●進歩The Progressive Party of Canada)

 


【歴代党首】
初 代 トーマス・クリアラー(1920〜1922)
第2代 ロバート・フォーク(1922〜1926)

 

 (1) 西部農民の声
 第一次大戦後の不況と、小麦価格の下落が西部の農民を直撃した。彼らにとって最も重要な問題は、アメリカとの自由貿易だった。だが二大政党のいずれも自由貿易を支持しなかった。西部の農民は自分たちの声を反映するための新しい運動の必要を痛感し、マニトバ穀物栽培者協会とアルバータ農民連合を結成した。これらの団体は、イギリスからの新移民がもたらしたフェビアン社会主義の影響を受けていた。
 そしてボーデン内閣の農務大臣だったトーマス・クリアラーが、1920年に進歩党を結成する。彼はホワイト財務大臣が農業問題に十分な予算を割かなかったため、その前年に閣僚を辞任していたのである。
 進歩党は、州レベルでは農民連合と結びついていた。1921年の総選挙では中西部の農業州を席巻し、自由党の118議席に次ぐ58議席を獲得していきなり野党第一党となり、カナダ政治に新たな歴史を刻んだ。

 (2) 求心力を欠いた党
 だが躍進した進歩党は、以後の方向性について激しく争うことになった。クリアラーは党のリーダーでなく、単に院内会派のリーダーに過ぎなかった。彼は議会の外では公式の地位を持たなかったが、メディアは彼を事実上の党首とみなしていた。進歩党には党議拘束がなく、各々の候補者はどんな公約もでき、議員はどんな政策でも主張できた。進歩党はかろうじて党と呼ばれている状態で、多くの人々は「進歩運動」の呼称の方がより適切だとさえ主張していた。
 また進歩党は結成当初から、党内に様々な派閥が存在していた。クリアラー率いるマニトバ・サスカチュワン派は自由党出身者であり、既存の政党政治を目指していた。ところがヘンリー・ウッド率いるアルバータ派は、既成の政党システムにとらわれないという当初の目標を支持していた。
 クリアラー派は、党内一致して閣外協力で自由党政権を支えるべきだと主張した。だがウッド派は、議員がバラバラの現状テキスト ボックス: トーマス・クリアラー。を維持しようとした。そこで両派は、野党第一党であるにもかかわらず公式野党の地位を辞退することで合意し、この地位は第3党の保守党に渡された。

 (3) ミーエン首相の「三日天下」

 1921年総選挙の結果、自由党のマッケンジー・キングが史上初の少数政権を樹立した。進歩党は政策的には自由党に近かったが、長い交渉にもかかわらずキング首相は連立を実現することができなかった。だがひとたび議会が召集されると、保守党提出の内閣不信任案に進歩党は反対投票を行い、否決させた。しかし進歩党は、キングの政策にしばしば反対した。

キング政権が発足するとまもなく、ボーアルノワ運河にまつわる数々の汚職が発覚した。キング首相はジャック・ビューロー税務庁長官を更迭したが、直後に上院議員に指名したため、進歩党内ではキング政権を支持しない勢力が大勢を占めるようになった。キングは内閣不信任される危機に直面し、ビング総督に解散・総選挙を要請した。だが総督は、前の総選挙からわずか1年での解散に同意しなかった。そこでキングは総督に、イギリス政府に諮問するよう要請したが、総督はカナダのことはカナダで解決すべきだとして、これも拒否した。進退極まったキングは1926年6月29日、内閣総辞職に追い込まれる(キング・ビング事件)。総督は保守党のミーエン党首を総督公邸に招き、進歩党に協力を取りつけて政権運営するよう命じた。保守党は過半数に満たなかったので総選挙を望んだが、ミーエンは総督の大命を拒めなかった。こうして、ミーエンの少数政権が成立した。

当時は、新しく任命された閣僚は議員を辞職し、補選で再選されなければならない規則があった。だが保守党は過半数割れしており、しかも自由党との議席差はわずかだったので、ミーエンは少しの議席も失いたくはなかった。そこで彼は、総督に内閣の宣誓式をしないよう要請するとともに、下院に内閣信任案を提出しようとした。だがこれは、野党をひどく怒らせる結果となった。また進歩党には党議拘束がなく、正確な票読みが困難だった。組閣の3日後、7月2日に提出されたミーエン内閣信任案は、9596のわずか1票差で否決される(Three-day Wonder)。ミーエン首相はただちに解散・総選挙に打って出て、自由党に敗れた。

 

(4) 解党への道
 クリアラーは進歩党を普通の政党に改組改編しようと試みたが、党内の強い抵抗を受け、1922年にリーダーを辞任した。ロバート・フォークが次のリーダーとなったが、1921年の総選挙でクリアラーが全国を遊説したのに対し、フォークはマニトバ以東の全ての州を見捨て、西部だけで戦った。1925年総選挙で進歩党はオンタリオの全議席を失い、西部の議席のみを残すこととなった。フォークら穏健派は「自由進歩党」を名乗り、自由党との統一会派を形成した。過激派は労働党と結束して協同連邦党を結成した。ポピュリスト・グループは社会信用党に加わり、後に改革党を結成することになる。残りの党員はアルバータ農民連合に移籍し、進歩党は事実上解体された。
 マニトバ進歩党は1920年、マニトバ自由党と合併しマニトバ自由進歩党となった。ところがマニトバ州首相ジョン・ブラッケンは1942年、連邦保守党の党首に招聘された。彼は党首就任の条件として、党の名称を「進歩保守党」に変更するよう求め、了承された。だが進歩党は解党を拒否して、ブラッケンの進歩保守党に対し独自の候補を立て続けた。進歩党の党勢は衰退の一途を辿り、議員の多くは進歩保守党ではなく自由党か協同連邦党に加わった。

 (5) 「第三の道」の先駆け
 進歩党の試みは短期間で破綻したが、進歩党の最も偉大な歴史的功績は、カナダで第三の政党を定着させた最初の例となったことである。西部はその後もアルバータ農民連合、協同連邦党、社会信用党、改革党など反中央のポリシーを持つ地域政党を生み出すことになるが、進歩党の飛躍は何かと引き合いにされ続けてきた。デュベルジェの法則にもかかわらず、小選挙区制のカナダ連邦議会は以後常に第3の、ときには第4の党を持つことになるのである。



 

 

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