[3]カナダ主義の時代(1963〜1993年)

 

18代 Lester Bowles Pearson1963年4月22日−1968年4月20日)
19代 Joseph Philippe Pierre Yves Elliott Trudeau1968年4月20日−1979年6月4日)
20代 Charles Joseph Clark1979年6月4日−1980年3月3日)
21代 Joseph Philippe Pierre Yves Elliott Trudeau1980年3月3日−1984年6月30日)
22代 John Napier Wyndham Turner1984年6月30日−1984年9月17日)
23代 Martin Brian Mulroney1984年9月17日−1993年6月25日)
24代 Avril Phaedra Douglas Campbell

 ピアソンとトルドーの自由党政権は、しばしば少数政権となったが、新民主党の協力により比較的安定した政権となった。カナダはこの時代にメディケア、カナダ年金プランなど今日に続く主要政策を打ち出し、福祉国家としての性格を明確にしてゆく。また新国旗制定、英仏二言語公用語化、新国歌制定、新憲法制定と、イギリスとは異なる独自のアイデンティティが確立された時代でもある。
 だがトルドーは、国家エネルギー計画で西部を怒らせ、1982年憲法でケベックを失望させた。政権を奪回した進歩保守党のマルローニは、制定して10年にもならない新憲法には瑕疵があるとして、ケベックには憲法上の「特別な地位」を、西部には上院改革をそれぞれ何の関連性もなく約束し、自由党政権とは異なる形で連邦主義を志向した。しかし彼が起草した2つの憲法改正試案は、いずれも廃案となり、カナダ全州を怒らせる結果に終わった。進歩保守党は1993年総選挙で壊滅し、カナダはその後10年かけた政界再編と、その間の自由党一党支配体制を経験する。そして憲法改正に見切りをつけたケベックは、1995年の独立を問う住民投票へと突き進んで行くのである。



●史上最強の少数政権
Lester Bowles Pearson18971972

18首相1963年4月22日−1968年4月20日)


 レスター・ピアソンは、オンタリオ州ニュートンブルックで牧師の息子として生まれた。トロント大学とオックスフォード大学で学び、第一次世界大戦では英国陸軍航空隊に所属した。彼を訓練した教官が、「レスター」の名は女性のようで飛行士にふさわしくないとして、「マイク」と名づけた。ピアソンはその後、公文書や公共の場では本名の「レスター」を名乗ったが、私生活では「マイク」を名乗り続けた。
 大学卒業後はトロント大学で歴史学を教えていたが、31歳のとき外務省試験に首席で合格し、1945年には駐米大使に就任する。
 1948年、サンローラン内閣の外務大臣となり、その直後に下院議員に当選。1957年のスエズ戦争(第二次中東戦争)においては、国連平和維持軍の創設を提唱し、停戦を実現したことでノーベル平和賞を授与された。

 (1) 野党党首
テキスト ボックス: ノーベル賞のメダルを見せるピアソン。 サンローラン首相引退を受けて、1958年自由党党首に就任するが、景気悪化を理由に、選挙の洗礼なくして自由党に政権を委譲するよう要求する演説を下院で行う。しかし「景気は今後低迷に向かう」と記された自由党の内部文書を、ディーフェンベーカー首相が暴露したことで、この戦略は逆効果となり、自由党は尊大だという印象を与えただけに終わった。その年実施された総選挙は、ケベックを苦手としていた進歩保守党がユニョン・ナショナルの協力を得て、ニューファンドランドを除く全ての州で過半数を獲得し、265議席中208議席と(当時で)史上最大の圧勝に終わった。自由党は48議席と、結党以来最低の結果となった。
 1962年総選挙では、ケベックの独裁者デュプレシが59年に死去した影響で、進歩保守党がケベックで36議席減らしたものの、全体では265議席中116議席を獲得し、少数政権を率いることになった。自由党は100議席と健闘したが、及ばなかった。自由党党首にはチャンスが2度与えられることになっており、2連敗を喫すれば降ろされるのが常道だが、ピアソンは党首に留任し3度目のチャンスが与えられることになった。

 (2) 総理大臣
 ディーフェンベーカー首相とその側近は、ボマーク・ミサイルへの核弾頭搭載に反対した。ところが多くの保守党議員や野党は、核弾頭のないボマーク・ミサイルは役に立たないと主張した。閣内でも意見が割れ、ハークネス国防大臣が1963年2月に辞任した。
 自由党が翌日内閣不信任案を提出すると、ミサイル問題に関連して社会信用党がディーフェンベーカー内閣への協力を取り下げたので、142111で可決され、解散・総選挙となった。こうして行われた1963年総選挙は、自由党が265議席中129議席を獲得し、わずかに過半数割れながらピアソンがついに首相の座を手に入れた。
 彼は「決定の60日」と称し、政権発足後60日でドラスティックな改革を打ち出すことを約束してテキスト ボックス: 右からピアソン首相、クレチエン無任所相、ターナー無任所相、トルドー法相。後に全員が首相になる。いた。まずミサイル問題については、NORADNATOの義務にしたがい、アメリカとの共同管理のもとで核弾頭を受け容れた。さらにアメリカの迎撃機用空対空核ミサイルのカナダ国内貯蔵にも同意したが、これは米加共同管理ではなく、アメリカの管理となった。カナダが非核政策を提唱するのは次のトルドー政権からで、これが実現するのは84年のターナー政権下である。
 1965年総選挙では、自由党は265議席中131議席を獲得し、引き続き少数政権を率いることになった。ピアソンは党首として4度の選挙を戦い、一度も過半数を獲得しなかったことになる。過半数政権を経験しなかった首相には、ジョー・クラークとスティーブン・ハーパーがいる。
 ピアソンは下院で過半数を持つことはできなかったが、新民主党の協力によって多くの政策を導入した。彼の重要な業績として週40時間労働、メディケア、カナダ年金プラン、メープルリーフの新国旗制定が挙げられる。これらは今日まで続くカナダの骨子となる政策であり、イギリスとは異なるカナダ・アイデンティティを構築し、福祉国家としてのカナダの性格を明確に打ち出したことで、ピアソン政権は「史上最強の少数政権」だったと考えられている。また1965年には米加自動車協定を締結し、失業率を過去10年で最低に減少させた。

 

 (3) 外交関係
 ケネディ大統領はピアソンを尊敬し、個人的にも親しかった。それゆえ前任者のディーフェンベーカー首相は、ケネディがピアソンを首相にするため暗躍しているという被害妄想に、生涯取りつかれ続けた。だがその蜜月関係も、ケネディの暗殺で終わりを告げる。
 1965年4月2日、ピアソンはフィラデルフィアのテンプル大学で、ベトナム和平を支持する演説を行った。ところが翌日、キャンプ・デービッドのジョンソン大統領を訪ねたとき、ジョンソンはピアソンの胸倉をつかんで「俺の顔に泥を塗ったな!(You pissed on my rug!)」と怒りをあらわにした。米加首脳が不仲になるのはよくあることだが、これほど露骨な行動に出たのは、後にも先にもなかった。ジョンソンは、外国の要人が自国内はともかく、アメリカ国内で自分への批判的発言をするのを絶対に許さなかったという。だがピアソンは、この掟を知らなかったようだ。
 1967年、モントリオール万博のためケベックを訪れていたフランスのド=ゴール大統領が、群集に向かって「自由ケベック万歳」と叫んだ。これは第二次大戦中、ナチス占領下にあったフランスを解放したときの言葉をもじったものだった。
テキスト ボックス: 左からジョンソン大統領、ベネットBC州首相、ピアソン首相。 だがピアソンは、2つの世界大戦においてカナダがどれほどフランスに貢献したかを思い、許せないと感じた。彼は「カナダ人は解放される必要はない」と述べて、不快感をあらわにした。ド=ゴールはその後の訪問スケジュールを全てキャンセルされ、早々に帰国することを余儀なくされた。

 

 

●過大評価された英雄

Joseph Philippe Pierre Yves Elliott Trudeau19192000

19首相1968年4月20日−1979年6月4日)

21代首相(1980年3月3日−1984年6月30日)

  (1) 前半生
 モントリオールで資産家の家に生まれる。父はフランス系、母はスコットランド系で、家では父に英語、母にはフランス語を話す生まれながらのバイリンガルだった。
 モントリオール大学で法律を学んだ後弁護士資格を取り、ハーバード大学で政治経済学修士号を取得。1948年、中東を旅行中スパイ容疑で逮捕される。1949年、アスベスト鉱山ストライキに労働者側弁護士として関わり、逮捕される。共産主義経済会議出席のためモスクワを訪問中、スターリン像に雪を投げ逮捕される。このころ反体制雑誌「自由の街」編集長となり、デュプレシの抑圧支配を批判してジェラール・ペレティエ、ジャン・マルシャンとともに「ケベックの三賢人」と呼ばれる。このころアメリカで入国を拒否される。1960年、カヌーでフロリダからキューバへ渡航しようとして、80キロ地点で断念。1961年、まだ国交のない中国を訪問する。1961年、モントリオール大学准教授となる。
 1965年総選挙で自由党から出馬し、初当選を果たす。ピアソン首相の核配備受け入れを批判したにもかかわらず、1967年ピアソン内閣の法務大臣に任命される。離婚・中絶・同性愛について寛容な姿勢を示し、国民の人気を博した。
 ピアソン首相が1968年の引退を発表すると、トルドーは党首選出馬を表明する。1965年に入党したばかりの彼は当選1回のアウトサイダーと見なされ、党内右派からも強い反発を受けたが、彼は当選し、首相に就任した。
テキスト ボックス: 女王の死角でバレエを踊るふりをしておちょくるトルドー首相。
 (2) 第一次政権−カナダ・アイデンティティの構築
 トルドーのアウトサイダー・イメージは若者の人気を呼び、「トルドーマニア」を生んだ。トルドー政権は1970年、西側諸国で最初に中華人民共和国と外交関係を結び、北京を訪問してニクソン大統領を激怒させた。ニクソンは後年、中国との交渉の仲介役にわざわざカナダを避け、ルーマニアを選んでいる。貧しい家から叩き上げでのし上がって来たニクソンは、金持ちでハーバード卒でバイリンガルでプレイボーイで、そのうえ容共主義のトルドーが大嫌いだった。後にウォーターゲート事件が発覚したとき、ニクソンが「あのトルドーのバカ野郎(asshole)」と語ったテープが公開されている。
 同年の十月危機では、戦時中でないにもかかわらず戒厳令を発令し、賛否両論を呼んだ。
 1971年には「多文化主義」宣言を行い、英仏二か国語を公用語と定め、1980年には「オー・カナダ」を国歌に制定して「カフェイン抜きのアメリカン」などと評されたカナダ人のアイデンティティ構築にテキスト ボックス: キューバのカストロ首相と会談するトルドー首相。努めた。だがトルドー自身は後に、全てのカナダ人が二か国語を話すよう要求するかのような印象を与えたため「バイリンガリズム」という用語を使用したことを後悔していると語った。

 (3) 華麗な交友関係
 1969年のクリスマス・イブに、ジョン・レノンとオノ・ヨーコ夫妻がトルドー首相を訪問した。このときレノンは「全ての政治家がトルドーのようだったら、世界は平和になるだろう。カナダ人は彼のような人材を得てどれほど幸運なことか」と語った。
 トルドーは1971年、シンクレア水産大臣の娘マーガレットと電撃結婚し、現職首相として唯一結婚した人物となった。だがいっぽうでは女優バーブラ・ストライザンドを公共の場に同伴し、オンタリオ州首相ボブ・レイの姉妹ジェニファー、リオナ・ボイド(ギタリスト)、マーゴット・キッダー(女優)、キム・キャトラル(女優)とも交際するなど浮気癖が直らず、マーガレット夫人は精神科に入院したこともある。その夫人もエドワード・ケネディ上院議員やローリング・ストーンズのロン・ウッドと関係し、1984年ついに離婚する。こうしてトルドーは現職首相としてテキスト ボックス: バーブラ・ストライザンドを同伴するトルドー首相。唯一離婚した人テキスト ボックス: リオナ・ボイドとのデートを楽しむトルドー首相。物となった。

 

 (4) 第二次政権−社会主義の影響
 1972年総選挙では、7.1%の失業率、5.3%のインフレが話題となった。結果は定数264議席のうち自由党109、保守党107、新民主党31、社会信用党15史上最大の接戦を際どく制したトルドーが少数政権を組織することになったが、新民主党の閣外協力が不可欠となった。それゆえ第二次トルドー政権には、外国資本の参入を規制する外国投資審査庁の設置や、カナダ石油公社の設立など、社会主義的政策が見られる。
 その後支持率の上昇を見た彼は、予算案編成について新民主党の要求をわざと拒み、1974年下院で内閣不信任させた。ただちに下院を解散し、その年行われた総選挙では自由党が141議席と過半数を回復し、安定政権を築くことに成功した。
 だがその後景気は悪化し、財政赤字は増大し続けた。妻との別居や妻の自伝がゴシップとなり、1979年総選挙の投票日前日にはマーガレット夫人がナイトクラブで踊っている姿が目撃され、その写真が翌日あらゆるメディアで公表された。トルドー自由党はジョー・クラーク率いる進歩保守党に敗れ、トルドーは党首辞任を表明したが、次の党大会で党首が選任さテキスト ボックス: 30歳年下のマーガレットとの挙式。れるまで党首に留まることにした。だがその年のうちにクラーク内閣が不信任されたため、トルドーは辞任を撤回し、総選挙を戦うよう説得された。

 (5) 第三次政権−西部の疎外
 翌1980年の総選挙でトルドーは進歩保守党を破り、政権を奪回する。だがこの選挙は、カナダを東西に大きく分断することとなった。自由党は地盤のケベックで75議席中74議席を獲得したが、西部ではマニトバで2議席を得ただけで、サスカチュワン以西で議席を得られなかったのである。
 彼はアメリカとの自由貿易を否定し、アメリカ資本への従属を阻止するためカナダ経済を囲い込む政策を取ったが、西部諸州は遠い中部と取引するよりアメリカ西部と取引する方が有利だったから、西部では不評だった。また第二次オイルショックを受けた、石油利潤を各州に再分配する「国家エネルギー計画」の導入は、西部を激怒させ「西部の疎外」を生んだ。アルバータ州は国家エネルギー計テキスト ボックス: エリザベス二世が1982年憲法に署名するのを見守るトルドー首相。新憲法は総督を「事実上の」国家元首と規定し、国王は象徴的存在となった。これは憲法がイギリスからカナダに移管された瞬間であり、そして女王がカナダを手放した瞬間でもあった。画によって、500億ドル以上の歳入を失ったと考えられている。だがトルドーは中西部に議席がなく、自由党の地盤にならないことがわかっていたため、彼らがどんなに嫌がる政策でも痛みを伴わず実行できたのである。
 1982年には、彼の最大の功績とも言える新憲法制定を実現させた。旧憲法に欠けていた人権に関する規定を定めたほか、イギリスの同意なしにカナダ独自で憲法改正できるようになり、カナダはここに完全独立を達成する。だが当初ケベックに約束されていた「特別な地位」は土壇場で反故にされ、ケベックは新憲法の批准を拒否した。自由党は歴史的にケベックを強固な地盤としてきたが、1982年憲法制定以後、連邦議会で一度もケベックで第一党になっていない。
 1981年には失業率が8%と戦後最大の水準に達した。財政赤字はトルドーが首相に就任した1968年には180億ドル(GDP24%)だったのが、1984年には2000億ドル(GDP44%)にも膨れ上がっていた。トルドー内閣支持率は1982年憲法制定から下降を始め、1984年の初めには、世論調査はトルドーが総理・総裁に留まるなら自由党は確実に総選挙で敗北することを示した。彼は6月に総理・総裁を辞任し、政界を引退した。

 

 (6) 引退してなお影響力
 引退してもなおトルドーは英雄であり、隠然たる影響力を保持していた。マルローニ首相が提唱した、ケベックを憲法体制に取り込むための憲法改正試案であるミーチレイク協定とシャーロットタウン協定は、1982年憲法を制定したトルドーの功績を修正する行為にほかならず、ケベック文化を「尊重される文化」、先住民に「特別の地位」を規定するのは国民平等の観点からも問題だと、トルドーは引退した身でありながら公然と2つの協定に異議を唱え、いずれも廃案に追い込んだ。トルドーもマルローニもケベック独立を阻止し連邦を維持する立場に違いはなかったが、その手法はあまりに違い過ぎていた。
 トルドー首相は公用語・国歌・憲法を制定しカナダ・アイデンティティを構築するなど、その15年の治世においてスーパースターとしての揺るぎない地位を確立したが、経済に弱く、カナダ経済を囲い込む「経済ナショナリズム」政策は失敗に終わり、トルドーは過大評価されているきらいがある。
 彼は政権末期にはケベックの恨みを買い、西部の憎しみを買った。この両者は本来敵対関係にあったが、進歩保守党のマルローニ首相は、両者のトルドーに対する恨みに巧妙に乗じ、ケベックには憲法上の特別の地位を、西部には国家エネルギー計画の廃止と自由貿易を約束して、ケベックと西部の「大連立」という歴史的和解を実現し、1984年総選挙で大勝利する。だが前者は2つの憲法協定の破綻、後者は戦後最大の不景気と西部の離反を招いた。この2つの災難の元凶が実はトルドーにあることは、カナダ史のタブーとして意図的に伏せられているようだが、この2つが進歩保守党を崩壊に導き、自由党一党支配を確立させたのがトルドーの「功績」だと言っては、故人に対しあまりに気の毒というものだろうか。
 またトルドーは政権末期に対米関係をこのうえなく悪化させたが、マルローニ首相はレーガン大統領とアイルランド系同士、ネオコン同士でウマが合い、史上かつてないほどアメリカ寄りの政策を取った。これはもちろんアメリカ嫌いのカナダ人には不評だった。
 歴史家マイケル・ブリスは、トルドーを「最も賞賛され、かつ最も嫌われた首相である」と述べている。

 

 

39歳史上最年少の首相、59歳のカムバック
Charles Joseph Clark1939〜 )
20代首相(1979年6月4日−1980年3月3日)


 ジョー・クラークはアルバータ州ハイリバーに生まれた。高校時代はハイリバー・タイムズ、カルガリー・アルバータン、アルバータ大学の学内報「ゲイトウェイ」などで働いた。その後アルバータ大学に進み政治学を学ぶが、エドモントン・ジャーナルやカナディアン・プレスでもアルバイトとして勤め、一時は真剣にジャーナリストの道に進むことも考えたという。
 大学時代のクラークは、進歩保守党の青年部長を務めるなど政治活動にのめりこみ、そこで知り合ったモリーン・マクティアと1973年に学生結婚する。アルバータ在住で保守党でありながら夫婦別姓というスタイルは、後にファーストレディになったとき話題になったが、同時に保守派による風当たりも強かった。
 ディーフェンベーカー首相を崇拝者する彼は、1967年のアルバータ州議会選挙で進歩保守党から出馬するが、落選し、後の州首相ピーター・ローヒードや後の党首ロバート・スタンフィールドの秘書を務めた。
 1972年、連邦下院選挙で当選し政界入りを果たす。保守本流のレッド・トーリーを自負するクラークは、マリファナ解禁とベーシック・インカムをカナダで主張した最初の政治家の一人だった。党内最左派の彼のポリシーは、むしろ自由党に近いほどで、党内右派の強い反発を呼んだ。例えば、クラークの選挙区がもう一つの選挙区と合併することになったとき、1979年総選挙でその選挙区の保守党議員は、クラークが党首であるにもかかわらず選挙区を譲らなかった。それでクラークは、イエローヘッド選挙区からの出馬を余儀なくされたことがあった。

 (1) 野党党首
 1976年、ロバート・スタンフィールドが党首を辞任したため、党首選が行われることになった。レッド・トーリーの中で下馬評が高かったのは、女性で初めて立候補したフローラ・マクドナルド(後の外相)だった。ところが最初の投票で、クラークが右派のクロード・ウェゲナーとブライアン・マルローニに次ぐ3位につけたのに対し、マクドナルドは反女権キャンペーンを貼られ6位に沈んだ。彼女は第2回投票の後脱落し、自陣営にクラーク支持を訴えた。
 いっぽう右派は、ウェゲナー支持で一致した。マルローニは政治歴のないビジネスマンで、彼の金権選挙には多くの党員が眉をひそめていた。
 他のレッド・トーリー候補が次々と脱落するなか、クラークはそれらの陣営を着実に自陣営に取り込み、第4回の投票でついに、1187票対1122票の僅差で勝利した。36歳での党首就任は、今も連邦議会に議席を持つ党では最年少である。
 トロント・スター紙は、クラークの勝利を“Joe Whoと報じた。このフレーズは、生涯彼につきまとうことになる。新聞は彼を、大きな頭と大きな耳の漫画で揶揄した。若く、経験も浅く、生真面目な彼が偉大なトルドーの対等なライバルだとは、とうてい思えなかった。だが彼は己の未熟を自覚し、スタッフの意見には謙虚に耳を傾けた。1977年に下院のテレビ放送が始まると、彼はこれを好機と捉え、しばしば機知に富んだ発言をした。彼は議会で、こう語った。
「景気後退とは、あなたの隣人が職を失う時である。不景気とは、あなたが職を失う時である。景気回復とは、ピエール・トルドーが職を失う時である」。
 赤字予算、高いインフレと高い失業率で、自由党政権の支持率は低下していった。マーガレット・トルドー夫人のスキャンダルが、追いうちをかけた。トルドー首相は総督に、支持率回復を期して、次の総選挙をできるだけ遅くするよう依頼したが、それは僭越と見られ逆効果となった。
 苦境に陥った自由党は、選挙戦終盤になると「新人のトレーニングをしている時ではない」「成長のため強いリーダーシップが必要だ」と、クラークの若さと経験不足を集中的に攻撃した。だがクラークは「今こそ変革のとき−未来にチャンスを与えよう」と、変革と刷新を強調するスローガンで応えた。彼はまた、景気刺激のための減税を公約した。
テキスト ボックス: 総選挙に勝利したクラークとモリーン・マクティア夫人。 1979年総選挙は、進歩保守党が282議席中136議席を獲得し、過半数にはわずかに及ばなかったものの、自由党の16年にわたる長期政権をついに打倒した。自由党は数人の閣僚を含む27議席を失い、トルドーは次の党大会で党首を辞任する意向を表明した。

 

 (2) 総理大臣
 1979年6月4日、クラークは40歳の誕生日の前日に、史上最年少で首相に就任した。進歩保守党は過半数に6議席足りなかったが、右派の社会信用党がちょうど6議席あったので、連立すれば安定政権を築くことができた。社会信用党も12議席あれば公式政党として、代表質問や委員会に委員を送ることができたので、統一会派を希望した。ところが「原理原則の人」クラーク首相は譲歩を嫌い、統一会派を拒否した。そればかりか、社会信用党のリシャール・ジャネル議員に自党への入党を勧めた。
 この年上程された予算案は、インフレ抑制を主眼としたもので、そのうえ予算の赤字を減らすため、ガソリン1ガロンにつき18セントの増税を見込んでいた。真面目一徹のクラークは、国民に甘い約束をすることをよしとせず、正直に「長期的視野からの利益のため、一時的な痛みに耐えて」と訴えたが、国民は彼の公約違反に憤った。オンタリオ州のビル・デイビス首相は、進歩保守党でかつレッド・トーリーであるにもかかわらず、ガソリン税増税に公然と異をテキスト ボックス: 「さあみんな上がって、休憩時間だよ!」若いクラークはいずれ自滅すると見て「泳がせて」いるトルドー。唱えた。
 社会信用党は、ガソリン税収益を地盤のケベック州に割り当てるための修正を迫ったが、クラーク首相に拒否されたため、予算案採決の棄権を決意する。いっぽう野党自由党は、入院中の議員を救急車で引っ張り出してまで反対票を投じさせた。その結果予算案は否決され、クラーク首相は計算ができないと批判された。
 クラーク首相は、解散・総選挙に追い込まれても、自由党はトルドーが辞任を表明し党首不在のため、簡単に勝てると考えていた。だが予想外の総選挙となり、トルドーは党首辞任を撤回し、政権奪取のため先頭に立って戦うと宣言した。オンタリオでは進歩保守党政権がガソリン税増税反対キャンペーンを行い、多くの有権者が自由党に流れた。こうして1980年の総選挙は、自由党が282議席中146議席の過半数を獲得したのに対し、進歩保守党は103議席に沈み、テキスト ボックス: 1979年の東京サミット。左からジェンキンス委員長(EC)、クラーク首相(カナダ)、カーター大統領(アメリカ)、大平首相(日本)、シュミット首相(西ドイツ)、ジスカール=デスタン大統領(フランス)、サッチャー首相(イギリス)、アンドレオッチ首相(イタリア)。クラーク政権はわずか9か月の短命に終わった。

 

 (3) 党首選敗北
 野党転落により、クラークの党首としての適性に疑問が投げかけられた。党内右派を中心に、クラーク体制を打倒しようとする勢力があると噂され、マルローニは「党首の地位を求めてはいない」と言うために、クラークと共同記者会見しなければならなかった。
 自由党のトルドー政権は、住民投票でのケベック独立を阻止し、1982年憲法制定で、揺ぎない地位を築いたかに見えた。だがこれは同時に、自由党のケベック支配の終わりをも意味した。自由党はその根拠地において、支持を失いつつあった。財政赤字は増大し、不景気と戦後最悪の失業率が追いうちをかけ、このまま総選挙に突入すれば、自由党の敗北は確実となった。進歩保守党にとっては政権奪回の好機だったが、クラークはそれまでに党首の地位に留まることはできなかった。
 1981年の党大会は、66.5%がクラーク党首を支持したので、彼は続投可能だった。ところがクラークは、33.5%もの不支持は見過ごせないと感じ、党首選を要求した。次期総選挙では政権奪回の可能性が大きく、このまま反対派を放置すれば、政権内で獅子身中の虫になりかねない。前回党首選では、彼は圧倒的な人気で勝ち進んだのではなく、ずっと2位につけていて、最後に妥協の産物として選出されたにすぎなかった。彼は今度こそ圧勝してリーダーシップを確保し、本格政権にしたいと考えていた。ライバルたちは反対を叫んでいるだけで、ひとたび党首選を行えば、経験のない彼らに負けるはずはないと見ていたのである。
 しかし何人かの党員たちは、自由党のケベック支配が崩壊しつつあるのを見て、ケベックに食い込むためにはケベック出身のマルローニが望ましいと考えた。カールハインツ・シュライバーは、ケベックの党員をクラークに投票させないよう買収を依頼されたと、2007年下院倫理委員会で証言した。また右派はクラークがあまりに左寄りだと感じ、「ABC協定」(Anybody But Clark/クラーク以外誰でも)を結んだ。
 最初の3回の投票でクラークはトップを維持したが、留任に必要な50%には遠く及ばなかった。そして投票が進むにつれて、彼の得票は減少していった。第4回の投票でクラークはついに、反クラーク連合を結集させたマルローニに敗れた。不必要な党首選をわざわざ実施して敗れたクラークは、またも「計算のできない男」の烙印を押された。
 この「66%支持での党首選」もまた、彼の生真面目な性格を物語るエピソードとして、しばしば引用された。1987年のチャールズ皇太子を囲む晩餐会でも、皇太子に「66%では十分でないのか?」と尋ねられている。

 (4) マルローニ内閣ナンバー2
 1984年総選挙で進歩保守党は圧勝し、クラークはマルローニ内閣の外務大臣に就任した。首相退任後に閣僚になったのは、クラークだけである。
 1991年の改造内閣では、シャーロットタウン協定成立を期して憲法担当大臣に任命された。だがこの協定も結局は廃案となり、マルローニは総理・総裁辞任と、政界引退を発表した。
 クラークはまだ若く、党首選出馬に意欲満々だった。だが国民はシャーロットタウン協定に敵意を抱いており、憲法担当大臣の党首就任はふさわしくないと引き留められ、クラークも政界引退に追い込まれた。彼は1993年から96年まで、キプロス問題特命国連大使を務めた。

 

 (5) 政界復帰
 進歩保守党は1993年総選挙で、わずか2議席と壊滅的敗北を喫した。ジャン・シャレーが新しい党首に就任したが、彼は党の将来に見切りをつけ、1997年離党してケベック自由党の党首に就任してしまう。
 すると進歩保守党は1998年、引退していたクラークに白羽の矢を立てた。かつて陰謀によって党首の座を追われたクラークは、全選挙区による電子投票の圧倒的な支持を受け、再び党首に迎えられることになった。史上最年少39歳で総理の椅子を手に入れた男は、こうして59歳にして泡沫政党の党首となったのである。
 クラークは、福祉を重んじるレッド・トーリズムこそが保守本流であり、カナダ同盟を極右とみなして、同党による進歩保守党併合を警戒した。彼は最後まで、いつの日か進歩保守党が再びオンタリオを制し、政権に復帰できるという信念に取り付かれていた。
 2001年、カナダ同盟でデイ党首への不満が噴出し、7人の議員が離党して「民テキスト ボックス: クラークによる進歩保守党再建をぶち壊しにするマルローニ元首相。主議員の会(DRC)」を結成すると、進歩保守党はこれを統一会派として取り込み勢力を19議席に拡大した。カナダ同盟は分裂の危機に瀕し、進歩保守党にとって絶好のチャンスと見えたが、DRCメンバーはデイ党首が辞任すれば復党すると公言しており、デイ党首辞任後、2人を除いてカナダ同盟に復党した。党勢拡大の最後のチャンスを逃したクラークは、2002年総選挙においてオンタリオで1議席も獲得できず、党首辞任と二度目の政界引退を表明した。
 党首選に出馬したピーター・マッケイは、自分が党首になったらカナダ同盟による合併は認めないと約束したにもかかわらず、2003年に党首に就任すると、その年のうちにカナダ同盟との合併を決定し、進歩保守党の歴史に幕を引いた。クラークはこの決定を認めず、新党にも合流せず、下院任期の最後まで、存在しない「進歩保守党」の会派を称し、任期切れとともに引退した。彼は、次の首相にふさわしい人物として自由党のマーチンの名を挙げ、カナダ同盟のハーパー党首を「悪魔」と罵った。
 批評家の多くは、自由党一党支配体制が12年も続き、その結果として政治を腐敗させた原因は、保守合同に抵抗し続けたクラークにあると指摘している。


 

●ハンサム・秀才・スポーツマンのゴールデンボーイ、3か月で転落
John Napier Wyndham Turner1929− )
22代首相(1984年6月30日−1984年9月17日)


 (1) ゴールデン・ボーイ
 ジョン・ターナーはイギリスのリッチモンドで、父レナードと母フィリスの間に生まれた。2歳のとき父が死亡し、一家は母の出身地カナダへ移住する。母は、実業家で後のブリティッシュコロンビア州副総督フランク・マッケンジー・ロスと再婚した。
 ターナーは、オタワのアシュベリー・カレッジとセント・パトリック・カレッジを卒業し、ブリティッシュコロンビア大学、オックスフォード大学で法律を学び弁護士資格を取得。1952年にはパリ大学に留学した。大学時代は短距離走者として鳴らし、100ヤード走のカナダ記録保持者として、1948年のロンドン・オリンピックの有力候補となったが、膝を故障したため選ばれなかった。
 1959年、継父である副総督主催のパーティーで、マーガレット王女とダンスを踊ったことで一躍マスコミの注目を集める。二人は真剣な交際だったと言われているが、ターナーはカトリックであり、結婚するには改宗しなければならなかった。彼は1963年、デビッド・キルガー下院議員の娘でジョン・マクレー(「フランダースの野に」の作者)の遠縁に当たるジェイルス・マクレー・キルガーと結婚した。

 (2) 政界での昇進と挫折
 1962年、下院議員に初当選して政界入りを果たす。ハンサムな秀才でスポーツマンの彼は、1967年にピアソン内閣の消費者及び企業担当大臣に抜擢され「ゴールデン・ボーイ」と呼ばれた。ピアソンの引退後は1968年の党首選に出馬し、3位と健闘した。
 続くトルドー内閣では1968年から1972年まで法務大臣、1972年から1975年まで大蔵大臣を務めたが、右派のターナーは左派のトルドーと対立し、1975年閣僚を辞任。6か月後には下院議員も辞任し、政界から引退した。原因はトルドーが、自分を脅かす存在としてターナーを危険視したとも、経済政策で対立したとも言われている。トルドーは回顧録で、ターナーは13年の政治活動に飽き、より多くの収入を得るため弁護士に復帰したと述べている。ターナーはその後、トロントの弁護士事務所で弁護士として勤めた。
テキスト ボックス: 蔵相時代のターナー。 1979年総選挙で自由党は野党に転落し、トルドーは党首辞任を表明した。ただし、79年の党首選で次期党首が選出されるまで、党首に留まると発表した。ターナーにとって、実はこのときこそ本格政権を築く最後のチャンスだった。彼はトルドーと戦い、党首の座から即座に引きずり降ろすべきであった。しかしトルドーには首相を11年務めた実績があり、自由党には党首を引きずり降ろす習慣はなかった。ターナーは戦う道ではなく、待つ道を選んだ。そして彼が待ち望んだ79年の党首選は、ついにやって来ることはなかった。
 クラーク内閣の予算案が否決されるとは、妨害した当のトルドーも驚いただろう。ハプニング解散によって総選挙が公示され、トルドーは党首辞任を撤回し、政権奪取に向けて先頭に立って戦うと宣言した。そして1980年総選挙で見事勝利し、政権を奪回する。
 首相の座に復帰したトルドーは、1980年住民投票でのケベック独立を阻止し、さらに1982年憲法制定で、カナダ史上に燦然と輝く偉大な足跡を残した。ターナーの時代は、まだなお遠かった。

 (3) 総理大臣
 景気後退と財政赤字増大で人気を失ったトルドー首相は、1984年の引退を発表した。ターナーはすかさず政界に復帰し、1984年6月の党首選でジャン・クレチエン蔵相を破り当選。6月30日ついに、待ち望んだ首相の地位を手に入れた。だがターナーは下院に議席がなく、議場に入ることができなかった。このような場合、補欠選挙を行い首相に議席を与えるのが通例だが、下院の任期は残り1年を切っていたので、彼は解散・総選挙を選んだ。ローマ教皇のカナダ訪問が9月冒頭に予定されていたため、投票日をその直後にする必要から、ターナーは首相就任の9日後に下院を解散した。
 ターナーは首相就任前に、トルドーの引退を前倒しする際に交わした合意の公表を拒否した。ターナー首相は何らかの事情により、トルドー路線に拘束され新機軸を打ち出せなかったようだ。トルドー首相は政権末期に、200人以上の自由党員を上院議員や公益法人要職などに就ける優遇人事を行ったが、ターナー首相はそれらを放置したうえ、さらに70人以上の優遇人事を行った。

 

 (4) 84年総選挙
 国民は、16年続いた自由党政権に飽き飽きしていた。ケベックはかつて自由党の地盤だったが、1982年憲法に「独特の地位」が保証されなかったことに失望し、自由党を見捨てていた。景気は82年ころから悪化の一途をたどり、誰が党首でも自由党は選挙に勝てない運命にあった。
 選挙期間の初め、ターナーは「雇用創出プログラム」を打ち出したが、それは70年代に使い古されたフレーズであった。「新民主党が政権を握っているマニトバ州の人口は減っている」という失言(実際には増えている)を犯してしまい、さらに激励のつもりで自由党組織局長アイオナ・カンパニョロの尻を叩いたことがテレビで報道されると、女性蔑視だと非難された。
 そしてテレビ討論では、進歩保守党のマルローニ党首から優遇人事について「あなたにはノーと言う選択肢があったはずだ」と問い詰められた。「私には選択肢はなかった」と口ごもるターナーは、トルドーの二番煎じで決断力がないという印象を与え、これを境に支持率は急降下した。マルローニはさらに「私がトラックを運転していたとき、ターナーはマーガレット王女と踊っていた」と言った。
 1984年9月4日、進歩保守党は282議席中211議席(75%)の地すべり的大勝利を収め、政権を奪回した。自由党は147議席からわずか40議席と結党以来最低の結果に終わり、107議席減はカナダの歴史上最大の与党敗北となった。ターナー自身はブリティッシュコロンビアで唯一の自由党議席を確保したものの、テキスト ボックス: テレビ討論で激論を交わすターナー党首(左・自由党)とマルローニ党首(右・進歩保守党)。ターナー内閣閣僚の11人が落選した。金城湯池だったケベックでも自由党は17議席に留まり、モントリオール以外ではわずか4議席という惨敗であった。ターナーは9月17日、首相を辞任する。ターナー内閣の2か月17日は、戦後最短の政権である。

 (5) 野党党首
 自由党は下院選挙で大敗したものの、上院では多数を占めていた。そこでターナーは、総選挙が実施されるまで法案を吊るしその成立を妨害する作戦に打って出た。
 ターナー党首はミーチレイク協定賛成、米加自由貿易協定反対の立場を取ったが、この2つの問題は党を分裂に導いた。自由党内の反ターナー派は、クレチエンを担ぎターナー降ろしを始めた。
 1988年総選挙では、米加自由貿易協定はカナダの独立を危うくするとして、ターナー党首は反対の論陣を張ったが、新民主党もまた反対に回った。そして支持率が上昇していた新民主党は、ターゲットを与党ではなく自由党に絞り、野党同士の激しい非難合戦となった。その結果、反対派の有権者は票を分散させることになったが、賛成派は一丸となって進歩保守党に投票した。その結果、自由党は83議席を獲得し勢力を2倍に拡大したものの、進歩保守党はやすやすと169議席の過半数を獲得した。ターナーは1990年党首辞任に追い込まれ、1993年には政界を引退した。
 ターナーは政界引退後、トロントの弁護士事務所に勤めた。マルローニ首相が運転手つきのリムジンに乗っていたころ、ターナーは地下鉄に乗って事務所に通った。
 マーガレット王女が2000年に死去したとき、クレチエン首相は葬儀にターナーを代表として派遣した。これについてターナーは一言「粋なはからいだ」と語った。

 

 

●史上最低の首相
Martin Brian Mulroney1939〜 )
23代首相(1984年9月17日−1993年6月25日)

 

 ブライアン・マルローニはケベック州ベイ=コモーで、アイルランド系の両親から生まれた。ベイ=コモーは、新聞社シカゴ・トリビューンがパルプを作るために拓いた企業城下町で、父はそこの電気技師だった。父がアメリカの企業に勤めていたことは、後の彼の一貫した親米政策に影響を与えていると思われる。
 マルローニは幼少期を英仏バイリンガルの環境で過ごしたが、ベイ=コモーにはカトリックの高校がなかったので、高校はニューブランズウィック州チャタムで学んだ。その後、ノバスコシア州の聖フランシスコ・ザビエル大学に進み、そこで進歩保守党に入り政治活動を始めた。彼は模擬議会のキャンパス首相に指名され、スタンフィールド州首相のもとで働いた。ダルハウジー大学とラバル大学では法律を学び、ラバルでは後に腹心となるルシエン・ブシャールと出会っている。卒業後に弁護士資格を取得し、モントリオールの新聞社ラ・プレスで起こったストライキを調停したことで、彼の調停役としての手腕が評価された。

 (1) 政界進出
 進歩保守党のロバート・スタンフィールド党首は1974年、総選挙に3度連続で敗北した責任を取り辞任した。テキスト ボックス: タイム誌1984年9月17日号。マルローニは公職に就いたことはなかったが、党首選に立候補した。彼は他候補をはるかに凌ぐ50万ドルもの選挙資金を投じたが、政治歴がないのに雄弁なスタイルがかえって嫌われた。また、自由党の強固な地盤であるケベックにアピールできるよう、ケベックからマルローニとクロード・ウェグナーの2人が立候補したが、両者はあらゆる意味で支持層がかぶっており、互いに妨害し合った。その結果、ダークホースだったジョー・クラークに漁夫の利をさらわれることになった。候補者の中でマルローニだけが、選挙の収支報告をしなかった。
 党首選に敗れたマルローニは、その後酒に溺れたが、妻の助言を受け容れて酒を断った。それからはアメリカの鉄鋼会社社長として働き、会社の業績を上げるいっぽう、シェファービル鉱山閉鎖に関する組合との難しい交渉を無事にまとめあげた。

 (2) 野党党首
 クラーク首相が予算案を否決されハプニング解散に追い込まれたことや、総選挙に敗北して政権を失ったことは、彼の指導力を大いに疑わせることになった。マルローニは表向きはクラーク党首を支持すると語ったが、秘密裏にクラーク降ろしに着手し「ABC協定」(Anybody But Clark/クラーク以外誰でも)を結んだ。それからクラーク側近のロドリグ・パゴーを密かに自陣営に取り込み、二重スパイとした。またカールハインツ・シュライバーは2007年、ケベックの党員をクラークに投票させないよう買収を依頼されたと、下院倫理委員会で証言した。こうして1981年の党首選で、マルローニは第4回目の投票でついにクラークを破り、党首に就任した。
 国民は、16年続いた自由党政権に飽き飽きしていた。ケベックはかつて自由党の地盤だったが、1982年憲法に「独特の地位」が保証されなかったことに失望し、自由党を見捨てていた。景気は82年ころから悪化の一途をたどり、世論調査は政権交代を示していた。
 テレビの党首討論で、マルローニは優遇人事について「あなたにはノーと言う選択肢があったはずだ」と問い詰めたが、ターナー首相は「私には選択肢はなかった」と口ごもるだけだった。
 1984年9月4日、進歩保守党は全ての州で過半数を達成し、282議席中211議席(75%)を獲得する地すべり的大勝利を収め、政権を奪回した。自由党はわずか40議席と結党以来最低の結果に終わり、107議席減はカナダの史上最大の与党敗北となった。

 

 (3) 総理大臣:外交政策
 マルローニ首相の外交は、おおむね好評だった。長く続いた自由党政権によって、米加関係はすっかり冷え切っていたが、マルローニ首相の登場により、レーガン大統領とは保守党同士しかもアイルランド系同士となり、マルローニは史上最も(カナダ人が嫌う)親米的な首相となった。
 1985年にケベックシティで開催された米加首脳会談は、セントパトリック・デーに開催されたことから「シャムロック・サミット」と呼ばれた。両国にまたがる犯罪捜査に相互に協力する条約や、北米防空防衛近代化協定などで合意し、フィナーレでは首相と大統領による「アイルランド人が微笑むとき」の重唱で、両者の蜜月関係を見せ付けた。エリック・キーランはこれを「我が国の首相が自宅に親分を招待した」と評した。また大統領の出迎えを総督ではなく首相が行ったことは、越権行為だとする指摘もあった。一部の報道では、レーガン大統領が誤ってカナダ首相の名を「バイアン・マルドゥーン」と呼んだと報じられたが、これはマルローニのあだ名としてその後何度も引用された。
 1985年のインド航空182便爆破事件は、カナダのシーク教徒が起こしたテロ事件で、329人が死亡した。これは、2001年の9・11同時多発テロまでは史上最大のテロ事件だったが、犠牲者のうち280人がカナダ国籍だった。マルローニ首相はインドのラジブ・ガンジー首相におくやみの書簡を送ったが、ガテキスト ボックス: シャムロック・サミットのフィナーレ。左からブライアン・マルローニ首相、ミラ・マルローニ夫人、ナンシー・レーガン夫人、ロナルド・レーガン大統領。ンジー首相は、犠牲者の多くがカナダ国籍ないしカナダ在住者である以上、自分がカナダ首相におくやみを言うべき立場だと述べた。カナダ人は、犠牲者の多くがインド系カナダ人だったので、マルローニ首相は彼らを本物のカナダ人と見なしていないと疑った。
 マルローニ首相はまた、南アフリカのアパルトヘイト政策に強く反対し続けた。そのため彼はアメリカやイギリスと対立したが、それ以外の国々からは賞賛された。
 彼はさらに1988年、カナダ政府が第二次大戦中に、2万2000人の日系カナダ人から財産を没収し強制収容所に移送した行為について、謝罪と賠償に応じた。
 1991年の湾岸戦争では、伝統的な国連重視・非米非ソ政策から転換し、アメリカの要求に応じて多国籍軍に軍艦3隻、戦闘機24機を派遣し、第二次大戦以来初めて参戦した。またカナダ空軍によるイラク空爆は、1974年のキプロス攻撃以来17年ぶりの戦闘行為であった。この戦勝でブッシュ大統領の支持率は記録的な95%に上昇したのに対し、支持率が15%に低迷していたマルローニ首相は、20%とわずかに上昇したにとどまった。
 1991年8月にソ連で起きた保守派クーデターについて、マルローニ首相は新政権を承認せテキスト ボックス: リドレス合意書に書名するマルローニ首相と、日系カナダ人協会会長アート・ミキ。ず、食糧・技術援助を中止すると発表した。ところがバーバラ・マクドゥーガル外相は「クーデター成功を決めるのはソ連国民」と述べて非難された。

 

 (4)  総理大臣:経済政策
 マルローニはブルー・トーリーとして、伝統的な重商主義からネオ・リベラリズムへの転換を志向した。トルドー政権下では多くの公営企業が作られ、1984年には61社あったが、マルローニはエアカナダ、ペトロ・カナダなど23社を民営化した。
 マルローニ首相が推進した北米自由貿易協定(NAFTA)は、メキシコから安価な労働力を導入することになり、失業の増大を招くとして多くのメディアが反対したが、これを争点に掲げた1988年総選挙は、与党進歩保守党が169議席、野党の自由党と新民主党がそれぞれ83議席と43議席(定数295)に終わり、協定は有権者に支持された。なお与党が得票率43%で議席の57%を獲得したのに対し、野党は得票率52%で議席の43%を獲得したにとどまった。
 以降のどの政権も、協定を踏襲している。自由党のクレチエン首相は、北米自由貿易協定の見直しを公約して政権を奪取したが、実際にはわずかな変更を加えただけで、協定に署名している。
 90年代初期の世界的不況は、カナダに戦後最大の不景気をもたらした。だがマルローニ政権は、完全雇用よりもインフレ対策を重視し、ゼロ・インフレーション政策と高金利政策を採った結果、失業者の増大を招いた。財政赤字は記録的な420億ドルにも達したが、これはGDPの6%にあたり、歳入の実に35%が利払いに費やされていた。すると彼は、さらに新しい連邦消費税GSTの導入を提案した。それは従来の物品税(MST)廃止と抱き合わせであり、増税ではなく課税対象の移管と説明したが、世論調査では80%の国民が反対した。
 法案は、与党が多数を占める下院では簡単に通過したが、野党自由党が多数を占める上院では滞っていた。そこでマルローニ首相は、国王は首相の助言を得て上院議員を8名増員できるという憲法第26条の特権を行使し、与党議員を追加指名して過半数を獲得した。この特権は過去に一度も行使されたことのないもので、1874年にアレクサンダー・マッケンジー首相もこの特権を行使しようとして、ビクトリア女王に拒否されている。
 首相がこの特権を行使するや、上院議場はバトルグラウンドと化した。自由党議員は質問中にナショナル・ジオグラフィクマガジンを朗読したり、マクドナルド元首相の演説を朗読したり、フットボールの名場面を語るなどの露骨な議事妨害策に打って出たのである。机を叩く音や怒声が鳴り響く中、法案は1213日ついに上院を通過し、十分な周知期間もないまま新しい消費税は翌年1月1日から施行された。
 クレチエン首相はGSTの見直しも公約したが、実際には州消費税(PST)と合算するHSTを導入したにとどまった。

 

 (5) 総理大臣:内政の失敗、そして崩壊
 進歩保守党の大勝利は、西部の社会保守主義者とポピュリスト、ケベック民族主義者、オンタリオと東部の財政保守主義者による「大連立」に基づいていた。それは、長く続いたトルドー政権への倦怠感と恨みに根ざしたものだった。だがマルローニ政権の基盤は、その保有する圧倒的な下院議席とはうらはらに、不安定なものだった。そして上院では依然として、自由党が多数を占めていた。
 マルローニは、西部で不評だった国家エネルギー計画を廃止して、西部にアピールしようとした。ところがCF-18戦闘機のメンテナンス契約では、マニトバのブリストル航空社が最も安い条件を提示していたにもかかわらず、1986年ケベックのエアカナダと契約した。西部の保守主義者たちはこれを契機に、翌年バンクーバーで「カナダの経済的・政治的将来に関する西部会議」を開催し、改革党の結成に至った。
 1987年、マルローニ首相は10人の州首相と会談し、ケベックを憲法体制に包摂する「ミーチレイク協定」を立案したが、ケベックにとっては権限が小さすぎ、他州にとってはケベックを優遇しすぎだとして、全国民の怒りを買い廃案となった。これに失望した腹心のブシャールは、閣僚を辞任し、民族主義のケベック保守党員を糾合して新党「ケベック連合」を旗揚げした。マルローニはこれに憤り、妻に「自分の葬儀にブシャールを絶対に参列させるな」と告げたという。1992年には、ケベックを憲法体制に包摂する「シャーロットタウン協定」を立案したが、国民投票で否決された。
 多くの保守党員は、長い野党暮らしの結果、優遇人事を切望していた。皮肉なことに、ターナー前首相の優遇人事を非難して政権を奪取したマルローニ首相は、彼自身が優遇人事で非難されるようになっていた。彼の政権下における閣僚数は、他の政権に比べ異常に多かったのである。
 ジョン・ダーマー議員(進歩保守党)の死去に伴い1989年に実施された、アルバータ州ビーバー・リバー選挙区の補欠選挙は、進歩保守党の未来を不吉に暗示した。5か月前の総選挙では4位に沈んだデボラ・グレイ候補が圧勝し、改革党初の議員誕生となったのである。
 マルローニ内閣支持率は、1992年には11%にまで低下し、1940年代に世論調査が始まって以来最低の数値となった。彼は1993年2月に政界引退を発表し、6月23日、連邦議会で北米自由貿易協定を批准して2日後に総辞職した。彼は何の公用もなく、公費で世界中を旅行する高額の「送別ツアー」を行い、非難を浴びた。
 後任のキャンベル首相は、下院の任期が残り2か月半しかなかった。就任当初から解散風が吹いており、何の独自政策を採る余裕もなく、ただ選挙に負けるためだけに立てられたスケープゴートだった。しかもマルローニは、新居のリフォームが間に合わないという理由で首相官邸から立ち退かなかったため、キャンベル首相はハリントン・レイクの首相別荘で政務を執った。マスコミは何の疑いもなく彼を「史上最低の首相」と酷評した。
テキスト ボックス: カナダを滅茶苦茶にしたあげく、後始末をキャンベルに押し付けて去るマルローニ。 199310月の総選挙は、自由党が295議席中177議席を獲得して大勝利、進歩保守党はわずか2議席に沈んだ。149議席減は、マルローニが1984年に政権奪回したときの自由党をはるかに上回る、歴史的大敗となった。

 

 (6) シュライバー事件
 RCMP(連邦警察)は1995年、首相在任中に、政府のエアバス機購入に関しカールハインツ・シュライバー氏から賄賂を受け取ったとして、マルローニ元首相を告発した。だがマルローニは疑惑を否定し、自由党政権が前職の名誉を傷つける政治工作を行っているとして、1997年カナダ政府に5000万ドルの賠償を求める裁判を起こした。彼は法廷で、シュライバー氏とはお茶を飲むため一・二度会っただけだと主張した。政府は、マルローニに210万ドルを支払い、公式に謝罪することを条件に示談に応じた。
 それまでマルローニが賄賂を受け取ったとする証拠はなかったが、1993年の首相退任直後、彼がシュライバー氏からモントリオールとニューヨークのホテルで、3度にわたり計225000ドルを受け取っていたことが2003年に発覚した。マルローニの主張によると、このお金はニュテキスト ボックス: 下院倫理委員会で証言するマルローニ元首相。左はミラ夫人、右は長女キャロライン。ーヨークのセーフティボックスに保管されたため、越境の際の申告漏れはないという。彼はこのお金は、シュライバー氏が新しいパスタ事業を推進するにあたってのコンサルティング料として支払われたものだ、と主張した。
 マルローニは、これらの収入についてただちに税務署に申告せず、6年後の2000年に申告した。しかも税務署と交渉した結果、半額の112500ドル分の税金を納めただけで済ませた。
 自由党内では今、支払った示談金について「利息をつけて返してもらえ」とささやかれている。

 (7) 引退後
 「史上最低の首相」と呼ばれたマルローニは、引退後は人々に敬遠された。進歩保守党とカナダ同盟の合併が持ち上がったとき、クラーク元首相、キャンベル元首相、シャレー前党首らが反対したにもかかわらず、マルローニはこれに尽力することで政界影響力を回復しようとした。だがシュライバー事件の発覚により、保守党員はハーパー首相からマルローニへの接触を禁じられた。メディアは、マルローニがカナダ保守党の党員資格を失っていると報じたが、真偽は定かではない。
 2005年9月、マルローニの友人だったピーター・ニューマンが「マルローニ秘密のテープ:首相の赤裸々な告白」という暴露本を出版した。同書によると、彼は自身を「マクドナルド以来の偉大な首相」と自画自賛し、ライバルの故トルドー首相については「カナダを破壊した」と酷評し、彼の兵役忌避と反ユダヤ主義を徹底的に批判した。歴史家のジョン・イングリッシュは「この種の歴史見直しに、何の利益も見出せない」と語った。
テキスト ボックス: 花が手向けられた「トルドー廟」の前で目眩を覚えるマルローニ。1982年憲法を制定したトルドーは国民的英雄の座に登りつめたが、憲法改正に失敗したマルローニは史上最低の首相と呼ばれた。 200510月に開催されたプレス関係者の夕食会で、マルローニは祝辞と称するテープを贈った。再生されたテープで彼は、こう述べた。
“Peter Newman, go fuck yourself. Thank you ladies and gentlemen, and good night.”

 マルローニ夫妻には4人の子がいる。長男ベンはCTVに勤務し「カナディアン・アイドル」の司会を勤めている。
 フランク・マガジンは1991年、若い保守党員に向けた「(長女の)キャロライン・マルローニをゲットしよう」キャンペーンを貼った。同誌は、決して力づくのものではなく、ミス・マルローニの「広く知られた習慣」に基づく広告だとコメントしたが、マルローニ首相は「レイプの煽動」だと非難した。

 

 

 

●金髪女性首相、答弁もできず総選挙で惨敗
Avril Phaedra Douglas Campbell1947〜 )
24代首相(1993年6月25日−199311月4日)

 

 キム・キャンベルは、ブリティッシュコロンビア州ポート・アルバーニで生まれた。「キム」というニックネームは、彼女が十代のころから名乗っているもので、一説によると、彼女の姓「キャンベル」の冒頭から取ったという。
 彼女は子供のころ、CBCの子供番組でレポーターを務めている。プリンス・オブ・ウェールズ・セカンダリースクールでは、初の女性生徒会長となった。ブリティッシュコロンビア大学では政治学を学んだが、彼女はそこでも学生運動に勤しみ、初の女性生徒会長を勤めている。
 大学卒業後はソ連に留学してソ連政治を学び、1972年、大学時代から交際していた数学の教授で作家のネイサン・ディビンスキーと結婚(1983年に離婚)。帰国後はブリティッシュコロンビア大学とバンクーバー・コミュニティカレッジで政治学を教え、さらにロースクールに進み、1984年に弁護士資格を取得した。

 (1) 政界入り
 バンクーバー教育委員長を務めていたキャンベルは、1983年ブリティッシュコロンビア社会信用党から州議会選挙に立候補したが、落選した。1986年には、ブリティッシュコロンビア社会信用党の党首選に立候補して最下位に終わっている。しかし同年、州議会議員に当選してついに政界入りを果たす。
 1988年には州議会議員を辞職して、進歩保守党候補としてバンクーバー・センター選挙区から下院選挙に出馬し、見事に初当選を果たした。
 彼女はわずか当選1回の新人議員ながら、マルローニ首相の「寵愛」を受け、インディアン問題及び北方開発大臣に、さらに後の第二次政権では当選2回で法務大臣・司法長官に任命された。また1993年の改造内閣では、国防大臣に任命されている。
 彼女の法務大臣としての業績には、強姦の被害に遭った女性が法廷で過去の性体験を暴露されることを阻止する法律を導入したことが挙げられる。
 また国防大臣としての業績には、有名なソマリア事件が上げられる。ソマリアに派遣された空挺部隊の隊員が、基地内でソマリア人を拷問して死亡させた事件である。このときキャンベルは、党首選立候補を検討していたため、この問題には真剣かつやや過剰に取り組み、最終的には空挺部隊の廃止に至った。だが自由党は政権に就くと、この問題を前政権へのあてつけのように大々的に取り上げたので、この問題はキャンベルにとって生涯の汚点として残った。

 

 (2) 総理大臣
 支持率が記録的な一桁台にまで落ち込んだマルローニ首相は、1993年2月に政界引退を発表した。党首選が6月に実施されることになったが、キャンベルはジャン・シャレー環境大臣を破り、6月25日カナダ初の女性首相に指名された。彼女は北米ではドミニカのユージェニア・チャールズとニカラグアのビオレッタ・チャモロに次いで3人目、G8ではイギリスのサッチャーに次いで2人目の女性首脳となった。
 だがキャンベル首相には、下院の任期が残り2か月半しかなかった。就任当初から解散風が吹いており、何の独自政策を採る余裕もなく、ただ選挙に負けるためだけに立てられたスケープゴートだった。しかもマルローニ前首相は、新居のリフォームが間に合わないという理由で首相官邸から立ち退かなかったため、キャンベル首相はハリントン・レイクの首相別邸で政務を執った。
 キャンベルは、トルドーに次いで離婚した2人目の首相である。彼女は首相になる直前、ハワード・エディと離婚した。首相としての任期中は、グレゴリー・レフトマン(エクサローパーの発明者)と交際していたが、関係を公にはせず、彼を政治に巻き込まないよう配慮した。
 キャンベルは首相就任直後、全国を広範囲に旅行し、各地でバーベキュー・パーティを開催した。若くて美人でブロンドの彼女は、マルローニ政権の暗い影をある程度払拭することに成功した。その結果進歩保守党の支持率は上昇し、自由党をわずかに下回る程度にまでなり、改革党の支持率は一桁にまで減少した。下院を解散し総選挙に突入したとき、進歩保守党はひょっとすると政権を維持できるか、さもなくば自由党少数政権において強力な野党としての地位を維持できそうだと楽観していた。
テキスト ボックス: エクサローパー。 だが選挙期間に突入するや、キャンベル首相の人気は地に落ちた。マルローニ首相の談話が高度に政治的に洗練されていたのとは対照的に、キャンベルは頭に「馬鹿」がつくほど率直で正直だった。財政赤字と高失業率の解決は「今世紀の終わりまでなさそう」とコメントしたことは、世の失笑を買った。第一にこれらはただちに取り組まねばならない懸案であり、第二に彼女が7年も首相を務められるとは思えなかったからである。また彼女は選挙期間中に「わずか47日(法律上規定された最長の選挙期間)の選挙では、カナダが抱えている全ての複雑な問題について議論することはできない」と述べた。だがマスコミは、意図的にコメントの冒頭を省略して「選挙では、カナダが抱えている全ての複雑な問題について議論することはできない」と彼女が語ったと報じた。法務大臣時代に、議会で質問されたことに対し「説明してもあなたの頭では理解できない」と答弁した彼女の毒舌ぶりは、やがて毛沢東語録に因んだ赤い表紙の「キテキスト ボックス: 「総理、今週の予定ですが、ホットドッグをケロウナとカムループスとバーノンで食べて愛想を振りまき、次にホットケーキをクランブルックとトレイルとペンティクトンで食べて愛想を振りまき、次にコーンをバンクーバーとビクトリアとナナイモで食べて愛想を振りまき、それから魚のフライを…」ム語録」として出版された。
 進歩保守党の支持率はみるみるうちに低下し、10月には政権を失うことが確実となった。全ての世論調査は、自由党が少なくとも少数政権を樹立することを示した。しかし党の支持率とは別に、党首としての人気においてキャンベルはまだクレチエン党首を上回っていた。そこで進歩保守党は、クレチエンへの集中的なネガティブ・キャンペーンを始めた。それは、彼の顔面麻痺を嘲って「この人がカナダの首相?」と問いかけるテレビCMだった。これには保守党党内からも異論の声が上がった。
 だがクレチエンが、少年時代に受けたからかいに言及し「私がまだ子供のころ、人々は私を笑い者にしていた。でも神様がほかの資質を与えてくれたので、私は感謝してそれを受け容れた」と語ると、人々は涙を流した。キャンベル首相は、自分は広告には直接関与していなかったと弁明し、謝罪しなかったため、これを境に党の支持率は急降下を始めた。

 総選挙当日、自由党が圧勝するいっぽう、進歩保守党はわずか2議席の歴史的大敗を喫し、キャンベル首相自身もバンクーバー・センター選挙区で自由党の新人ヘディ・フライに敗れた。現職首相の落選は、ミーエン首相が1921年と1926年に、キング首相が1925年に経験したことに続き、実に4度目のことであった。彼女は党首を辞任し、政界引退を発表した。キャンベル首相の任期はわずか4か月で、特筆すべき業績は何もなかったが、東京サミットにピンクのスーツで登場した彼女は、日本人には強い印象を与えたようだ。彼女は首相官邸に入ることなく、また上院議員を一人も指名しなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1993年の東京サミット。左からクリストファーセン副議長(EC)、コール首相(ドイツ)、メージャー首相(イギリス)、ミッテラン大統領(フランス)、宮沢首相(日本)、エリツィン大統領(ロシア)、クリントン大統領(アメリカ)、チャンピ首相(イタリア)、キャンベル首相(カナダ)、デハーネ議長(EC)。

 
 

 

 

 


(3) 政界引退後
 政界を引退したキャンベルは、ハーバード大学で政治学を教えた。1996年には、ロサンゼルス総領事に就任している。大臣経験者が大使に任じられることを考えれば、これは信じられないほど低い地位である。
 1999年から2003年までは、女性の大統領または首相経験者による「世界女性首脳会議」の議長を務めた。なおキャンベルは、世界のどの女性首脳よりも若くして政権に就き、誰よりも若くして辞職した人であり、この記録は今も破られていない。
 彼女は1997年、俳優・脚本家・作曲家・ピアニストのハーシー・フェルダーと事実婚し、現在はパリに在住している。

 

 

 

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