[2]地域政党繚乱期(1920〜1963年)

 

10代 Arthur Meighen1920年7月10日−19211229日)
11代 William Lyon Mackenzie King19211229日−1926年6月28日)
12代 Arthur Meighen1926年6月29日−1926年9月25日)
13代 William Lyon Mackenzie King1926年9月25日−1930年8月6日)
14代 Richard Bedford Bennett1930年8月7日−19351023日)
15代 William Lyon Mackenzie King19351023日−19481115日)
16代 Louis Stephen St-Laurent19481115日−1957年6月21日)
17代 John George Diefenbaker1957年6月21日−1963年4月22日)


 1921年、進歩党が連邦議会に進出し、カナダは多党制に移行した。二つの世界大戦と、その間には世界恐慌が起こり、政情は極めて不安定となった。穀物価格の暴落が西部の農民を直撃すると、西部は反中央のポリシーを掲げ、進歩党・アルバータ農民連合・協同連邦党・社会信用党などの地域政党を輩出し、しばしば少数政権を誕生させた。その最も顕著な例は、3日で不信任されたミーエン内閣の“Three-day Wonder”事件である。キング首相はこれを契機に、カナダの自治権拡大に動いた。
 この時代はまた、後のピアソン政権で完成を見る福祉政策の先駆けとして、様々な福祉政策が試行されている。保守党は「進歩保守党」と名を改め、福祉重視の中道寄り政策に転換した。ベネットのカナダ版ニュー・ディールは斬新すぎて失敗に終わったが、いくつかのアイデアはその後のキング政権に引き継がれた。カナダが不況を抜け出すのは、第二次大戦による雇用創出によってである。
 第一次大戦に続き、イギリスは第二次大戦でもカナダを守れなかった。大戦後の冷戦時代には、カナダはイギリス寄り政策から転じ、独自外交を志向する。朝鮮戦争では対米抑止政策を採ったが、思ったほどの成果は挙げられなかった。スエズ戦争(第二次中東戦争)では、カナダはアメリカとともに、イギリス・フランス・イスラエル連合軍のエジプトからの撤退を要求した。国連平和維持軍創設によるピアソンのノーベル平和賞受賞は、カナダ外交の金字塔と言えよう。
 22年ぶりに政権奪回した、保守党の「最後の(大英)帝国主義者」ディーフェンベーカーは、徹底した反米政策を採った。彼とケネディとの不仲はほとんど妄想の域に達しており、米加関係はかつてないほどに悪化した。ボマーク・ミサイル配備に関するアメリカの圧力に最後まで反発した彼は、アメリカからも自党からも見捨てられ、失脚した



 

三日天下に終わった悲運の宰相
Arthur Meighen18741960

10代首相(1920年7月10日−19211229日)

12代首相(1926年6月29日−1926年9月25日)

 アーサー・ミーエンは首相の座に二度就いたが、二度とも幸運の所産であり、彼は党首として一度も選挙に勝利できなかった。彼は現職首相で落選した最初の人であり、二度落選したのは彼だけである。
 ミーエンは、オンタリオ州アンダーソンに生まれた。トロント大学で数学を修め、その後オズグード・ホール・ロースクーテキスト ボックス: アーサー・ミーエン。ルを卒業した。政界入りする前に、彼は教師と弁護士を務めた。

 (1) ボーデン内閣閣僚
 ミーエンは1908年、マニトバ州のポーテイジ・ラ・プレーリー選挙区で下院議員に初当選する。そして1913年にボーデン内閣の司法長官、1917年には鉱業大臣に任命された。
 第一次大戦中の1917年、彼は徴兵問題の責任者だった。政府は、海外に派兵された人には海外で投票できるよう計らいながら、徴兵に反対しそうな移民には選挙権を与えなかった。
 1917年には、内務大臣とインディアン問題担当長官に任命された。内務大臣としての彼の業績には、カナダ国有鉄道(CNR)の創立が挙げられる。
 1919年、ミーエンはマニトバ州選出議員でありながら、内務大臣としてウィニペグ・ゼネストの武力鎮圧に尽力した。

 (2) 第一次政権
 ボーデン首相の引退により、ミーエンは保守党党首に就任し、1920年7月10日、首相に指名された。短期政権ではあったが首相としての業績には、日英同盟破棄が挙げられる。これは同盟を維持したままでは、将来予想される日米戦争の際、アメリカ軍によるカナダ攻撃が避けられないことから、ミーエン首相が強硬に破棄を訴えた結果である。
 選挙の洗礼を受けていないミーエン首相は、翌年終わりに解散・総選挙に打って出た。彼は引き続き自由党の協力を得ようとして、「国家自由保守党」の党名で選挙を戦った。だが徴兵への彼の対応はケベックで不評を買い、ウィニペグ・ゼネストへの彼の対処は労働者の不興を買った。1921年総選挙の結果は、自由党115議席、進歩党65議席、保守党50議席、無所属3議席(定数233)となり、自由党のマッケンジー・キングが史上初の少数政権を樹立することになった。保守党は新党進歩党の後塵を拝し、野党第二党に転落する大敗を喫した(進歩党は党議拘束がなく、公式野党の地位を辞退した)。ミーエン自身も落選したが、党首の座には留まり、1922年の補選に当選して下院議員に復帰した。

 (3) 下 野
 イギリスのウィンストン・チャーチル植民地大臣は、大英帝国自治領は、宗主国の要請があれば軍隊を派遣すべきだと語った。だがキング首相はその意見を退けたばかりか、それには自治領議会の同意が必要であり、宗主国が自治領政府の頭ごなしに決めつけたことに憤慨した。これに対しミーエンは「イギリスの要請があれば、カナダはただちに応じなければならない」と発言し、キングを強く非難したが、人々はミーエンをイギリスに盲目的に従うだけの人だと考えた。
 キング政権が誕生するとまもなく、ボーアルノワ運河にまつわる数々の汚職が発覚した。1925年総選挙は、保守党115議席、自由党100議席、進歩党22議席、労働党2議席、アルバータ農民連合2議席、無所属4議席(定数245)で保守党が第一党となったが、キングは進歩党の閣外協力によって政権を維持した。ミーエンはキング首相を「鋼鉄の顎を持つロブスターのように政権にしがみついている」と皮肉った。

 

 (4) 第二次政権:三日天下
 税関省の贈収賄疑惑が次々と発覚し、進歩党内ではキング政権を支持しない勢力が大勢を占めるようになった。キングは内閣不信任される危機に直面し、ビング総督に解散・総選挙を要請した。だが総督は、前の総選挙からわずか1年での解散に同意しなかった。そこでキングは総督に、イギリス政府に諮問するよう要請したが、総督はカナダのことはカナダで解決すべきだとして、これも拒否した。進退極まったキングは1926年6月29日、内閣総辞職に追い込まれる(キング・ビング事件)。総督はミーエンを総督公邸に招き、進歩党に協力を取りつけて政権運営するよう命じた。保守党は過半数に満たなかったので総選挙を望んだが、ミーエンは総督の大命を拒めなかった。こうして、ミーエンの少数政権が成立した。
 当時は、新しく任命された閣僚は議員を辞職し、補選で再選されなければならない規則があった。だが保守党は過半数割れしており、しかも自由党との議席差はわずかだったので、ミーエンは少しの議席も失いたくはなかった。そこで彼は、大臣たちを臨時大臣として任命するから宣誓式を行わないよう総督に要請するとともに、臨時大臣なら補選を行う必要はないと主張して、かわりに下院に内閣信任案を提出しようとした。だがこのような小賢しいやり方は、野党をひどく怒らせる結果となった。また進歩党には党議拘束がなく、正確な票読みは困難だった。組閣の3日後、7月2日に提出されたミーエン内閣信任案は、9596のわずか1票差で否決される。ミーエン首相は、ただちに解散・総選挙に打って出た(Three-day Wonder)。
 こうして行われた1926年総選挙で、キングは自分がイギリスに諮問すべきだと言い出したにもかかわらず、解散の要請を拒否したのはイギリス人総督による内政干渉だと国民に訴えた。結果は自由党116議席、保守党91議席、進歩党11議席、アルバータ農民連合11議席、自由進歩党8議席、労働党4議席、オンタリオ農民連合1議席、無所属3議席(定数245)となり、自由党が自由進歩党と合わせて過半数に達した。保守党は45.4%の得票率を記録し、42.9%の自由党を上回ったにもかかわらず敗北し、ミーエン自身も落選した。彼は党首を辞任した。
 ミーエンは教師時代、放課後に誰もいない教室で、講義の練習をしたという。演説はうまく、議論は滅法強かったが、人をひどくやり込める癖があった。彼は親しみを持たれるような人柄ではなく、近寄りがたい雰囲気の人だったようだ。ローリエ首相(自由党)とボーデン首相(保守党)の間には、相手に対する敬意があったが、トロント大学同級生のミーエン首相とキング首相の間には、激しい憎悪の念があった。ミーエンはキングを露骨に見下し、彼を「王」を意味するラテン語で“Rex”と呼んだ。彼は二度首相に就いたが、二度とも短期政権に終わっている。彼のライバルであるキングが22年近い長期政権を築いたこととは、あまりに対照的といえよう。

 (5) 再び党首に
 1932年、ミーエンはベネット首相によって上院議員に指名された。彼は1932年から35年まで、ベネット政権の無任所大臣と上院院内総務を勤めた。
 1941年には、67歳にして再び保守党党首に就任した。彼は翌年上院議員を辞職し、補選に出馬して下院議員に復帰しようと試みた。だがキング首相は、ミーエンを心の底から憎悪しており、彼を下院議員にすれば徴兵問題を蒸し返すだろうと警戒した。キングは、反保守党票を分散させないため自由党候補を出馬させないいっぽう、協同連邦党に資金を送った。ミーエンは野党第一党党首でありながら補選に落選し、党首討論もできないことになった。これは彼にとって、3度目の落選だった。
 ミーエンはその後も院外で、総力戦を戦いぬくための徴兵を訴え続けたが、無視された。彼は1942年9月、「党勢拡大」と称して党大会を招集した。彼は大会で、福祉政策重視の左寄りの綱領、党首辞任と政界引退、そして革新政党である進歩党のブラッケン党首に党首選出馬を要請したと発表した。党首に就いたブラッケンは、党名を「進歩保守党」と改めた。

 1960年に死亡したミーエンは、首相退任から33年の引退生活を送ったことになる。これは現在のところ史上最長であるが、この記録はおそらくキム・キャンベルに破られることになるだろう。
 彼の孫マイケル・ミーエンは1990年、上院議員に指名された。

 

 

 

     孤独な変人、抜群の調整力で長期政権

William Lyon Mackenzie King18741950
 第11代首相(19211229日−1926年6月28日)
 第13代首相(1926年9月25日−1930年8月6日)
 第15代首相(19351023日−19481115日)

テキスト ボックス: 50ドル札の肖像になったマッケンジー・キング。 マッケンジー・キングは、オンタリオ州バーリンに生まれた。彼の母の父は、トロント最初の市長でアッパー・カナダの乱の首謀者ウィリアム・ライオン・マッケンジーである。
 彼はトロント大学、オズグード・ホール・ロースクール、シカゴ大学、ハーバード大学で学び、5つの学位を取得した。博士号を持つカナダの首相は、彼が2人目である。トロント大学学生時代には、「トロント・グローブ」紙の記者を務めている。

 (1) 党首への道
 キングは労働問題の専門家として注目され、1900年ローリエ内閣(自由党)の労働副大臣に招かれた。1908年には補欠選挙に当選して下院議員となり、1909年の労働大臣就任後にも、補欠選挙で再選された。
 保守党が政権を奪取した1911年総選挙でキングは落選すると、アメリカに渡り、ロックフェラー基金の産業調査部門で働いた。
 1917年総選挙では、カナダに戻り立候補したが、徴兵に反対したため再び落選。1918年、著書「産業と人間性」を出版した。
 1919年ローリエ党首の死去により、史上初めて自由党党首選が開催された。キングは4度目の投票で党首に当選した。彼は、補欠選挙に当選しすぐ下院議員に復帰した。

 (2) 第一次政権
 1921年総選挙の結果は、自由党115議席、進歩党65議席、保守党50議席、無所属3議席(定数233)となり、キングが史上初の少数政権を樹立することになった。
 進歩党は政策的には自由党に近かったが、長い交渉にもかかわらずキング首相は連立を実現することができなかった。だがひとたび議会が召集されると、保守党提出の内閣不信任案に進歩党は反対投票を行い、否決させた。しかし進歩党は、キングの政策にしばしば反対した。キングは少数政権を維持するのに、西部の農民を支持基盤とする進歩党を満足させるため関税を下げる必要があったが、同時にオンタリオとケベックの製造業を保護するため関税を下げすぎないよう細心の注意を払わねばならず、絶妙のバランス感覚を求められた。
 キング政権が誕生するとまもなく、ボーアルノワ運河にまつわる数々の汚職が発覚した。1925年の総選挙で保守党は第一党となったが、キングは進歩党の閣外協力によって政権を維持した。ミーエンは「鋼鉄の顎を持つロブスターのように政権にしがみついている」と言って、キング首相を諷刺した。

 

 (3) ミーエンの「三日天下」
 税関省の贈収賄疑惑が発覚すると、キング首相はジャック・ビューロー税務庁長官を更迭したが、直後に上院議員に指名したため、進歩党内ではキング政権を支持しない勢力が大勢を占めるようになった。キングは内閣不信任される危機に直面し、ビング総督に解散・総選挙を要請した。だが総督は、前の総選挙からわずか1年での解散に同意しなかった。そこでキングは総督に、イギリス政府に諮問するよう要請したが、総督はカナダのことはカナダで解決すべきだとして、これも拒否した。進退極まったキングは1926年6月29日、内閣総辞職に追い込まれる(キング・ビング事件)。総督はミーエンを総督公邸に招き、進歩党に協力を取りつけて政権運営するよう命じた。保守党は過半数に満たなかったので総選挙を望んだが、ミーエンは総督の大命を拒めなかった。こうして、ミーエンの少数政権が成立した。
 当時は、新しく任命された閣僚は議員を辞職し、補選で再選されなければならない規則があった。だが保守党は過半数割れしており、しかも自由党との議席差はわずかだったので、ミーエンは少しの議席も失いたくはなかった。そこで彼は、総督に内閣の宣誓式をしないよう要請するとともに、下院に内閣信任案を提出しようとした。だがこれは、野党をひどく怒らせる結果となった。また進歩党には党議拘束がなく、正確な票読みは困難だった。組閣の3日後、7月2日に提出されたミーエン内閣信任案は、9596のわずか1票差で否決される。ミーエン首相は、ただちに解散・総選挙に打って出た(Three-day Wonder)。
 こうして行われた1926年総選挙で、キングは自分がイギリスに諮問すべきだと言い出したにもかかわらず、解散の要請を拒否したのはイギリス人総督による内政干渉だと国民に訴えた。結果は自由党116議席、保守党91議席、進歩党11議席、アルバータ農民連合11議席、自由進歩党8議席、労働党4議席、オンタリオ農民連合1議席、無所属3議席(定数245)となり、自由党が自由進歩党と合わせて過半数に達した。自由党の得票率は42.9%で、保守党の45.4%を下回ったにもかかわらず、自由進歩党・進歩党との選挙協力が功を奏した。特にマニトバ州では、保守党が得票率39.7%を記録し、他の全ての党の2倍以上あったのに、1議席も獲得できなかった。左派3党は共倒れを防ぐため、13選挙区で候補者を統一していたのである。

 (4) 第二次政権
 キング・ビング事件の後、キングは1926年の帝国会議に参加し、自治領の自治権拡大を要求した。これは1931年の、英連邦諸国はイギリスと対等の地位を持つ同君連合であるというウェストミンスター憲章に至り、カナダは自主外交権を獲得し、事実上の独立国となったのである(カナダの独立時期については諸説あるが、1931年が多数派説となっている)。
 オンタリオ州ハミルトン市は、1930年に最初の帝国ゲーム(the Empire Games)を開催した。この大会は後に、英連邦大会(the Commonwealth Games)と改称された。
 1946年、キング内閣はカナダ市民権法を成立させ、ここに「カナダ市民」が誕生した。カナダ人はそれまでは、カナダ在住英国臣民と考えられていた。1947年1月3日、キングはカナダ市民権証明書0001番を交付された。
 少数政権への協同連邦党の支持と引きかえに、キングは母子手当や老齢年金などの福祉政策を、国民の要望に応えて導入した。
 世界恐慌が始まると、自由党は1930年の総選挙に敗れ、保守党のベネットに政権を譲った。

 (5) 第三次政権
 世界恐慌の最悪の局面が過ぎ去ると、キングは対米貿易重視を訴えて1935年総選挙に勝利し、再び政権に返り咲いた。キング政権はこの年さっそく、アメリカとの間に互いを最恵国とする米加互恵貿易協定を結んだ。これはそれまでの「帝国重視」から「アメリカ重視」への劇的な転換で、対米貿易は飛躍的に増大した。またキングは、住宅法と雇用促進法を導入した。
 1936年にはカナダ放送協会(CBC)、1937年にはトランス・カナダ航空(後のエア・カナダ)とカナダ国立映画局などの国営企業を創設し、1938年には、民間企業だったカナダ銀行を国営化した。
 彼はこのころ、ヒトラーに強い共感を寄せ「世界はやがて、際だって偉大な男を見ることになるだろう。それはいつの日かジャンヌ・ダルクと並び称されるであろうヒトラーである」と語っている。
テキスト ボックス: 1937年にドイツを訪問したキング首相。 1939年6月には、900人のユダヤ人が船で難民として入国しようとしたのを拒否した。ある歴史家は「普通の人には心がある部分に、キングは風見鶏を持っているのだ」と評した。

 

 (6) 第二次世界大戦
 キングは第二次大戦勃発前、カナダが参戦するかどうかについては、カナダ連邦議会に最終決定権があり、イギリスの戦争にカナダが自動的に巻き込まれることはないと断言した。彼はイギリス系市民には、イギリスが参戦するならカナダは確実にイギリス側につくと匂わせた。同時にフランス系市民には、政府は徴兵を実施しないとケベック副官エルネ・ラポワントに約束させた。
 1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵入すると、イギリス・フランスはただちに宣戦布告したが、自主外交権を獲得していたカナダは、自動的に参戦したわけではなく、キングは参戦の是非を議会に諮った。一歩間違えば国が分断されかねないような事態にもかかわらず、キングは議会の承認を得て9月10日、ようやく宣戦布告した。カナダはその間に、アメリカから武器を購入した。アメリカは、交戦国には武器を販売しなかったからである。
 キングは、強制的な徴兵はしないと公約していたが、軍部はキングに、徴兵制を実施するよう圧力をかけた。キングは、1917年の徴兵危機の二の舞だけは御免だったが、フランスが降伏すると1942年、徴兵制の是非を問う国民投票を実施した。フランス系の多くは反対だったが、全体では賛成多数となり、1944年ついに公約を覆し徴兵制を導入した。彼は「必然的な徴兵ではなく、必要に応じた徴兵」と称し、海外に派兵されるのは志願兵だけで、徴兵された者は海外に派兵しないものとした。しかし徴兵された兵士たちは1943年のキスカ島の戦いに、そこが北米であって「海外」ではないという理由で派遣された。実際には濃霧の中で日本軍は撤退していたが、カナダ軍とアメリカ軍は互いに相手を敵と誤認して同士討ちを行い、約100名が戦死した。
 194411月、キング政権はついに徴集兵の欧州派兵を決定した。これは「1944年徴兵危機」と呼ばれる反発を呼んだが、戦争は翌年終結した。結局1万5000人の徴集兵が欧州に派兵され、そのうち数百人が戦闘に参加した。
 第二次大戦は当初、イギリス・フランス・カナダの3国だけでドイツと戦っていた。当初カナダは重要な同盟国と見られていたが、ドイツ軍は緒戦で快進撃を続け、カナダ軍はディエップで手痛い敗北を喫した。連合国はアメリカの参戦が不可欠と考え、キングはアメリカを連合国側で参戦させるよう努めた。だが彼の最大の功績とも言えるアメリカ参戦を実現すると、カナダは軽視されるようになる。テキスト ボックス: 1943年のケベック会談。左からフランクリン・ルーズベルト大統領(アメリカ)、マッケンジー・キング首相(カナダ)、ウィンストン・チャーチル首相(イギリス)。キングは1943年ケベック会談を主催したが、1945年のヤルタ会談には招待されず、蚊帳の外であった。
 日本軍の緒戦の快進撃に恐れをなしたキングは、2万2000人の日系市民を中西部の収容所に強制的に移動させた。連邦警察やカナダ軍が、大多数の日系の市民は遵法的で、脅威ではないと報告し、またミッドウェー海戦の大敗により日本軍によるカナダ本土攻撃はありえないとされたにもかかわらず、強制収容は実施された。日系市民の財産は勝手に没収され、本人の同意なしに競売にかけられ売り飛ばされた。戦争が終わると日系市民は、西部に戻ることを許されなかったので、より東に移動するか、さもなくば日本に「帰国」するよう選択を迫られた。彼らの多くにとって日本は未知の外国であって、空襲で疲弊しきっており、しかも彼らの多くは日本語を話せなかった。キング政権によるこれらの暴虐は、今もカナダ日系社会の中で語り継がれている。

 

 (7) 謎に満ちた私生活
 キングの政権は通算7829日(21年5か月)に及び、カナダ史上最長である。大英帝国全体でも、ロバート・ウォルポールの7979日(2110か月)に次いで第2位となる。カナダで3度首相に就任したのは、キングだけである。
 キングはカリスマ性を欠き、書く文章は学術的で、演説もうまくなく、ラジオでも評判が良くなかった。事実テレビが普及するようになると、彼は退陣している。人間関係は冷徹で機転が利かず、親友も少なく、欠点を補う側近さえ持とうとしなかった。いつも謀事を好み、周囲を困惑させた。
 それでもキングが長期間政権を維持した理由は、大衆のニーズを理解し、それに順応するようテキスト ボックス: 左からキング、エッタ・リード、ジョーン・パットソン。努めたことや、イギリス系とフランス系に代表されるカナダの多様な勢力に対し、傑出した調整力を持っていたからである。彼は機が熟するまで動かず、いつも待ちに徹した。
 そのいっぽうで彼は、いつも己の信念を隠し、私生活を明かそうとはしなかった。周囲の意見には耳を貸さなかったが、亡母イザベラに強い思慕の念を抱き、屋根裏部屋でウィジャボードと水晶玉を用いて、亡母、死んだ3匹の飼い犬(名前は全て「パット」)、ウィルフリッド・ローリエ元首相、フランクリン・ルーズベルト元大統領、レオナルド・ダビンチ(注同性愛者)などの霊と交信していたことが、死後に日記で判明した。
 生涯独身だった彼は、ジョーン・パットソン夫人と親しい関係にあったことが知られている。何人かの歴史家は、彼の日記から、彼がしばしば売春婦を買っていたと主張する。第15代総督ツイーズミュア卿(本名ジョン・バカン、「三十九階段」などのテキスト ボックス: 書斎で母の肖像を見つめるキング。

テキスト ボックス: ジョン・バカン(ツイーズミュア卿)。


スパイ小説作家として知られる)とは、同性愛関係にあったとも噂されている。

 

 

 

●カナダ版ニュー・ディール、短期間で挫折

Richard Bedford Bennett18701947
 第14代首相(1930年8月7日−19351023日)

 リチャード・ベネットは、世界恐慌の真っ只中に首相に就任した。ブルース・ハッチソンは、もしも普通の時代に政権の座についていたら、ベネットは偉大な首相になれただろうと述べている。カナダの歴史家を対象にしたアンケートでは、ベネットは過去の首相20人のうち12位にランキングされている。

 (1) 前半生
テキスト ボックス: リチャード・ベネット。


 リチャード・ベネットは、ニューブランズウィック州ホープウェル・ヒルに生まれた。ベネット家はかつて造船所を経営していたが、蒸気船の登場により仕事を失った。一家はそれから小さな農場を耕し、貧しい生活に甘んじた。
 彼の母は、勤勉なメソジストのクリスチャンで、息子に「できるだけ懸命に働き、できるだけ稼ぎ、できるだけ倹約し、そしてできるだけ捧げなさい」と教えた。ベネットは生涯、この教えを忘れなかった。
 ベネットは初め小学校教師を務め、1888年には、18歳で校長になった。1890年ダルハウジー大学に進み、法学を修め、弁護士資格を取得した。
 その後カルガリーに移住した彼は1898年、ノースウェスト準州議員に当選し、政界入りを果たす。1905年アルバータ州がノースウェスト準州から分離したとき、ベネットはアルバータ保守党の最初の党首となった。
 1911年連邦政界に転身し、下院議員に初当選。1921年にミーエン内閣の法務大臣、1926年には大蔵大臣を務めた。1927年、最初の保守党党首選に当選し、党首に就任する。

 

(2) 総理大臣:世界恐慌への対策
 1930年総選挙でベネットの保守党は、自由党を破り政権を奪取した。だが彼は、世界恐慌の直後に政権に就くという苦境に自らを投じることになった。
 ベネットは1932年オタワ会議(帝国経済会議)を主催し、大英帝国内の関税障壁を削減することで域内貿易を活性化させようとした。カナダは農産物・鉱物資源の輸出拡大に一定の成果をあげたが、帝国各植民地の利害が錯綜し、世界恐慌への劇的な対策とはならなかった。なぜなら、カナダにとって最も重要である対米貿易が無視されていたからである。
 保守党はあくまでも企業や銀行の味方であり、未曾有の恐慌にもかかわらず自由放任主義に固執した。そしてベネットは小さな政府・保護貿易主義・緊縮財政主義を掲げ、党首選に勝利していた。ところが彼は、誰にも相談なく1935年に突然変節し、ルーズベルトに倣いカナダ版ニュー・ディール政策に着手した。この年彼がラジオで行った演説は、人々を驚かせた。
「私は改革のためにいる。そして私にとって改革とは、政府による干渉と統制を意味する。それは、自由放任主義の終焉を意味する。」
テキスト ボックス: 「保守党幹部会」。


 ベネットの言う「ニュー・ディール」とは、連邦政府による前例のない大々的な経済統制と公的支出を意味した。そして通商産業権限法、未加工品市場法、失業保険法、労働時間制限法、最低賃金法、週休法などの法案を次々に成立させた。だが彼の政策転換は、ある人々からはやり過ぎだと、またある人々からは十分でないと批判された。そして連邦政府による強権的な経済統制は、州政府や民間企業の反発を招き、憲法第92条に規定された州の権限を侵害したとして枢密院に却下されてしまい、彼のニュー・ディールは短期間で挫折した。それでもベネットが設立したカナダ銀行とカナダ小麦局は、今日まで続いている。
 不況の中、ガソリンを買う余裕のない人は、馬に車を引かせるようになり、それは「ベネット・バギー」と呼ばれた。だがベネットはマッチ会社のオーナーであり、このころにはカナダ有数の金持ちになっていた。彼はそれゆえ多くの国民に妬まれ、また国民から援助を求める手紙をしばしば送られた。彼はそのような人々に、ポケットマネーから5ドル紙幣を送った。彼が首相在任中に個人的に寄付した総額は、230万ドル以上とされている。
 鄭の子産は、領民が冬に川を歩いて渡るのを見て憐れに思い、自分の輿に乗せて渡してやったという。だが孟子は、彼の人徳を誉めつつも「『恵人而して為政を知らず』。農閑期に橋をかけてやればよい。為政者たるもの、人民一人一人の歓心を個別に得ようとするなら、日が何日あっても足りない」と批判した。
テキスト ボックス: ベネット・バギー。


 経済対策は失敗に終わり、保守党党内からさえベネットのリーダーシップを疑う声が挙がった。ヘンリー・ハーバート・スティーブンズ貿易大臣は抜本的な経済対策を提案したが、ベネット首相に拒否されてしまい、離党して再建党を旗揚げした。これは保守票を分散させる結果となった。
 1935年総選挙で、保守党はわずか40議席しか獲得できず、キングの自由党が政権に返り咲いた。キング政権は、憲法の範囲内で州政府の協力を仰ぎ、穏健な経済対策を行った。だがカナダが不景気から抜け出せたのは、政府の政策ゆえではなく、工業化と第二次大戦による雇用創出の結果であった。

 

 (3) 引退とイギリス移住
 ベネットは下院議員の任期途中にもかかわらず、1938年に党首と下院議員を辞職し、イギリスに移住した。そこで子爵の地位を贈られ、貴族院議員となった。
 彼は1947年自宅で死亡し、カナダ国外で死去した首相の2人目となった。元首相でカナダ国外に葬られたのは、ベネットだけである。
 生涯独身だった彼は、アルバータ時代はアルバータ・ホテルに、オタワ時代はシャトー・ローリエ・ホテルに暮らしていた。彼の子孫はいない。

 

 

 

●独自外交で黄金時代

Louis Stephen St-Laurent18821973
 第16代首相(19481115日−1957年6月21日)

 第二次大戦でカナダは、国内でほとんど被害を受けておらず、終戦時には世界屈指の経済力を持っていた。サン=ローランの治世は戦後の外交黄金時代とされ、自由党による22年の長期政権を華々しく締めくくったが、政権末期には長期政権から来る倦怠感により、政権を進歩保守党に譲ることになった。
 サン=ローランは、サセックス通り24番地の現在の首相官邸に住んだ、最初の首相である。
 ルイ・サン=ローランは、ケベック州コンプトンに生まれた。父はフランス系、母はアイルランド系で、幼少のころよりテキスト ボックス: ルイ・サンローラン。


2か国語を話した。ラバル大学で法学を修め、弁護士となり、1914年からラバル大学教授として法学を教えた。1930年には、カナダ法曹協会会長に就任した。

 (1) キング内閣閣僚
 1941年、ケベック副官のラポワントが死亡したことにより、キング首相は人気のあるケベック人を入閣させる必要があると感じた。そこでキングは、サン=ローランを法務大臣兼司法長官に任命した。彼は59歳にして、初めて政界入することになった。キングは彼のための選挙区として、ラポワントが保持していたケベック・イースト選挙区をそのまま充てた。そこは自由党が持つ有数の鉄板選挙区だった。
 フランス系市民は徴兵制に反対していたが、サン=ローランはフランス系であるにもかかわらず、徴兵制導入に賛成した。キングの有力な後継者と見られていた彼の支持は、ケベック選出議員たちが離党するのを防止した。
 1946年には、それまで常に首相が兼務していた外務大臣の地位に就く。それはキング首相が、明確にサン=ローランを後継者と意識して、戦後の世界秩序を構築する有様を経験させたのである。サン=ローランはカナダ代表として、国連設立に至ったダンバートン・オークス会議とサンフランシスコ会議に出席した。

 

(2) 総理大臣
 キング首相は1948年に引退するとき、次の党首選でサン=ローランを支持するよう説得した。サン=ローランは党首選に当選し、首相に就任した。
 1949年総選挙では、自由党はサン=ローランを「ルイおじさん」と呼び、その穏やかな好々爺イメージを前面に押し出した。その結果自由党は190議席と、当時では史上最多の議席を獲得して勝利した。
 キングの外交政策は孤立主義的で、軍事同盟には及び腰だったが、それとは対照的にサン=ローランは、カナダの国際的地位が戦後に向上したことを意識して、対英追随でも対米追随でもない独自外交路線を志向した。彼は北大西洋条約機構(NATO)設立と加盟を積極的に推進し、戦争抑止がNATOの主目的だと主張するいっぽう、経済的協力の重要性も訴えた。そして最終的には、「カナダ条項」と呼ばれる非軍事的協力を謳った条項を含んでNATOは発足することになった。
 1950年の朝鮮戦争では、カナダはアメリカの単独介入をよしとせず、国連軍派遣による平和維持に固執した。7月には駆逐艦3隻と航空輸送部隊の派遣を決定し、ピアソン外務大臣は「単なるトークンではない」と語ったが、アメリカは失望し「では3つのトークンと呼ぼう」とコメントした。カナダは8月2万6000人以上の、米英に次ぐ第3の規模の陸上部隊を派遣し、516人の戦死者を出すことになった。
 やがてアメリカは、国連軍を隠れ蓑として共産主義勢力撲滅を志向するようになる。ピアソン外務大臣は、カナダ人の母を持つディーン・アチソン国務長官と緊密に連絡を取り合い、国連軍が38度線を越えて進軍することに反対し、和平条約の提示を進言した。だがアメリカは国連総会に、38度線を越える進軍を認可する決議案を提出し、可決させた。ところが北朝鮮領内への進軍は、中国の参戦を招いた。するとアメリカは国連総会に、中国を「侵略国」と認定する決議案を提出した。将来の中国承認を想定していたカナダは懸念を表明したが、文言の若干の修正が容れられただけで、この決議も可決されてしまう。カナダは朝鮮戦争において対米抑止政策を採り続けたが、十分な成果は挙げられなかった。
 1956年には、スエズ戦争(第二次中東戦争)が勃発する。ピアソン外務大臣は国連平和維持軍の派遣を提唱し、イギリス・フランス・イスラエル軍の撤退を実現させた。ピアソンはこの働きにより、1957年ノーベル平和賞を受賞する。
 サン=ローラン政権は1949年、イギリス枢密院司法委員会に上訴する制度を廃止し、カナダ連邦最高裁をカナダ最高の司法機関とした。
 1949年には、ニューファンドランド自治領のカナダ編入を実現させた。
 1956年、各州の税収を集めて貧しい州に再配布する「平衡交付金」を導入。これはカナダの連合結束を強めるもので、特にケベックをカナダ連邦に留める効果があるものと考えられた。
 政権末期にはトランスカナダ・ハイウェイ、セントローレンス川水路、トランスカナダ・パイプライン建設のような、大規模な公共事業に着手した。

 

 (3) 野党転落
 自由党は総選挙に5回連続で勝利し、その政権は20年以上続いていた。トランスカナダ・パイプライン建設がアメリカ企業に発注されたことは物議をかもしたが、与党が一方的に審議終了を宣言したことは、野党からは議会軽視と非難され、国民にも尊大だという印象を与えた。また西部の住民は、自由党がオンタリオ・ケベックの中部の利益ばかり考え、アメリカにへつらっていると考えた。
 ピアソン外交はカナダにノーベル賞をもたらしたものの、イギリスのスエズ運河喪失という結果を招いた。またピアソンが個人的に親しくしていたハーバート・ノーマン大使が、共産主義のシンパであるという疑いを持たれ、自殺したが、ピアソンが彼をかばったことも、国民の心証を悪くした。
 自由党が1935年に政権を奪取したとき、9州のうち8州で政権与党であった。だが1957年には、自由党が与党の州は10州のうちニューファンドランド、プリンスエドワード島、マニトバの3州だけになっていた。1957年総選挙で進歩保守党は、オンタリオ州政府の全面的な協力を取り付け、自由党の牙城ケベック以外で競り勝った。その結果、得票率では自由党が40.75%と、進歩保守党の38.81%を上回ったものの、獲得議席数は進歩保守党112、自由党105、協同連邦党25、社会信用党19、無所属4(定数265議席)という結果となり、自由党は第一党の地位を失った。クラレンス・ハウ通商貿易大臣、ジョージ・マーラー貿易大臣、スチュアート・ガーソン法務大臣、ラルフ・キャンプニー国防大臣、ウォルター・ハリス大蔵大臣ら9人の閣僚が落選した。
 自由党の予想外の敗北については、さまざまな原因が指摘とされた。1957年総選挙で自由党に投票しなかった人々にその理由を問う世論調査は、パイプライン問題38.2%、政権交代の時期だと思った30%、年金増額が不十分26.7%、スエズ戦争5.1%という結果となった。
 サン=ローランの腹心たちは、得票率では第一党であったことを大義名分として、政権を維持しようと主張した。またある人々は、連立政権を樹立するため協同連邦党や無所属議員に接触し、265議席中134議席の多数派を構成できる確約を得た。だがサン=ローランは、与党が議席を減らし過半数に達しなかったことは、有権者の政権への批判とみなし、潔く退陣する道を選んだ。彼はまもなく76歳になろうとしていた。

 (4) 政界引退
 サン=ローランは1958年1月まで自由党党首を務めたが、すでに75歳にもなっており、党首選でピアソンが当選するのを待って政界を引退した。
 引退後のサン=ローランは、一介の弁護士として静かな余生を送った。

 

 

 

●反米の闘士、ミサイル問題で失脚

John George Diefenbaker18951979
 第17代首相(1957年6月21日−1963年4月22日)

 ジョン・ディーフェンベーカーは、オンタリオ州ニュースタットに生まれ、1910年サスカチュワン州サスカトゥーンに移住した。サスカチュワン大学で政治学と経済学を修め、第一次大戦に出征するが、負傷したため戦地に行くことはなかった。
 1919年に弁護士となり、刑事事件を専門とした。彼はいつも貧しい人を弁護していた。ある事件では、殺害の様子を示すため法廷の床の上に横たわり、自分の首をかき切る動作をした。彼のこのような表情豊かな話し方は、生涯変わることがなかった。

 (1) 政界入り
テキスト ボックス: ジョン・ディーフェンベーカー。


 1920年サスカチュワン州ワコーの町会議員に当選し、政治家となる。だが1923年に落選。1925年と翌26年には、下院選挙に出馬するが落選。1929年と1938年、今度は州議会選挙で落選と、彼は5度の落選を経験する。
 1936年、サスカチュワン保守党の党首となる。1940年には下院選挙に当選し、連邦政治家としてデビューする。

 (2) 進歩保守党党首に
 駆け出しのころに5度落選したディーフェンベーカーは、進歩保守党党首選でも2度(1967年も含めて3度)落選している。1942年党首選ではジョン・ブラッケンに、1948年党首選ではジョージ・ドリューに敗れた。
 1956年、ドリュー党首が健康上の理由により辞任し、党首選が開催されることになった。ディーフェンベーカーはいち早く出馬を表明したが、彼は党内左派のため、右派はトロント大学のシドニー・スミス学長に出馬を要請した。だがスミスは、これを固辞した。右派陣営は、どうせこの党首選に勝利しても総選挙では勝てないだろうから、61歳のディーフェンベーカーなら党首に就いてもせいぜい2・3年の中継ぎに終わるだろうと、たかをくくっていた。ディーフェンベーカーは第一回目の投票で過半数の票を獲得し、当選した。

 (3) 1957年総選挙
 1953年総選挙で、保守党は選挙資金の約半分をケベックに投じたが、75議席中4議席しか獲得できず、惨敗に終わった。
 ゴードン・チャーチル議員はカナダの連邦議会選挙について研究した結果、保守党はケベックを無視してもその他の州で十分な議席を獲得すれば政権奪取は可能であり、保守党の弱点であるケベックに多額の資金を投入することは無駄だと結論づけた。
 チャーチルの提言は保守党内で無視されたが、新しく党首に就いたディーフェンベーカーだけは別だった。1957年総選挙でディーフェンベーカーは、自由党の強固な地盤であるケベックに食い込みを図る従来の戦略を捨て、その他の州で効率的に議席を獲る作戦を採用した。
 61歳の彼は決して若くはなかったが、相手は75歳のサン=ローランだった。ディーフェンベーカーは雄弁で、燃えるような情熱でカナダの北方開発を「ニュー・フロンティア」と呼んだ。選挙区遊説もサン=ローランの28日に対し、ディーフェンベーカーは39日を費やした。
 1957年総選挙は、得票率では進歩保守党は38.81%と、自由党の40.75%を下回ったものの、獲得議席は進歩保守党112、自由党105、協同連邦党25、社会信用党19、無所属4(定数265議席)で第一党となった。進歩保守党はケベックを捨ててかかっていたため、自由党はケベックの選挙区では大差で当選したが、他州では僅差で競り負けていた。サン=ローラン首相は敗北を認め、総辞職した。こうしてディーフェンベーカーが、22年ぶりに保守党政権を樹立することになった。新聞は選挙結果を報道しながら、ディーフェンベーカーが過半数獲得のため、すぐにでも抜き打ち解散・総選挙に打って出るだろうと予測した。

 

 (4) 総理大臣
 官僚たちは自由党と密接に結びついており、22年ぶりの保守党政権は多少の混乱とともにスタートした。ゴードン・チャーチル通商貿易大臣は通商貿易省から、模様替えのためしばらく登庁しないよう通達された。チャーチル大臣はあとになって、スタッフが書類を外部に運び出していたことを知ったという。彼は通商貿易省に初登庁した日のことを「私の人生でこれまでに受けた最も冷たい応対」と述懐した。またマイケル・スター労働大臣は、労働省の大臣用駐車スペースに車を停めたところ、違反切符を3度も切られたという。
 自由党のピアソン党首は景気悪化を理由に、選挙の洗礼なくして政権を委譲するよう要求する演説を下院で行った。だが「景気は今後低迷に向かう」と記された自由党の内部文書をディーフェンベーカーが暴露したことで、この戦略は逆効果となり、自由党は尊大だという印象を与えただけに終わった。
 保守党政権に人気があると知ったディーフェンベーカーは1958年2月、過半数獲得を目指して抜き打ち解散・総選挙に打って出た。前年の総選挙から、まだ9か月しか経っていなかった。
 1958年総選挙は、ケベックを苦手としてきた進歩保守党が、ケベック州の与党ユニョン・ナショナルの協力を得て、マクドナルド首相以来初めてケベックで過半数を獲得した。進歩保守党はニューファンドランドを除く全ての州で過半数を獲得し、265議席中208議席と(当時で)史上最大の圧勝を収めた。自由党は48議席と、結党以来最低の結果に終わった。
 政府は1959年、迎撃戦闘機アブロ・アロー号の開発中止を決定した。開発には経費がかかりすぎ、また当てにしていたアメリカが購入を見合わせたからである。時代は迎撃機から、地対空ミサイルの時代に変わろうとしていた。政府はその代わりとして、アメリカ製ボマーク・ミサイルの購入を決定した。これが後に、ディーフェンベーカーの命取りとなるのである。
 ディーフェンベーカーは1960年、カナダ権利章典を成立させた。それは基本的人権について規定したもので、被告人の権利についても規定されており、弁護士時代からの念願でもあった。ただしこれは憲法ではなく法律であり、既存の法律に優越するものではなかった。章典は法務大臣に、連邦議会に提出される法案が章典に違反していないかについて調査を義務づけたが、憲法ではない法律が他の法律を拘束することには異論があった。さらに、章典と矛盾する既存の法律は維持されたままだったので、裁判官はしばしば章典を、対立する既存の法律への最低限の効力とみなそうとした。また章典は連邦議会で制定された法であるため、州法の規定がこれに反していたとしても、その効力は及ばなかった。1982年憲法に「権利と自由のカナダ憲章」が制定されたことにより、章典は今日実質的に空文化しているが、法律上は依然として有効なままである。
 1958年、ジェームズ・グラッドストーンを先住民初の上院議員に指名した。1960年には、先住民に選挙権を拡大した。これは彼が、全てのカナダ人の平等を目指した「1つのカナダ」の精神に基づくものだった。
 そして彼は同時に、フランス系市民に対し特別な譲歩をするつもりは毛頭なかった。バイリンガリズムやバイカルチュラリズムは、英仏系以外の市民を二級市民の地位に追いやり、国家を分裂させることになると考えていた。

 

 (5) ケネディとの確執
 叩き上げで頂点に登ったディーフェンベーカーは、金持ちの家に生まれたケネディ大統領に複雑な感情を抱いてた。1961年の米加首脳会談で、ケネディはカナダ首相の名を誤って「ディーフェンバーカー」と言ってしまう。ディーフェンベーカーはお返しに、ケネディの「キャナダー」という独特の訛りを真似しておちょくった。
 総督公邸にカエデの木を植樹するセレモニーのとき、ディーフェンベーカーはケネディに、シャベルで土を掘ってみてはと促した。だがケネディは持病の背骨の痛みを隠しており、このとき受けた痛みにその後2年も苦しめられることになった。ケネディはその後、背中が痛むたびにディーフェンベーカーを思い出し「あの野郎(son of a bitch)のせいで」と愚痴っていたという。
 1962年総選挙の直前、ケネディはホワイトハウスに北米のノーベル賞受賞者を招待したが、その中にピアソンも含まれており、ベトナム情勢やヨーロッパ共同体へのイギリス加盟について意見をきいた。これはケネディが仲のいいピアソンを政権に就けようと画策し、その後のことを事前協議しているのだと、ディーフェンベーカーを疑心暗鬼にさせるに十分だった。
 1962年5月、首相官邸で行われた米加首脳会談の後、アメリカ側がメモを置き忘れて行った。そこには「カナダを後押しすること」と書かれていた(SOBと書かれていたという風説は、事実ではない)。ディーフェンベーカーはこれに激怒し、アメリカ大使を呼びつけ「アメリカの圧力に屈するつもりはない。このメモを、内政干渉の証拠として公開してやる。そうすれば、ピアソンは政権を獲ればくなるだろう」と言って脅迫した。ケネディはディーフェンベーカーの人間性に愛想を尽かし、「『後押し』とは圧力を意味するものではない。メモは即刻返却してほしい。もしも公開するようなことがあれば、アメリカ世論の激しい反発を買うだろう。ケネディ政権はカナダで特定の政党を支持していない。大統領はカナダ首相との早期会談を望んではいない」と回答した。両首脳の関係は、もはや修復不可能なまでに悪化していた。

 

 (6) 経済とミサイル問題
 財政赤字は5年連続となり、貿易赤字も増大した。かつて米ドルより高価だったカナダドルは、1962年には95米セントにまで下落していた。カナダ銀行が1億2500万ドルを投入して為替市場に介入したにもかかわらず、カナダドル安を阻止できなくなり、ディーフェンベーカー首相は1カナダドル=92.5米セントの固定レートを採用した。野党は、政府がカナダドル安を阻止できなかったことを皮肉り、切り下げられたカナダドルを「ディーフェンダラー」と呼んだ。カナダドル安は物価高を招き、国民の生活を直撃した。
 ディーフェンベーカーは、ジョルジュ・バニエを最初のフランコフォン総督に指名したが、閣僚にはケベック人を一人も任命しなかった。進歩保守党はケベックに何の拠点も築いたわけでもなく、1958年総選挙の大勝利はひとえに、ユニョン・ナショナルの協力の賜物であった。同党が1960年にケベック州の政権を失うと、ケベックにおける進歩保守党支持は急落した。
 こうして迎えた1962年総選挙で、進歩保守党はケベックで大きく議席を減らしたほか、全国的に大都市でふるわず、英語圏の農村部で支持される少数政権に転落した。
 ディーフェンベーカーは総選挙の直後も、カナダドル売りの圧力に瀕した。92.5米セントのレートを死守するため、外貨準備高の全額では足りず、国家予算を削減して資金を捻出し、さらにアメリカ連邦準備制度から2億5000万ドルを借り入れた。だが自分からアメリカに援助を求めたにもかかわらず、ディーフェンベテキスト ボックス: ディーフェンダラー。


ーカーは、カナダドル危機はケネディの陰謀だという被害妄想に取り付かれた。
 ディーフェンベーカーは、アブロ・アロー号開発を中止する代わりにボマーク・ミサイル配備を約束したが、その実施は遅れていた。反核運動が盛り上がる中、彼は導入を渋っていたのである。アメリカ国務省が1962年1月に「核弾頭なしでは役に立たない兵器の配備を約束したにもかかわらず、カナダは北米防衛に十分寄与できるアレンジメントを実施していない」という声明を発表すると、ディーフェンベーカーはまたも内政干渉に憤り、駐米カナダ大使を召還した。これは米加関係にとって、最初にして唯一の事態だった。
 進歩保守党は、ボマーク・ミサイル配備をめぐって2つに割れた。ディーフェンベーカーは一時は、下院を解散し反米を争点に選挙を戦うとか、辞任するとか口走ったが、周囲に慰留されたため、受け入れ推進派のダグラス・ハークネス国防大臣が辞任に追い込まれた。
 自由党はこれを好機と見て、翌日内閣不信任案を提出した。ディーフェンベーカーが当てにしていた社会信用党は、ミサイル問題について首相の態度が明確でないとして支持を取り下げたため、142111で可決された。ディーフェンベーカーは下院を解散した。
 1963年総選挙でディーフェンベーカーは、反米、反ベイ(ベイ・ストリートの金融街)、反中部エリート、反マスコミを掲げて戦ったが、結果は自由党128、進歩保守党95、社会信用党24、新民主党17、諸派1(定数265)となり、進歩保守党は自由党に政権を譲った。この総選挙にはアメリカの介入があったと言われているが、その証拠は見つかっていない。ピアソン党首と親しかったケネディは、自由党の勝利を期待したが、アメリカが干渉すればかえってカナダ国民の反発を買い、ピアソンに不利になるので、自重したとされている。

 (7) 野党党首
 1964年の国旗論争で彼は、ユニオン・ジャックの入った自治領旗に固執し、メープルリーフの新国旗に強く反対した。
 ベイ・ストリートの金融街は、彼を党首から降ろせと要請した。そこで進歩保守党は1964年2月の党大会で、彼のリーダーシップに関する投票を行った。結果は、僅差でディーフェンベーカーが支持された。
 ディーフェンベーカーは1965年総選挙で、国粋主義的な運動を行った。結果は自由党過半数を阻止したものの、進歩保守党は97議席と敗退した。反主流派は、再びディーフェンベーカー降ろしに着手した。ただディーフェンベーカーを降ろせば、東部ではいい結果を得られそうだったが、西部の支持を失うおそれがあった。
 党は結局1967年、党首選を開催することになった。そしてディーフェンベーカーは、ノバスコシア州首相ロバート・スタンフィールドに敗れた。これは彼にとって、3度目の落選だった。
 党首退任後、彼は一介の下院議員となり、死ぬまで務めた。彼の葬儀のとき、棺にメープルリーフの国旗が掛けられたが、遺言により、さらにその上に自治領旗が掛けられた。人々は自治領旗で覆われたディーフの棺が行くのを見て、一つの時代の終わりを感じた。

 

 

 

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