[1] 運命の石 〜スクーン〜

 

 

 

「運命の石」は創世記28章に登場する、イスラエルの族長ヤコブがベテルで枕し、夢の中で神の啓示を受けたとされる石である。ケルトの王子と駆け落ちしたエジプトのスコータ王女がアイルランドに持ち込み、スコータ王女の末裔を自称するスコット人が、アイルランドからダルリアダ王国の首都ダナッドに持ち込んだと言われている。

710年、ピクトランドの王ネクタンがスクーンでカトリックを受け入れて以来、この地のムート・ヒルはピクト人の聖地となった。その後846年、スコット人の国ダルリアダの王ケネス・マカルピン(一世)が、「運命の石」をダナッドからピクトランドの首都スクーンへ移し、両王国の統合の象徴として石の上で戴冠してアルバ連合王国を形成し、以降の王もここで戴冠すると定めたのである。アルバ王国は後にロジアン王国とストラスクライド王国を併合し、スコットランド王国となった。

人口・面積ともに圧倒的に大きいピクトランドを、ダルリアダがどうやって併合できたのかは謎とされている。伝承では、ケネス一世がピクトの王ドロスタンと諸侯を晩餐会に招いて暗殺したと言われているが、一般には、ピクトの王統が断絶したため、遠縁のケネス一世がピクトの王として招聘されたものと考えられている。これらのエピソードは、断絶したイングランテキスト ボックス: 写真1 ウェストミンスター寺院の戴冠用の椅子。写真では「運命の石」がはめ込まれているが、現在はない。ド王位をスコットランド王家のスチュアート家が継承した事実や、またイングランド王エドワード一世が「運命の石」を持ち去り、この石に合う規格の椅子(写真1)を造らせ、歴代の王はウェストミンスター寺院でこの椅子に座って戴冠式を挙行すると定めたという後代の事実を思うと興味深い。ムート・ヒルには後年スクーン修道院とスクーン宮殿が建てられたが、宗教改革時の混乱で1559年焼失した。ムート・ヒルで戴冠した最後の王はチャールズ二世で、イギリスの歴史で唯一長老派の儀式として行われた戴冠式である。

エドワード一世が持ち去った石は、偽物だという説も根強い。1323年の条約で「運命の石」の返還が盛り込まれたが、その約束は守られなかった。しかしロバート一世は死の間際に、盟友である「島々の君主」アンガス・オグに運命の石を託したと言われている。だがたとえ偽物であったとしても、歴代イングランド王がこの石の上で即位した事実を思えば、本物よりも格式が高いのかも知れない。

1950年、スコットランド民族主義者イアン・ハミルトン、テキスト ボックス: 写真2 エジンバラ城で宝器とともに展示されている「運命の石」。ギャビン・バーナン、ケイ・マシソン、アラン・スチュアートの4名がウェストミンスター寺院に侵入し、「運命の石」を盗み出すことに成功した。警察の取り調べで「石が盗まれた事件は知っていますね?」ときかれた犯人たちは、こう答えたという。「はい、エドワード一世がスコットランドから盗んだことは知っています」。

1996年、「運命の石」はスコットランドに返還された。これは、ウイリアム・ウォレスを描いた映画「ブレイブ・ハート」が前年アカデミー賞作品賞を受賞したことと関係あるのだろうか。だが返還されたのがスクーンではなくエジンバラ城(写真テキスト ボックス: 写真3 スクーン宮殿。現在のものは1580年に建てられた。2)なのは、現在のスクーン宮殿(写真3)がマンスフィールテキスト ボックス: 写真4 ムート・ヒルにある「運命の石」のレプリカ。ド伯の個人所有であるからなのだろう。ムート・ヒルの石があった場所には、現在レプリカ(写真4)が展示されている。

初代マンスフィールド伯ウィリアム・マレーは、大蔵大臣と主席裁判長を務めており、1772年に黒人奴隷ジェームズ・サマーセットが起こした裁判で「英国の土を踏むものは誰でも自由人とならなければならぬ」と、奴隷制の非合法性を宣言し、奴隷廃止の端緒となった判決で知られている。奴隷貿易禁止法が成立したのは1807年のことである。

 

 

 

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