[4]多党制の時代(1993年〜)

 

25代 Joseph Jacques Jean Chrétien199311月4日〜20031212日)
26代 Paul Edgar Philippe Martin20031212日〜2006年2月6日)
27代 Stephen Joseph Harper2006年2月6日〜201511月3日)

28代 Justin Pierre James Trudeau201511月4日〜 )

 

 ミーチレイク協定失効により、進歩保守党政権は国民の支持を失った。進歩保守党のケベック贔屓に愛想をつかした西部の支持者は、西部のための新党改革党を結成する。いっぽうミーチレイク協定に期待を寄せて失望したケベックの保守党議員は、閣僚を辞任したルシエン・ブシャールのもとで分離主義のケベック連合を旗揚げした。

 1993年総選挙は自由党の圧勝に終わったが、東西の地域政党である改革党とケベック連合が躍進するいっぽう、進歩保守党はわずか2議席と歴史的惨敗を喫し、ミーチレイク協定を支持した新民主党も議席を減らし、既成政党の退潮が顕著となった。この現象は一時的なものと見られていたが、進歩保守党はその後も党勢を回復することができず、改革党とケベック連合はそれぞれ西部とケベックで勢力を張り、伝統的な二大政党制は終焉し自由党一党支配体制が確立された。

 だが自由党は、財政赤字を克服したものの、公共サービスの切捨てを行い、やがて党内抗争に明け暮れるようになる。その間にハーパーは宿願の保守合同を成し遂げ、政界地図は二大政党・二中政党の4党体制が定着した。ケベック連合は、議席の25%を保有するケベック州において依然として勢力を張り、二大政党の自由党と保守党を寄せ付けない。2004年からは、総選挙でどの党も単独過半数を獲れない事態が3度も続いている。2008年には左派の野党3党による連立政権協定が調印されたが、ハーパー首相は議会の停会でこれに応じ、カナダ政界の行方はいまだ混沌とした状態に置かれている。



英語の不自由と顔面麻痺を克服した「気さくな独裁者」

 Joseph Jacques Jean Chrétien1934〜 )
 第25代首相(1993年11月4日〜2003年12月12日)

 ジャン・クレチエンはケベック州シャウィニガンで、19人兄弟の18番目として生まれた。生まれつき片耳が聞こえず、また少年期にベル麻痺を患い、顔面左側が麻痺している。
 ラバル大学で法学を学び、弁護士として勤めた後、1963年総選挙で初当選する。彼は、議員になるまで英語を話すことができなかった。初めて国会議事堂に入ったとき、先輩議員に「君は新人だから後ろの席に座るんだよ」と言われると、首相の椅子を指して
Someday I be sitting up there.(でも俺いつか、あそこに座る/正しくはSomeday Ill be there.)と語ったという。

 (1) 出世街道
 彼の英語は生涯たどたどしいものだったが、少ない言葉数で効果的に語った。小さい体で闘志満点の彼は「ストリートファイター」の異名をとり、トルドー内閣の国家収益大臣、インディアン問題及び北方開発担当大臣、産業・貿易・商務大臣、大蔵大臣を歴任した。1980年のケベック独立を問う住民投票では法務大臣・司法長官、1982年の新憲法制定時には憲法担当大臣を務め、重要な役割を果たした。
 1984年にトルドー首相が引退した際、自由党党首選に出馬する。顔面麻痺を取り沙汰された彼は「私は口の両側を使って二つのことを使い分けたりしない」と語ったが、ジョン・ターナーに敗れた。アイオナ・キャンパニョロ議員は、クレチエンを「投票では2位だったが、与えた印象では1位だった」と評した。
 ターナー首相はクレチエンを副首相・外相に任命したが、この年の総選挙で自由党が敗北すると、二人は対立するようになる。クレチエンは1986年議員を辞職し、民間企業で働いた。
 だがターナー党首は1989年に辞任し、党首選が行われることになった。左派のクレチエンがトルドーの後継者、右派のポール・マーチンJr.がターナーの後継者として有力視された。マーチンは、クレチエンがケベック人であることに目をつけ、ミーチレイク協定に賛成か反対かの表明を迫った(賛成なら野党党首として不適格、反対ならケベックでの人気を失う)が、クレチエンは党首選に勝利した。

 (2) 野党党首
 マルローニ首相はミーチレイク協定・シャーロットタウン協定の失敗、戦後最大の不景気、増大する財政赤字、新しい連邦消費税(GST)などで支持率を下げ、世論調査で自由党に政権を譲ることが決定的となった。そこでマルローニは1993年6月に退陣し、初の女性首相キム・キャンベルが政権に就いた。彼女は9月に下院を解散し総選挙に打って出たが、各地でバーベキュー・パーティを開催し、なんとか支持率を自由党に近づけることができた。
 だが自由党は、112ページに及ぶ詳細なマニフェスト(「赤本」と呼ばれた)を発表した。そこにはGSTの「見直し」と北米自由貿易協定の「再交渉」(「破棄」ではない)が記されていた。このような詳細なマニフェストはどの党も発表していなかったことから、自由党は世論調査で支持率を倍増させた。しかしこの時点においてもなお、クレチエン党首個人への人気は、キャンベル首相に遠く及ばなかった。
 そこで進歩保守党は、テレビでクレチエンの顔面麻痺を嘲り「この人がカナダの首相?」と中傷するネガティブキャンペーンを始めた。保守党候補の中からさえ放送中止を求める声が上がり、キャンベル首相もこの広告について事前に知らされていなかったが、放送中止を命じた。しかし彼女は謝罪しなかったため、支持率は急降下した。クレチエンはこのCMについて、少年時代に受けたからかいに言及し「私がまだ子供のころ、人々は私を笑い者にしていた。でも神様がほかの資質を与えてくれたので、私は感謝してそれを受け容れた」と演説すると、聴衆の多くは涙を流した。これを境に、彼個人の支持率も急上昇し、自由党の圧勝は確実となった。
 1993年10月の総選挙で、自由党は定数295のうち177議席を獲得して地すべり的圧勝を収め、クレチエンは政権に就いた。進歩保守党はわずか2議席と歴史的惨敗を喫した。

 

 (3) 総理大臣
 トルドー、クラーク、マルローニらが首相就任前には党内主流でなかったのに対し、クレチエンは1965年以来全ての自由党政権で閣僚を務めたため、読売新聞は「古くて新しい人」と評した。あらゆる大臣ポストを経験した彼は諸事に通じており、高度に中央集権化された、しかし内部の批判には非寛容な「フレンドリーな独裁」と呼ばれた政権を築いた。
 クレチエン首相・マーチン財務相のコンビは、420億ドルの赤字解消、5年連続財政黒字、5年にわたる1000億ドルの減税は歴史上最大の減税を実現した。またクレチエン政権の時代には進歩保守党が凋落し、保守政党が2つに割れていたことから、1997年・2000年の総選挙を楽勝し、連続3選を果たしている。
 だが政権末期には、社会保障費削減から公共サービス低下を招いた。このまま彼が党首では次の選挙は危ういとみなされるようになると、マーチンは閣僚でありながら次の党首選に向けた運動を公然と行うようになる。クレチエン首相が閣僚の選挙運動を禁止したにもかかわらず、マーチンは従わなかったため、首相は2002年6月、マーチン財務相を更迭した。ところが閣外に去った彼は却って選挙運動に専念できるようになり、党内の大勢を味方につけてしまう。するとクレチエン首相は8月、次期党首選に出馬せず2004年2月に引退すると、1年半も前に発表した。これは「総理・総裁の椅子は明け渡すからもう勘弁してくれ」という、首相の事実上の敗北宣言だった。
 レイムダックと化したクレチエンは、国民にも党内にも気兼ねする必要がなく、自由に政権を運営できるようになる。イラク戦争不参加は、この特殊な状況で実行されたものである。
 2003年11月の党首選で、マーチンは9割もの支持を受けて圧勝すると、クレチエン首相に対し、引退時期を前倒しして総理・総裁の椅子を早く明渡せと迫った。首相は12月、総督に辞表を提出し突如政権を投げ出す。顔面麻痺と英語の不自由を克服し、財政赤字を解消し3度の選挙に勝利した英雄は、こうして表舞台から去っていった。
 辞任後クレチエンは、1995年のケベック独立を問う住民投票に関して、独立を阻止するためのキャンペーン費用が広告代理店を経由して自由党に流れたという「スポンサーシップ事件」について、ゴメリー報告書で「責任あり」と名指しされ、晩節を汚した。

 

 

●党内抗争で政権奪取、今なお続く後遺症

 Paul Edgar Philippe Martin1938〜 )
 第26代首相(2003年12月12日〜2006年2月6日)

 (1) 生い立ち
 ポール・マーチンJr.はオンタリオ州ウィンザーに生まれた。父ポール・マーチンSr.は保健福祉相・外相を歴任した自由党の重鎮で、党首選に2度出馬して敗れている。マーチンはカナダでは珍しい二世議員である。
 両親は、マーチンにフランス語を覚えさせるため私立のフランス語校に通わせた。彼はフレンチ・イマージョン教育を受けた最初の首相でもある。
 マーチンはオタワ大学とトロント大学で学び、卒業後はトロント大学ロースクールに進み、弁護士資格を取得。その後カナダ汽船のオーナーとなり、巨万の富を築いた。

 (2) 政界での活躍
 1988年総選挙で初当選して政界入りしを果たし、1990年には自由党党首選に出馬した。ケベック選出議員のマーチンはミーチレイク協定を支持したが、ライバルのクレチエンは態度を鮮明にしなかった。そこでマーチンはクレチエンが内心では反対しているのを見抜き、討論で旗色を鮮明にするよう迫った。クレチエンはケベック人なので、反対すればケベックでの人気を失うことになるからである。会場は、クレチエンに対する「裏切り者」コールで溢れかえった。しかしマーチンは、結局クレチエンに敗れた。
 マーチンはその後、選挙のためのマニフェスト「赤本」執筆を担当した。自由党は1993年総選挙で圧勝し、マーチンはクレチエン内閣の財務相に任命された。
カナダはその時点で、G7の中で最も巨額の財政赤字を抱えていた。マーチンは財務相就任中に420億ドルもの赤字を解消し、5年連続財政黒字を計上して、360億ドルもの債務を支払った。読売新聞は1995年のハリファックス・サミットにあたり、G7で最も優等な政権はクレチエン政権だと評した。また2001年にはマーチンが「世界経済フォーラム」の「夢の内閣」閣僚に選ばれるなど、クレチエン首相を凌ぐ人気を博した。

 (3) 確  執
 クレチエンは飾らない気さくな性格だったが、部下には絶対の忠誠を求め、裏切りは許さなかった。彼は90年党首選でのマーチンの行動を生涯許すことはなかった。クレチエンは1997年総選挙で過半数をわずかに上回る勝利を得て、2期目に突入した。クレチエンの人気は翳りが見え始め、マーチンがクレチエンを引退に追い込み政権を奪取するのではないかという噂も流れた。ところがクレチエン首相は2000年、抜き打ち解散・総選挙に打って出て議席を大幅に増やし、3期目に突入する。自由党は唯一の全国政党であり、保守党は2つに割れていた。ケベック連合はケベック州だけの党であり、自由党政権はいつまでも続くかに見えた。マーチンはクレチエンと4歳しか違わず、クレチエン政権長期化に焦りを覚えるようになる。
 クレチエンが閣僚の党首選運動を禁止したにもかかわらず、マーチンは活発に活動したため、2002年6月クレチエンはマーチン財務相を更迭した。だが閣外に去った彼はかえって自由に行動できるようになり、やがて党内の大勢を味方につけてしまう。するとクレチエン首相は8月、次期党首選に出馬せず2004年2月に引退すると、1年半も前に発表した。これは「総理・総裁の椅子は明け渡すからもう勘弁してくれ」という、首相の事実上の敗北宣言だった。
 自由党党首は自らの意志で退くものであり、党首を引きずり降ろす行為は伝統に反していた。マーチンのやり方に反発したジョン・マンレー副首相らクレチエン派は、党首選に立候補しようとしたが、マーチンの圧力に屈し辞退に追い込まれた。こうして唯一の対立候補となったシェイラ・コップス元副首相を、マーチンは93%もの圧倒的な支持で倒し、党首の座に就くとクレチエン首相に対し、引退時期を前倒しして総理・総裁の椅子を早く明渡せと迫った。クレチエン首相は12月、総督に辞表を提出し突如政権を投げ出す。マーチンはその日総督官邸で、父マーチンSr.が死んだとき国会議事堂に掲揚された旗を持って宣誓した。彼は父が成し得なかった野望を、ついに達成したのだった。

 

 (4) 総理大臣
 政権に就いたマーチンは、自分に逆らって党首選に出馬しようとしたマンレーらを閣僚に任命せず、冷遇した。彼はクレチエン政権で冷え切った米加関係改善を期待されたが、首相就任後すぐにスポンサーシップ事件が発覚した。マーチン政権は選挙の洗礼を受けていなかったため、国民の信を問うため下院を解散し2004年6月の総選挙に打って出た。
 マーチンはクレチエン派を冷遇したため、党内には大きな亀裂が走り、自由党の士気は上がらなかった。そして、今までは有力野党が存在しなかったので安心して党内抗争に熱中できたが、2003年保守合同によりカナダ保守党が結成されていた。
 選挙戦の序盤は保守党がリードしたが、自由党は保守党の右翼イメージを攻撃し、定数308のうち135議席を獲得し、過半数割れながらかろうじて政権を維持した。新民主党は閣外協力を約束したが、19議席しかなく、合わせて154議席と過半数に1議席足りなかった。2005年5月の予算案は、否決されれば解散・総選挙は必至だったが、下院で賛否同数となり、議長採決で際どく成立させた。

 (5) 野党転落
 2005年11月1日に発表されたゴメリー判事の最初の報告書は、スポンサーシップ事件に関しマーチン財務相(当時)は責任なしとしたが、クレチエン首相と自由党ケベック支部には責任があるとした。この発表後、新民主党のジャック・レイトン党首は、民間健康保健の禁止を条件として自由党への閣外協力を続けると発表したが、マーチン首相はこの取引を拒否したため、保守党・ケベック連合・新民主党は共同で内閣不信任案を提出し、171対133で可決された。それまで内閣不信任は、予算案の否決と、ミーエン内閣信任案が否決された前例はあったものの、内閣不信任案が可決されたのは史上初めてであった。
 総選挙では当初、自由党が保守党をリードした。だが選挙期間中にグッデール財務相のインサイダー取引疑惑が浮上し、自由党の腐敗が主な争点となった。自由党は前回同様、ネガティブキャンペーンを用いたが視聴者には不評で、保守党にダメージを与えることはできず、いっぽう守党はGST減税などわかりやすい政策を掲げた。
 翌年1月23日、定数308のうち自由党は103議席に終わり、保守党は124議席を獲得して12年ぶりの政権交代を実現した。マーチンは総理・総裁の即時辞任を発表した。

 

 

保守合同で12年ぶり政権交代

 Stephen Joseph Harper1959〜 )
 第27代首相(2006年2月6日〜2015年11月3日)

  (1) 自由党と進歩保守党に失望

 1959年トロントに生まれる。高校生のころ自由党のトルドー首相に憧れていたハーパーは、自由党青年団に所属していたが、トルドーが推進した石油利潤を各州に再分配する「国家エネルギー計画」に失望する。1978年トロント大学に入学するも、2か月で中退。アルバータのインペリアル石油に勤めた後、1985年カルガリー大学で経済学を修め、1991年カルガリー大学修士課程を修了。

 1985年進歩保守党のジム・ホークス議員の秘書となるが、マルローニ首相のケベック優遇に幻滅して離党し、1987年の改革党創設に参加する。

 

 (2) 改革党とカナダ同盟

 党創設大会での演説でプレストン・マニング党首に注目されたハーパーは、若干20代で政策委員長に抜擢される。1988年総選挙ではマニフェストの作成を任されたが、全員落選の憂き目に遭う。ハーパーもカルガリー・ウェスト選挙区で、かつて仕えたホークスに挑んだが落選した。

 1993年総選挙で、ホークスを破り初当選を果たす。だが改革党は西部のための党にすぎず、大票田の中部では全く受け容れられなかった。また改革党が極右に傾いていくことに、ハーパーは危機感を抱いた。そして彼自身は同性婚に反対であるにもかかわらず、政治は良心の問題に立ち入るべきでないと主張し、党が同性婚廃止の政策を掲げることに反対した。1995年には進歩保守党の一派が、シャレー党首とマニング党首を追放してハーパーの下で新党を結成しようと謀る事件が起きた。ハーパーはやがてマニング党首と対立するようになり、1997年議員を辞職、2000年総選挙にも出馬せず、国政の第一線から身を引いた。

 2002年3月、新しく結成されたカナダ同盟の党首選に出馬して勝利すると、同年6月の補選で当選し国政に復帰を果たす。2003年12月には、老舗の進歩保守党との保守合同を実現してカナダ保守党を結成し、党首に選出された。

 ハーパー党首は新党の綱領に、同性婚・妊娠中絶・フランス語公用語化反対を盛り込むことを阻止した。悲願の政権交代を実現するには、議席の多い中部進出が不可欠だった。そしてオンタリオにはレッド・トーリーの支持者が多いことから、新党は極右から穏健な中道右派へ路線転換しなければならなかったからである。

 

 (3) 2004年総選挙:手痛い失敗

 ポール・マーチン首相は、スポンサーシップ事件の発覚に頭を抱えていた。そこで首相は、新しく旗揚げしたカナダ保守党に十分な時間を与えないよう、早期解散・総選挙に打って出た。

 マーチン首相は党首討論でも歯切れが悪く、またオンタリオの自由党政権の不評も相まって、世論調査ではしばしば保守党がトップに立つことがあった。だが自由党は、カナダ保守党には隠しマニフェストがあり、かつての改革党のように女性・同性愛者・少数民族を差別するだろうと、テレビCMで執拗に攻撃した。党首としての経験が浅いハーパーは、これに熱くなり、しばしば感情的に反応した。

 ハーパーはこの選挙で、かつて改革党・カナダ同盟が見捨てていたケベック州において精力的に運動した。党首に就いてからフランス語の特訓を受け、CMでもフランス語で話した。

 カナダ保守党にとって最初の総選挙は、政権奪取はならなかったものの、99議席を獲得し、与党自由党を過半数割れに追い込んだ。注目すべきはオンタリオで、自由党が100議席獲得していた金城湯池であったが、保守党はなんとか24議席を獲得し食い込むことに成功した。しかしケベックでは、1議席も獲得できなかった(進歩保守党がケベックで議席を獲得できなかった例はない)。ハーパーは悩んだすえ、党首に留まることを決めた。党員たちは、旗揚げしてわずかな期間に彼が新党をまとめあげ、最初の選挙を躍進に導いたと評価したのである。

 

 (4) 野党解散要請事件

 総選挙の2か月後、ハーパー党首はモントリオールのホテルで、ケベック連合のジル・デュセップ党首と新民主党のジャック・レイトン党首と会談した。そして3人は9月9日、エイドリアン・クラークソン総督に、以下の書簡を送った。

「我々は、下院において多数派を占める野党3党が、合意に近づいたことを謹んで報告する。我々は、解散が要請されるべきだと確信する。閣下は憲法上の権限を行使するに当たり、野党党首に諮り、全ての選択肢について検討すべきである。」

 3人はその日共同記者会見を行い、議会のルールを変えることと、総督が総選挙を公示する前に自分たちと相談することを要求する意図であると発表した。ハーパー党首は「国家を動かすのは議会であって、最大与党でもなければ、その党首でもない」と語った。また3人は、これは連立政権樹立を意味するものではないと説明した。

 ところが、後に保守党議員となるマイク・ダフィーが10月4日、「総選挙を行うことなく首相を変えることは可能である」と語った。この発言は、保守党が総選挙なしに政権を奪取しようと企図していることを示唆した。するとその翌日レイトン党首は、ハーパー党首はケベック連合と組んで、マーチン首相を選挙の洗礼なくして政権から引きずり降ろし、彼自身が取って代わろうと企だてていると語り、三党合意からの離脱を宣言した。だが保守党とケベック連合は、レイトン党首の非難には根拠がないと一蹴した。

 デュセップ党首は2011年政治危機のさなか、自由党が新民主党・ケベック連合と野合し選挙の洗礼なしに政権を簒奪しようとしているというハーパー首相の非難に対し、ハーパー自身もかつて野党と談合し選挙の洗礼なしに政権を奪取しようとしたではないかと暴露した。

 

 (5) 2006年連邦議会選挙:総理就任

 スポンサーシップ事件に関するゴメリー委員会の報告書は、当時の自由党政権に責任があるとする内容だった。これを境に自由党の支持率は低下したため、これを好機と見たハーパー党首は2005年11月24日、内閣不信任案を提出した。すると新民主党は、自党が提案した健康保険民営化を阻止する法案を自由党に拒否されたため、閣外協力の取り止めを発表した。内閣不信任案は171対133で可決されたが、これはカナダの憲政史上初めてのことだった。マーチン首相は下院を解散し、2006年1月23日の総選挙が公示された。

 自由党はまたしても、保守党の隠しマニフェストを批判した。だがハーパー党首は前回の失敗に懲り、感情的にならず、減税や犯罪厳罰化を粛々と訴え、選挙戦の緒戦をリードした。

 保守党政権になれば戒厳令が敷かれるという、自由党による(ややナンセンスとも言える)ネガティブCMは、軍の抗議により放送中止となった。自由党はマーチン首相派がクレチエン前首相派を冷遇したため、党内に大きな亀裂が走り、士気は上がらなかった。そこへラルフ・グッデイル財務大臣のインサイダー取引疑惑が発覚し、自由党は長期政権に驕っているという印象を与えた。

 選挙結果は、過半数は逃したものの、保守党は124議席を獲得し、以下自由党103議席、ケベック連合51議席、新民主党29議席、無所属1議席(定数308)となり、ハーパーはついに悲願の政権交代を果たしたのだった。

 2006年2月6日、ハーパーは首相として宣誓した。

「カナダとイギリスは、チューダー朝、プランタジネット朝、マグナ・カルタ、人身保護法、権利の請願とイングランドの慣習法の偉大な時代に連なる王冠の黄金の環によって結びついている。」

 ハーパーのこのスピーチについて、グレアム・フレーザーは「ディーフェンベーカー以降のカナダの首相で、最も王室に忠誠を誓った宣誓である」と評した。

 

 (6) 2008年連邦議会選挙:再び少数政権

 保守党は政権を奪取したものの、過半数割れであった。歴代政権の法案成立率はおおむね90%程度だが、ハーパー政権は過半数割れなのでわずか48%であった。どのような法案も野党の協力なしには可決できなかったし、初めの2度の予算案は、ケベックに予算を割くことを条件にケベック連合の同意を取り付け、可決させている。だが保守党は単独では法案を可決できなかったが、野党3党いずれか一つの協力を得れば可決できたので、最も魅力的な案を提示する党とパーシャル連立を組んで乗り切ってきた。いっぽう自由党は、法案を否決させるためには野党3党すべての連携が必要だった。

 ハーパー首相は2008年9月、過半数獲得を期して解散・総選挙に打って出た。だが選挙期間中にリーマン・ショックが起こり、与党の経済政策への逆風となる。保守党はオンタリオで躍進できず、ケベックで上積みできず、ニューファンドランド&ラブラドル州では進歩保守党政権に造反され全ての議席を失い、議席を143に増やしたものの、過半数には及ばなかった。保守党の得票率22%はカナダの歴史上、与党最低の得票率であった。

 

 (7) 2008年政治危機

 2008年総選挙で敗北した自由党では、ディオン党首が辞意を表明した。ところがハーパー首相は翌年度予算案に、政党助成金廃止を盛り込んだ。これは、野党3党を決定的に追い詰める結果となった。野党3党は政党助成金を死守するため、ハーパー内閣を不信任し、3党連立政権を樹立すると発表した。ハーパーは、ディオン党首が辞意表明したため、たとえ彼らが政権を倒しても首相候補はいないだろうと、高をくくっていたのだった。

 ヨーロッパ諸国を歴訪していたジャン総督に、野党3党は連立政権協定に合意したという手紙を送った。するとハーパー首相も手紙を送り、野党党首と会ってはならないという手紙を送った。ただならぬ事態を見たジャン総督は、予定を切り上げて急遽帰国し、その翌日総督公邸でハーパー首相と会談した。

 首相は、連邦議会の停会を要請した。国事行為に関する首相の総督への「助言」は、形式的なもので長時間にはならないのが通例だが、この会談は異例の2時間にも及び、総督はついに議会の停会に同意した。このとき二人にどのようなやり取りがあったのかは公表されていないが、誰もが停会などできないと予想していたとき、ハーパー首相は側近に、総督は必ず停会に同意すると語っていた。いっぽうジャン総督の側近は、総督は首相に脅迫され狼狽していたと漏らしている。

 議会の停会により内閣不信任が不可能となると、自由党内ではディオン党首に即時の辞任を求める声が高まり、彼は12月、首相に指名されるはずだった日に辞任した。連立反対の右派は巻き返しを図り、右派のイグナティエフが新しい党首に就いたことで、連立協定は反故にされた。

 停会は2009年1月26日まで続いたが、ハーパー首相はこの年12月30日にも、バンクーバー・オリンピックを理由に3月3日まで連邦議会を停会し、1年に2度の停会を実施した。だが国民の多くは、アフガニスタンに抑留されたカナダ兵に関する審議を封じるのが真の理由だと疑った。アンガス・リード社の世論調査は、カナダ人の53%が停会に反対だとする結果を示した。

 

 (8) 上院改革

 ハーパー首相は2004年、「上院は、首相のお気に入りの仲間たちのためのゴミ捨て場のままである」と語った。カナダ保守党は、その前身の改革党・カナダ同盟時代から、選挙のない上院に反対してきた。彼は2008年12月まで、上院の欠員を指名・補充しようとはしなかった。マイケル・フォルティエ氏は唯一の例外で、ハーパー首相の腹心だった彼には、上院議席のほかに公共安全大臣ポストも与えられたが、それは明らかに公約違反だった。これについてハーパー首相は「保守党はモントリオールで議席を得るのが困難だった」、フォルティエ氏自身は「選挙に出馬したくなかった」と弁解した。

 フォルティエ氏は閣僚でありながら、下院に出席しなかったので、彼に代わって政務次官が答弁した。2008年、彼は上院議員を辞職し、下院選挙に出馬したが、落選した。

 ハーパー首相は2008年12月、突如上院の18人の欠員について議員を指名した。2009年8月には9人、2010年1月には5人を指名し、ついに上院で第一党となった。指名された人々の多くは、保守党の大口献金者などだった。自由党は、ハーパー首相をHarpocrisy(偽善はhypocrisy)と非難した。

 ハーパー首相は結局、上院改革については何もできず、歴代首相と同じことをしただけに終わった。

 

 (9) 2011年連邦議会選挙:ついに過半数に

 KAIROSへの資金援助に関する同意書を改竄した問題について、オダ国際協力大臣は2010年12月「誰がやったのかわからない」と答弁したが、翌年2月にこれを翻した。これは憲政史上初めて、現職閣僚が「議会侮辱」に問われるという結果を招いた。下院で過半数を占める野党3党は内閣不信任案を156対145で可決させ、総選挙をひき起こした。

 保守党はケベックでわずか5議席しか獲得できなかったものの、オンタリオで73議席を獲得して第一党となり、全国では166議席と、ハーパーは3度目の正直でようやく過半数を手に入れた。保守党の連続3選は、50年ぶりであった。

 

 (10) 2015年連邦議会選挙:下野

 2014年4月、ハーパー政権を支えてきたフラハティ財務大臣が死去したニュースは、不吉な前兆だった。それと前後してジム・プレンティス氏、ジェイソン・ケニー氏、ピーター・マッケイ氏ら重要閣僚が次々に政界引退を発表し、ハーパー首相との不仲を思わせた。

 2015年5月、保守党のお膝元アルバータ州の総選挙で、進歩保守党が44年の一党支配を終え、新民主党による初の革新政権を誕生させたことも、ハーパー政権に暗い影を落とした。

 8月に解散・総選挙が公示されると、いち早くトップに立ったのは新民主党だった。保守党はマイク・ダフィー上院議員の裁判が重なり、上昇気流に乗れなかった。国民は何より、変化を望んでいた。ハーパー政権は財政均衡を重んじたが、カナダ銀行が景気刺激のために利下げをするなかで緊縮財政に努めることは、意味をなさなかった。新民主党も、政権奪取を意識したのか均衡財政を主張したが、トルドー党首の訴える少々の財政赤字を3年続けるプランの方が、有権者に評価された。保守党はニカブ問題で新民主党を攻撃し、トルドー党首を「素敵な髪」と揶揄する批判広告を打ったが、中傷合戦から身を引いた自由党が支持率を上げていった。結果は99議席と、10年ぶりの2ケタ議席に留まった。ハーパー首相は党首を辞任した。

 

 (11) 異色の経歴

 カナダ首相は圧倒的に弁護士出身が多いが、ハーパーはロースクールを卒業していない。またカトリックが多いなか、ハーパーは福音派クリスチャンである。大学を中退していること、自由党・進歩保守党・改革党いずれも主流になれなかったことなど、ハーパーの経歴はエリートにはほど遠い。

 だが彼の独特の経歴とバランス感覚は、右翼のカナダ同盟と中道右派の進歩保守党が合同したカナダ保守党の指導者として、重要な資質となっている。彼自身は妊娠中絶・同性婚・死刑廃止に反対だが、それを政治日程に乗せることはしないと公言している。2006年12月、同性婚廃止が連邦議会で否決されると、彼は「将来この問題を蒸し返すことはしない」と約束した。また2006年11月、ケベック連合提出の「ケベック人は国を構成する」動議についても、他党に反対させるための謀略と見抜き、「ケベック人はカナダの中で国を構成する」という修正動議を提出し、ケベック連合を逆に反対に回らせた。

 人権問題には独特の対応を見せる。中国系移民への人頭税について2006年6月に謝罪し、誤った情報を提供したためシリア系カナダ人がシリアで投獄された事件についても2007年1月に謝罪、カナダ国籍のウィグル人活動家が中国で拘束され2007年4月に起訴された件では中国に抗議している。2007年11月には日本の慰安婦非難決議に同調し、2008年6月には先住民への同化政策について謝罪、2008年8月には北京オリンピックボイコットは拒否したものの、開会式への出席を見合わせた。

 環境問題については、産油州アルバータを基盤としていることから、2011年京都議定書から脱退した。

 

 

スーパースターの御曹司、国民に親しまれ親子で首相の座に

 Justin Pierre James Trudeau1971〜 )
 第28代首相(2015年11月4日〜 )

 ジャスティン・トルドーは、ピエール・エリオット・トルドー首相とマーガレット・トルドーの長男としてオタワの病院で生まれた。母マーガレットの父は、ジェームズ・シンクレア水産大臣である。

 父ピエールはカナダ史上のスーパースターであり、ジャスティンは首相官邸で育ち、生まれたころからカナダ人に見守られるように育った。現職首相の子が生まれるのは、マクドナルド首相の娘マーガレット・メアリに次いで2人目である。

 ジャスティンには、弟アレクサンドルとミシェル(1998年雪崩のため死去)がいる。母マーガレットは後に再婚し、カイルとアリシアを産んだ。父ピエールは、デボラ・コイン氏との間にセーラを産んでいる。

 ジャスティンは、ブリティッシュコロンビア大学とマギル大学で学び、卒業後はバンクーバーのウェスト・ポイント・グレイ・アカデミーとサー・ウィンストン・チャーチル・セカンダリースクールで教師を務めた。

 ジャスティンは若いころから自由党員となっていたが、議員になる前からいずれ首相候補になるものと目されていた。2006年党首選には立候補せず、ジェラルド・ケネディ候補を支援した。彼は途中で敗退し、ステファン・ディオン候補支持に回った。

 2008年総選挙で、ジャスティンは初めて立候補し、初当選した。ディオン党首は辞任し、党首選が開催されることになると、ジャスティンの名が候補に挙げられたが、彼は出馬せず、マイケル・イグナティエフが党首に就任した。

 2011年総選挙では、自由党は34議席と結党以来最低の大敗を喫し、イグナティエフ党首は辞任した。ジャスティンはこのときも出馬を取り沙汰されたが、彼は沈黙を守った。しかし2012年10月になると、出馬を明言した。ジャスティンはまだ当選3回で41歳だったが、低迷する自由党にあって党再生のための最後の切り札と見なされていた。最有力候補だったマルク・ガルノー候補も辞退するに及び、得票率80.1%で圧勝し、党首就任した。彼は政治歴が浅く、外交・経済手腕は未知数だったが、各種世論調査はジャスティンが党首なら支持率が急増することを示した。

 彼は就任以来高い支持率を誇っていたが、2014年秋にイスラム過激派のテロが続発すると、若く経験のない彼は頼りないと見られたのか、支持率が下降を始める。翌年8月の解散時には、支持率3位から選挙戦を戦うことになった。だが戦後最長の選挙戦は、自由党に有利に働いた。序盤で支持率トップに立った新民主党は、政権奪取を意識して、均衡財政を主張した。だがジャスティンは、景気を刺激するために財政支出を増大させ、当面は赤字財政とするという方針は、有権者の心を巧みに捉え、10月には支持率トップに立った。

 かつてロン毛だった彼を、保守党は「素敵な髪」と揶揄する広告を作り、新民主党も保守党の批判広告を作ったが、自由党は中傷合戦から距離を置いた。ロースクール出身でない彼はエリートではないが、人々に親しまれるよう努め、選挙期間中は多くの支持者とともにセルフィーを撮らせ、予想を覆し過半数を獲得し、次期首相に指名されることになった。

 妻ソフィー・グレゴワール=トルドーは、弟ミシェルの同級生で幼なじみ。2003年、テレビタレントとなっていた彼女と再会し、デートを重ね2005年に結婚。ザビエル・ジェームズ、エラ=グレース・マーガレット、アドリエンの3人の子がいる。

 

 

 

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