができず、選挙管理委員会によって政党登録を抹消されカナダ社会信用党は消滅した。現在はキャンベル個人の所有となり、キリスト教理念に基づく政治的出版物を発行する「有限会社カナダ社会信用党」として今日も存在している。
 1968年、西部社会信用党が最後の議席を失ったとき、多くの党員は進歩保守党に加わりポピュリスト・グループを成した。その後ケベックでも党が崩壊し、党員の多くは進歩保守党でケベック民族主義グループを成した。両者はマルローニ党首のもとで「大連立」を形成し、1984年総選挙大勝利の立役者となったが、ミーチレイク協定を契機に離党し、後者はケベック連合を結成し、前者の多くは改革党、一部はクリスチャン・ヘリテージ党に流れて行った。衆知の通り改革党は後にカナダ保守党となり、現在の与党である。社会信用党は今日存在しないが、政界再編の重要なファクターを務め、そのポリシーは今も生き続けていることになる。

 

 

 

●世界初の社会信用政権−「繁栄証書」の実験

 政府が国民に「社会信用」を供与するというダグラスの社会信用論は、カナダ社会信用党では、政府が住民に月々25ドルの「社会保障費」を支払うという公約として表れた。だがこの公約は、実際には実現することはなかった。
 カナダ社会信用党が初めて挑んだ選挙は、1935年のアルバータ州議会選挙であった。この選挙はカナダの歴史上、最も恥ずべきものとなった。社会信用党の選挙運動は反対党のポスターを傷つけたり、クラクションを鳴らして演説を妨害することであり、また彼らの演説も、多党の批判ばかりだった。
 当日の投票率は80%にものぼり、この記録は今日も破られていない。結果は定数63のうち、与党農民連合が39議席から0議席に転落するいっぽう、社会信用党は56議席の絶対多数を獲得し、世界初の社会信用政権を樹立した。翌日のボストン・グローブ紙は「アルバータは狂ったのか!」という見出しを打った。多くの歴史家が、この選挙を北米政治史上最も大きい変化をもたらしたものだとしている。

 アルバータ社会信用党政権は、大恐慌の打撃を軽減するため1936年、「繁栄証書」の発行に踏み切った。それは1ドル相当の価値で流通するものだった。証書保有者は、その効力を維持するため毎週1セントの切手を貼り付けなければならなかったが、この手間は住民には不評で、しかもしばしば切手は脱落した。州政府は、公務員給与の一部を繁栄証書で支払った。
 やがて新聞は“funny money”と呼ばれた「繁栄証書」ボイコット運動を始めた。そもそも通貨の発行は連邦政府の権限であり、銀行法第138条に抵触していた。そして「繁栄証書」の実験は、わずか1年で終了した。

 社会信用党政権はさらに、州内の銀行を州の統制下に置く2つの法案を議会で可決させたが、ジョン・ボーエン副総督が署名を拒否して廃案にした。副総督と政府の関係は一気に険悪化し、副総督は解散の大権行使すら示唆して「憲法危機」を招いた。この問題は法廷に提訴され、連邦最高裁は後に、金融及び財政は連邦政府の管轄であるとして、一連の法案は違憲立法であると断じた。

 

 

 

ブリティッシュコロンビア社会信用党

 ブリティッシュコロンビア社会信用党が初めて政権に就いたのは、1952年のことである。W.A.C.ベネットの政権が20年、その息子ビル・ベネットの政権が10年8か月続いた。社会信用論を放棄した党の政策は、実質的にはポピュリズムと保守主義であり、その実態は連邦自由党とキリスト教保守主義の緩やかな連合であった。党の経済政策は自由競争主義を標榜していたにもかかわらず、W.A.C.ベネット首相は1958年、BCフェリーとブリティッシュコロンビア銀行を創立し、1961年にはBC電力公社を設立している。

 (1) バンダーマニア
 1986年に党首に就任したビル・バンダーザムは、名前でわかる通りオランダ出身(Vander ZalmFrom the salmon)で、1947年ブリティッシュコロンビアに移住した。元は自由党員で、1969年から75年までサーレー市長を務めている。1975年にブリティッシュコロンビア州会議員に転進し、75年から78年までビル・ベネット内閣の人的資源大臣を務め、福祉詐欺反対運動に尽力した。1978年から81年までは市町村担当大臣、1981年から83年までは文部大臣を務テキスト ボックス: 州議会選挙勝利に歓喜するバンダーザム(右)とリリアン(左)。めている。だがベネット首相と閣僚を「意気地なし」と非難したため、閣僚を罷免されてしまう。
 バンダーザムは1983年、無所属候補としてバンクーバー市長選に出馬するが落選。ベネット首相はこれを見て「バンダーザムは引退した」とコメントした。バンダーザムはリッチモンドに土地を購入して1984年、オランダ風の風車のついた聖書テーマパーク「ファンタジー・ガーデン・ワールド」を開業する。誰もが彼の政治生命は終わったと思った。
 だがバンダーザムは1986年、社会信用党の党首選に突如打って出た。彼の映画スターのような端正な顔立ちと笑顔、そして頭にヘッドバンドを巻いた妻リリアンは人々を魅了した。ファンタジー・ガーデン・ワールド−夢の世界−の中にあるオランダ風の城に暮らす二人は熱狂的な「バンダーマニア」を生み、彼女たちはファンタジー・ガーデンで販売される「リリアン・バンド」を頭に巻いてバンダーザム夫妻を応援した。こうしてバンダーザムは党首選に勝利し、ブリティッシュコロンビア州首相の地位に就いたのである。
 首相に就任して間もなく、州議会選挙が行われた。バンダーザムは政策を決して訴えることなく、「新しいスタート」「刷新」「希望」の抽象的なスローガンだけを掲げたイメージ選挙に徹し、討論も拒否した。いっぽう、有力野党であるブリティッシュコロンビア新民主党のボブ・スケリー党首は、インタビューで持病の発作を起こしてしまい、「きのう間違ってチューリップの球根を食べたせいだ」とジョークでかわそうとしが、それはバンダーザムをはじめとするオランダ系移民がナチス占領時代にチューリップの球根を食べて飢えを忍んだことへの侮辱と受け取られテキスト ボックス: ファンタジー・ガーデン。た。選挙は社会信用党の圧勝に終わった。

 (2) ファンタジーの終焉
 バンダーザムは、親友のデビッド・プールを主席秘書官に任命した。プールは選挙の洗礼を一度も受けなかったにもかかわらず、首相に何を陳情するにもプールを通さなければならず、彼は州でナンバー2の権力者となっていた。党重鎮のグレース・マッカーシーは1988年、これに抗議して閣僚を辞任した。
 バンクーバー博覧会「エキスポ86」は彼の功績の一つだが、ここでも友人のピーター・トイゴ氏にエキスポでの商売に便宜を図った疑惑が取り沙汰された。
 また170万ドルで購入したファンタジー・ガーデンを、1991年台湾人実業家タン・ユー氏に1600万ドルで売却したことが報道された。しかもその後タン・ユー氏が副総督から昼食に招待された事実が発覚すると、人々はバンダーザム首相がタン・ユー氏から賄賂を受け取る代わりに政界へのルートを提供したと考え、一大スキャンダルに発展した。ポピュリズム政治は西部ではよく見られるが、バンダーザムは党内主流ではなく、その政権運営は彼個人の人気に大きく依存していたため、彼が利益供与によってリーダーシップを確立しようとしたのは宿命的なものだったともいえる。バンダーザムはガーデン売却の責任は妻にあると主張したが、これは少し前にリクルート株を譲渡された政治家が「妻の責任」と言い訳したのを連想させた。
 さらにその後、レイノルズ環境大臣が連邦議会で偽証して辞任すると、このままでは総選挙は戦えないとして、17以上の支部が党本部に造反した。ガーデン売却の責任者は首相自身だったとする報告書を調査委員会が公表すると、バンダーザムは1991年4月、ついに辞任に追いこまれた。

 (3) 転 落
 同じ日、副首相のリタ・ジョンストンが暫定党首に選ばれ、副総督より州首相に指名された。このころ連邦のマルローニ首相は支持率を大きく下げ、代わって新民主党が世論調査1位となり、オードリー・マクラフリン党首が初の女性首相になると期待する人がいるいっぽう、マルローニ首相が辞任しバーバラ・マクドゥーガル外相が初の女性首相になると考える人もいた。だがカナダ初の女性首相の栄誉は、誰もが予想しない形でリタ・ジョンストンのものとなった(なお連邦初の女性首相は1993年のキム・キャンベルである)。
 彼女の政治歴の始まりは、サーレーの市会議員に当選したことだった。彼女はそこでバンテキスト ボックス: リタ・ジョンストン。ダーザム市長と知り合い、その後社会信用党に入り、ブリティッシュコロンビア州会議員に転身する。バンダーザムが州首相に就任すると、ジョンストンは副首相に任命された。
 だが彼女はバンダーザムの腹心であまりにも彼に近く、彼女の総理・総裁就任は党が真剣に反省しておらず、党執行部を刷新する意志がないと思われても仕方がなかった。新民主党のハーコート党首は後に、これを好都合だと思ったと述懐している。ジョンストンは1991年7月の党大会でグレース・マッカーシーを破り、正式に党首に選出された。
 しかし社会信用党は199110月の州議会選挙でわずか7議席に転落。ジョンストン自身も議席を失い、党首を辞任した。
 後継党首に就任したのは「アメージング・グレース」と呼ばれたグレース・マッカーシーだった。彼女には議会の議席がなく、1994年2月の補欠選挙は議席を得る絶好のチャンスだったが、確実と見られていたこの選挙に彼女は敗れた。すると残った議員6名のうち、4名が党を見限ってブリティッシュコロンビア改革党に移籍した。こうしてかつての支配政党だった社会信用党は公認政党の地位を失い、マッカーシーは党首を辞任した。
 後継党首にはラリー・ジランダースが就任したが、1996年州議会選挙で全ての議席を失い、以後議席を獲得していない。党員の多くは改革党や自由党に流れて行き、ブリティッシュコロンビア社会信用党は今日も存在してはいるが、影響力は全くなく、党首も存在していない。

 (4) つわものどもが夢の跡
 バンダーザム元首相は起訴されたが、1992年ブリティッシュコロンビア最高裁判所で無罪を勝ち取った。
 バンダーザムは、ファンタジー・ガーデンを購入したタン・ユー氏がガーデンそのものに全く関心がなく、ただガーデン内にカジノを設置したかっただけだったということを知らなかった。汚職の象徴となったガーデンはイメージが悪く、聖書をモチーフにしたテーマパークもいかにも宗教右翼が考えそうな代物で、人々の関心を呼ばなかった。バンダーザムは後に、サクセス・ファンタジーの原点であるガーデンを買い戻したが、長年管理の手が及ばなかったガーデンはミドリガメの巣と化し、回復不能なほどに荒れ果てていた。現在も当時の外観を残したまま売りに出されているが、買い手はついていない。
 長年の沈黙の後、バンダーザムは1999年ブリティッシュコロンビア改革党党首となり、同年デルタ・サウスの補欠選挙に立候補した。このときの与党新民主党もまた汚職まみれとなり、候補者はまるで人気がないところに加え、「汚職の元祖」バンダーザムの出馬で話題を呼んだが、バンダーザムは次点で落選し、政界引退を発表した。
 2001年、バンダーザムの主導でブリテュッシュコロンビア州内の右派諸党を統合し統一党が結成されたが、党テキスト ボックス: ファンタジー・ガーデン内のビブリカルガーデン。写真中央は恥ずかしながら筆者(1991年撮影)。運営をめぐって争いが起こり、候補者をわずか2人しか立てられず、全員落選した。

 

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