[21] マルキス小麦誕生秘話−ある普通でない一家

   William Saunders Sr.    (1836−1914)

      Charles Edward Saunders(1867−1937)

 

 在来種レッドファイフ小麦は、秋の到来の早い中西部の気候に適さず、冷死することもしばしばだった。しかし新種マルキス小麦の登場により中西部は一大穀倉地帯となり、カナダは世界有数の小麦生産国にのし上がったのである。

 

 ウイリアム・サンダースはイギリスのクレディトンに生まれ、1848年オンタリオ州ロンドンに移民する。薬局を経営していたが、結婚すると妻のセーラは夫に勉強を奨励し、ウイリアムはついにウエスタン・オンタリオ大学薬学部教授となる。その後も動植物の研究を続け、蝶に関する論文を書き、昆虫学協会を結成して科学者として知られるようになった。

 サンダース夫妻はウイリアムJr.、アーサー=パーシー、チャールズ=エドワード、ヘンリー、フレデリック=アルバート、アニーの五男一女を生み、郊外に農場を作って品種改良の実験を始める。子供たちは物心がついたころから喜んで父の手伝いをしたが、同時にこの一家は音楽も好きで、一家でオーケストラを組織し、1882年にはコンサートまで開いている。一家の中で最も内気な三男チャールズは、フルートを担当していた。そして独り立ちする年頃になると、次男パーシーはトロント大学へ進み、チャールズもドイツ留学後、兄を追って1884年トロント大学に入って化学を学んだ。

 

 1885年に大陸横断鉄道が開通し、ノースウエストの反乱が鎮圧されると、人々はこぞって中西部に入植し、「レッドリバー・フィーバー」と呼ばれるほどだったが、レッドファイフは9月の霜に耐えられなかった。収穫できなければ人々は貧しくなり、略奪に走る者も出て治安は悪化するだろう。だが新品種を開発すれば中西部の大平原を一大穀倉地帯にすることができ、入植もより盛んになるだろうと考えたウイリアムSr.は、政府に国立実験農場を開設するよう働きかけ、1886年4つの実験農場がオタワ、ブランドン(マニトバ州)、インディアンヘッド(サスカチュワン州)、アガシズ(ブリティッシュ・コロンビア州)に設立されると初代所長に任命された。

 子供たちはみな父と同じ道に進むことを希望したが、父の才能を最もよく受け継いだのはパーシーで、大学を卒業すると父とともに品種改良に取り組み、新種のバラを創ることに成功し妻の名をとっテキスト ボックス: チャールズ・サンダース。て「アグネス」と命名した。だがチャールズは自分には父ほどの才能がないと悟り、トロント大学を卒業するとジョンズ・ホプキンズ大学大学院を経て、セントラル大学で化学と地質学を教えていた。

 しかしチャールズはどうしても音楽の道に進みたくなり、大学を退職してボストンとニューヨークで音楽を学び、ヘイバーガル女子校とセントマーガレッツ女子校で音楽を教え、聖歌隊を組織し、「ザ・ウィーク」で音楽のコラムを連載する。美人メゾソプラノ歌手として有名なメアリー・ブラックウェルと結婚して、愛妻とともに一番好きだった音楽の世界で働き、満ち足りた日々を送るのだった。

 

 話はここで終わらない。実験が思うように進まない父とパーシーから、仕事を手伝うよう催促され、一度は断わったものの、所長である父から一方的に任命書を送りつけられると、内気なチャールズは断わりきれなくなり、しぶしぶオタワに居を移し、実験農場に勤めることになったのだった。

 来る日も来る日も、小麦を交配させては種もみを噛む単調な作業が続いた。そんな中でチャールズはインドのハードレッド・カルカッタに着目し、これにパーシーが作ったレッドファイフの新種マーカムを交配させて、1904年ついにマルキス小麦を生み出した。これはレッドファイフより短い藁を持ち、3日から10日早く成長し、そのうえ蛋白質を多く含み弾力性のある練り粉を作ることができるため、中西部で広く受け容れられた。これによりカナダは世界第2位の小麦輸テキスト ボックス: 国立実験農場(オタワ)。出国の地位にまでのし上がったのである。

 

 話はここで終わらない。どうしても音楽の道は捨てがたく、チャールズは1922年に実験農場を退職し、55歳でソルボンヌ大学に留学して音楽を学び、1928年にはフランス語で「エッセイと詩」を発刊する。翌年帰国し、トロントで音楽とフランス文学を教えた。彼は後に「父の任務を終えたあと、自分の道に戻ったのだ」と語っている。1925年にトロント大学から理学博士号、1933年にはナイトの地位を贈られた。

 なお長男ウイリアムJr.は父の薬局を継ぎ、鳥類研究者として評価された。次男パーシーは優れた科学者、教育者としてその名を歴史に残した。四男フレデリックは物理学者・鳥類学者となった。五男ヘンリーはチェロ奏者として世界にその名を知られた。アニーは写真家・音楽評論家となった。

 

 

 

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