[8] ストレスの発見

   Hans Hugo Bruno Selye(1907−1982)

 

 オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウイーンで、三代続いた外科医の家に生まれる。父フーゴはハンガリー人、母マリアはオーストリア人で、家にはイギリス人とフランス人のメイドがいたため、セリエはドイツ語、ハンガリー語、チェコ語、スロバキア語を母語とし、幼いころから英語とフランス語を話したという。少年期をハンガリー人居住区のコマロムで過ごすが、1918年第一次大戦に敗れ帝国は解体し、一家は突然チェコスロバキア人になった。

 セリエは17歳でプラハ医科大学に入り、パリ大学、ローマ大学に留学し、23歳にして医学博士となる。1932年にアメリカに渡り、ジョンズ・ホプキンス大学で学ぶが、学友からカナダの方がヨーロッパ的だと聞かされ、モントリオールのマギル大学に移籍し、25歳で理学博士号を取得する。1933年カナダ市民となる。

 

 プラハ医科大学2年のときの授業で、教授が大学病院から患者を5人連れて来た。患者たちは一様にだるさを訴え、気分が悪く、熱があり、食欲不振で体重が減少していた。教授はそれぞれの症状に対していちいち薬を与えていたが、セリエはそれは対症療法でしかなく、各患者に共通したもっと別な何かがあるはずだと考えた。例えば吐き気をもよおす人に吐き気止めの薬を与えても、その人は病気ではなく妊娠中かも知れず、そのような場合は一つ一つの症状に個別に対応するのではなく、「妊娠症候群」として包括的に対応すべきだというようなものである。彼は思い切って教授に、

「これは病気の人に共通して見られる『単なる病気症候群』ともいうべきものではないでしょうか」。

と尋ねてみたところ、

「太った人が太って見えるように、病気の人は病気に見える。それがいったい何だと言うのだ?」

言い返されて、返答に窮したという。

 それから10年の歳月が流れ、研究者となった彼は、ホルモン研究のためネズミに卵巣の抽出液を注射すると、副腎皮質ホルモンが増加することに気づいた。彼は新たなホルモン作用を発見したと喜び、その現象を引き起こす新ホルモンを見つけるため実験を続けたが、その結果、どのようなものを注射しても、また針で傷つけるだけでも同じ現象が起こるという事実に直面した。やけになった彼は、目の前にあったホルマリン(毒性が強い)を使うと、さらに強い反応が出てしまった。彼が発見したと思っていたのは、新ホルモンではなかったのである。彼は後に「人生でこれほど落ち込んだことはなかった」と語っている。

だが落胆したセリエの脳裏に、医学生時代に思い描いた「単なる病気症候群」の記憶が蘇ってきた。病気になった患者たちは、一様に同じ症状を訴えていた。「生物には、どんな刺激によっても引き起こされる共通の反応があるのではないか。だとしたら、ホルモンの発見よりも重大な意味を持つのではないか。」彼の心は、新たな挑戦に向かっていた。

しかし周囲の人々は、彼の考えに異議を唱えた。薬物の研究というものは薬の特別な作用を研究するものであり、それに付随する一般的な反応を研究しても意味がないからである。そんな中で唯一彼の考えに理解を示したのは、インシュリンの発見でノーベル賞を取ったフレデリック・バンティングだった。バンティングはまだ無名の若い研究者だったセリエに、快く研究費を提供してくれた。セリエはこの恩を生涯忘れることはなかった。

実験を続けたセリエは、ネズミがホルマリンなどの化学毒、騒音、寒冷、放射線、黴菌、栄養障害、ドラムの回転などによる強制労作、恐怖などあらゆる刺激に対して適応するが、その際に胃の潰瘍、胸腺・脾臓・リンパ節の萎縮、副腎肥大という3つの症状が常に発現し、しかもそれは物理的刺激であろうと精神的刺激であろうと同様であることを観察した。そこで彼は1936年に論文「種々の有害作用から生ずる一症候群」を発表する。それは、動物が外界から有害作用(ストレッサー)を受けると、脳下垂体から副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)の放出が増し、副腎皮質ホルモン(コルチゾン)が増加し、副腎髄質ホルモン(アドレナリン)が血中で増加する。これこそがストレスの正体である。このとき闘争あるいは逃走の態勢を取るため筋肉が緊張し、血圧が上昇し、脈拍が上がり、血液中の糖分が増加する(ストレス状態)。これは運動すると元に戻るが、現代人は闘争が禁じられているため、この状態を解消できず、心臓血管系に負担を与え、心筋梗塞、高血圧などの原因となることを述べ、精神衛生が肉体的健康に影響を与えることを科学的に明らかにした。なおストレスとはもともと機械工学からの借語で、外からの力によってできたひずみのことを指し、一般にストレスと呼ばれているものはストレッサーのことである。なお当時はストレス症候群をセリエ症候群と呼んでいた

 セリエは語る。

「よく『何が原因でストレスを発見したのですか』ときかれるが、幼いころ祖母から『気分の悪いときは顔に笑みをうかべているとよくなるものだよ』と聞かされていたのを憶えている」。

 ストレスの概念そのものは昔から人々に知られていたのである。しかし一見当たり前に思えることに着目し、周囲の無理解を乗り越え、実験を通して科学的に考察し、定説を打ち立てたところに彼の偉大さがあったと言えよう。

 

 彼の自伝「我が人生のストレス」は、医学の専門知識を含んでいるにもかかわらず、ユーモアに富んだおもしろい本である。彼がカナダに入国したとき、チェコスロバキアのパスポートを見せると、

「チェコ人ですか、それともスロバキア人ですか?」

ときかれ、

「どちらでもない」。

と答えると、

「ああ、オーストリア=ハンガリーに生まれたんですね。オーストリア人ですか、それともハンガリー人ですか?」

ときかれ、

「両方だ」。

と答えて、果てしのない押し問答に疲れた入国管理官はそれ以上の質問をせずあっさり入国を許可したという話や、その後も米加国境を越えてパスポートを見せるたびに、

「フレンチカナディアンですか、英語カナディアンですか?」

ときかれ、また同じ押し問答が始まるのかと思うとストレスがたまるという話や、彼はドイツ語を母語とするが、それはドイツのではなくオーストリアのドイツ語であり、ケベックに移住してからはふだん英語とフランス語を話すが、メイドから習った英語はオックスフォード英語、フランス語はプロバンス(南部)フランス語なので、通じないことがあって困るという話や、仕事のため家庭を顧みることができず三度も結婚して5人の子をもうけたことや、娘が幼いときフランス語の誤りを正してやると、

「私はネイティブだけどパパは移民でしょう?」

と言い返されたという話や、1956年ハンガリー動乱で母親を殺された話などが生き生きと描かれている。

 

 

 

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