[19] 若き天才建築家−危険な情事

   Francis Mawson Rattenbury(1867−1935)

 

 弱冠25歳でブリティッシュコロンビア州議事堂を設計し、天才の名をほしいままにした建築家フランシス・ラテンブリーは、同時にスキャンダルに悩まされ、後半生は金銭難に陥り、悲惨な最期を遂げた。

 

 イギリスのリーズで牧師の子として生まれる。ヨークシャーカレッジに入学するが中退し、17歳でおじの経営する建設会社に勤める。そこでめきめきと頭角を現わし、これ以上何もおじから学ぶことはないと悟った彼は、25歳のときカナダに渡った。

テキスト ボックス: ブリティッシュコロンビア州会議事堂(ビクトリア)。 そのころ、ビクトリアでブリティッシュコロンビア州議事堂の設計が公募されていた。そこで彼はさっそく応募したところ、65の応募作品の中から彼のものが採用された。そして賞金4万4千ドルを手に入れた彼は、若き天才建築家としていちやく脚光を浴びたのだった。

 その後彼はエンプレスホテル、副総督官邸(ケアリー城)、ビクトリア高校、グレン・ライオン学校(元彼の邸宅)、蝋人形館、ホテルバンクーバー旧館、バンクーバー美術館(元裁判所)、チリワック・ネルソン・ナナイモの裁判所などの設計を次々と手がけることになる。だがユーコンのゴールドラッシュが彼の人生を変えた。彼は突然財テクに血道をあげ、ユーコンへの蒸気船を運行するベネット湖&クロンダイク交通社の取締役になり、グランドトランク太平洋鉄道に多額の投資をする。第一次大戦中カナダは好景気に沸いていたのだ。ところが戦争が終わると景気は悪化し、グランドトランク太平洋鉄道は倒産した。そして彼はこれ以後金策に追われるようになり、急速に創作意欲を失っていくのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エンプレス・ホテル(ビクトリア)。

 

バンクーバーの裁判所は、今日バンクーバー美術館となっているが、裁判所のシーンの撮影によく使われている。その左後に見えるのはホテルバンクーバー旧館。

 
 

 

 

 ラテンブリーはフローレンス=エレノアを妻としていたが、1922年にエンプレスホテルで催されたパーティーで、美人音楽家アルマ=ビクトリアと運命的に出会う。彼女は1914年に不動産会社社長のドーリング氏と結婚したが、夫は第一次大戦で戦死し、その後大学教授パッケナム氏と再婚したが、ほどなく離婚していた。美人だがなぜか薄幸の女だった。

 ラテンブリーはアルマと交際を深め、2人はやがて不義の仲となる。しかし女性でありながら仕事を持ち、タバコを吸い、最先端のファッションに身を包み、年の離れた男性との不倫に走る彼女に、保守的なビクトリア朝時代の人々の目は冷たかった。ラテンブリーは離婚を拒否する妻を二階の一室に追いやり、アルマを自宅の一階に住まわせて同棲したが、あまりの仕打ちに人々は眉をひそめ、かつての顧客も離れていった。

フローレンスは1925年に離婚に合意し、ラテンブリーはその3年後にアルマと入籍するが、フローレンスとの子メアリーとフランクは、継母のアルマに反抗的な態度をとり続けたため勘当した。街の人々は陰でアルマを「男を食うメス虎」と噂するようになり、居心地の悪くなったラテンブリー夫妻は1930年、2人だけでイギリスのボーンマスに移り、ビラ・マデイラと呼ばれる館に住んだ。

 だがラテンブリーの生計は依然として苦しく、仕事も全く奮わなかった。彼はやがて(うつ)病にかかり、腑抜けのようになり、一人で塞ぎ込むことが多くなったばかりか、しばしば自殺さえほのめかすようになった。ところがアルマは結核の後遺症で性的欲求が高まり、満たされない夜はコカインに耽るようになった。彼女の生活はすさみ、やがて人格にも変調をきたしていった。

 

 そんな中でアルマは、1934年9月23日ボーンマス・デイリーエコー紙に運転手の求人広告を掲載し、19歳の少年ジョージ=パーシー・ストナーを採用した。一人っ子のストナーは虚弱テキスト ボックス: ビラ・マデイラ(ボーンマス)。体質で、3歳まで歩けなかったという。幼いころはよく引きつけを起こし、学校は休みがちで、外に出ようとしない子供で、成績は悪く、友だちもなく、女性と交際したこともなかったという。

 そんな魅力のない、しかし扱いやすい17歳年下のストナーを、アルマは誘惑してベッドに迎え入れた。彼女にとってはほんの戯れだった。だが男の喜びを知ったストナーはアルマに夢中になった。ストナーは嫉妬深く、夫と話しただけでも怒り出すので、アルマは恐ろしくなり、関係を精算しようとしたが、別れ話を切り出すとストナーが逆上するので、発覚するのを恐れながらも、ずるずると関係を続けていたのだった。

 1935年3月25日のことだった。アルマは落ち込みがちの夫を励ますため、翌日仕事仲間の家を訪ねようと誘ったが、ストナーはその話を聞いて激怒し、アルマに「2人で泊まったら殺す」と脅迫した。アルマは「夫と同じ部屋には寝ないから」と、子供じみた約束をして彼をなだめなければならなかった。

 その夜、アルマがラテンブリーの部屋へ行くと、彼は頭部を鈍器で殴られ、血の海の中で死んでいた。すぐに警察が駆けつけ事情聴収を始めたが、アルマはストナーの犯行だと直感し、彼をかばって嘘の供述をしたため逮捕される。逃走したストナーも翌朝逮捕された。

 

 ストナーの弁護士はコカインが原因だと主張し、責任能力がないことを訴えようとしたが、ストナーはコカインを茶色だと思っていたことが露見し却下された。裁判を理解していないように見えたストナーだったが、弁護士に「アルマ夫人に唆されたと言うのだけはやめて」と懇願した。5月31日の公判では、アルマは殺人とは無関係だとして無罪、ストナーには死刑が宣告されたが、マスコミはこぞってこの事件を、彼女の華麗な男性遍歴も含めておもしろおかしく報道し、世論は若いストナーに同情的で、彼をかどわかし自分だけ釈放された「メス虎」アルマに非難が集中した。

 「彼が死刑になったら私も死ぬ」と口走ったアルマは、自殺防止のため病院に収容されたが脱走し、エイボン川の岸辺で胸を6回刺した。近くの農夫が気づいて近寄ったが、川に身を投げた。近くには遺書が残されていた。

「8時。ずいぶん長くさまよい歩いたあげく、ここに来ました。ああ、あそこにいる白鳥と花園を見るために。ここに来るのに勇気はいりませんでした。

ストナーがいつもしていたように、私はコインを投げてみました。そしてクライストチャーチに来たのです。ここはとてもきれいなところ。私たちは何と素晴らしい世界にいることでしょう。いつも好奇の目に晒されているよりは、首をくくる方が簡単でしょう。主よ、どうか今夜私を止めないで下さい。

今朝、オックスフォード広場で身を投げようと思いました。でも人が大勢いました。その次はバス。でもやっぱり人が大勢いました。人がこんなことをするには、大胆さが必要なのでしょう。

ここはとてもきれいなところ。そして私は一人。平安を与えて下さった主に感謝します。」

 アルマは若いストナーに道を誤らせたことに負い目を感じ、自らの死をもって罪をつぐない、ストナーの命を救おうとしたのだった。

痴情殺人はたちまち美談に変わった。その後ストナーは減刑嘆願の署名を35万人分集め、6月25日の公判で無期懲役が確定する。7年後に出所し、26歳にして第二の人生を歩み始めた彼は、第二次大戦中に軍隊への入隊を特別に許可され、ノルマンジーの激戦地を生き残り、結婚して家庭を持ち、心静かな生活を得た。人目を忍んで暮らした彼は、マスコミの取材を頑なに拒み続けていたが、事件を扱ったテレンス・ラッティガンの戯曲「有名な事件」が1977年に公開されると、再び好奇の目に晒されることになった。1987年にはBBCがそのテレビ版の製作を始めたため、彼は長年の沈黙を破りそれを中止させようと抗議したため、BBCはジョージ・ストナーの役名を「ジョージ・ボーマン」と改めた。ストナーは1990年、公衆便所で少年に強制猥褻を働き逮捕され、2000年に死去した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1999年1月28日のボーンマス・デイリーエコー。ストナー(立っている男性)は「事件は私と夫人の激情の中で起こったものだ」という短い声明を発表し、核心には触れなかった。その左は19歳のストナー、右はストナー夫人。足元の写真は右がラテンブリー、左がアルマ、中央が息子ジョン。その左の写真は、ラテンブリーが死んだ椅子。左側中央の女性は音楽家時代のアルマ。下はラテンブリーの殺害状況を再現した部屋。中央上の写真は1935年の事件を報じたボーンマス・デイリーエコー。

 
 

 

 

 

 

 

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