[5]「脳地図」 の成立

   Wilder Graves Penfield(1891−1976)

 

 ワイルダー・ペンフィールドはワシントン州スポケーンで、医師の子として生まれた。そこは当時まだ開拓中で自然が残っており、少年時代はフットボールやセイリングなど野外スポーツに親しんだという。また教会学校教師だった母から学んだ聖書は、彼に大きな影響を与えた。

 ペンフィールドは1909年プリンストン大学に入学する。だがそこには彼の好きなフットボール部がなかったため、自らフットボール部を結成し、名手として鳴らす。彼は哲学を専攻し、Best All-round Man”に選出されローズ奨学金を受けるが、学んでいる内容が自分の信仰と相容れないと感じ、卒業すると医師への道を志し1914年オックスフォード大学、次いで1916年ジョンズ・ホプキンズ医学校に進み医学を学ぶ。そして1918年に卒業して医師となり、コロンビア大学付属病院、長老派病院、ニューヨーク神経外科学院に勤める。1928年からカナダのモントリオールに住み、ロイヤル・ビクトリア病院に勤め、1933年マギル大学教授となり、翌年モントリオール神経外科学院を創立する。同年カナダ市民となる。

 

 従来癲癇(てんかん)は悪霊によって引き起こされると考えられていたが、医学の進歩によって、損傷した脳が放電し患者を人事不省に陥らせる現象であることが解明された。そこで彼は、損傷した脳皮質を除去することで癲癇を抑制する手法を考案し、自分の姉を含む数人の手術を手がけた後、1927年に論文で、@損傷した皮質は全て除去すること、A皮質を除去しても、除去された部分の皮質の役割は他の部分が補う、B除去した部分の空間は放置しておけば自然に液体で埋まるので、異物を埋めないこと、を述べた。また学会で、自分が手術した患者の事例をビデオでとりあげたが、その患者は相当な量の皮質を除去され、手術後当初は体の動きがぎこちなく、麻痺しているように見えたにもかかわらず、リハビリを通して次第に機能を回復し、職場に復帰したことを発表し、医学界に一大センセーションを巻き起こした。

 彼は30年間に750人以上の手術を手がけたが、頭皮に局部麻酔をして開頭手術をする際、除去すべき皮質を見極めるため、微電流を帯びた電極を脳に当てると、特定の器官が運動するのを見た。患者Aは、脳に電極を当てると「手が動いていないのに、動いているように感じる」と語った。患者Bは手術中に突然右手を動かしたため、ペンフィールドが「なぜ右手を動かすのですか」ときくと、Bは「手など動かしていません」と答えた。なおBの患部は言語野の付近にあり、手術は言語障害を惹き起こす危険を伴ったが、ゴルフ狂のBは呑気に「手術後どれくらいでゴルフができるようになりますか。先生、パットがうまくなるような手術はできませんか」などと言い、ペンフィールドは「今パットをつかさどる部分が見えますが、それはほかのプレーヤーにとって不公平だと思いますよ」と答えたという。

 側頭葉には言語野があり、この部分に手をつけると言語障害を惹き起こすことが知られていて、それまで医師たちはこの部分を禁断の地と捉え、手をつけようとはしなかった。だがペンフィールドはこのタブーを果敢に打ち破り、この部分の手術に挑んだ。彼は言語野に電気刺激を与えると、人の言語の働きを操作できることを知った。側頭葉のある部分に電極を当てると、一時的に失語症になるのである。ペンフィールドが電極を当てながら「靴を履いている部分を何と言いますか」と質問すると、患者Cは「えーっと、わかっているんですけど・・・・・」と言いながら、どうしても答えられなかった。電極を離すと「足」と答えたが、再び電極を当てるとまた思い出せなくなったという。

 このような皮質と各器官との関係は、それまで動物実験によってある程度知られてはいたが、彼はセオドア・ラスムッセンとともに著書の中で有名な「脳地図」を発表した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

左:左半球の側面。 右:中心溝に沿って切った正面の断面。 

手や口は巧妙な動きが要求されるため、発達して広い面積を占めている。

 

 

 

 

 だが彼の最も偉大な発見は、右の側頭葉(解釈領)に電気刺激を与えると、過去の体験が甦ってくるということだった。患者Dは手術中に「今赤ちゃんを抱いているように感じる」と語ったが、もちろんDは自分が今手術を受けていること、その赤児がすでに成長している自分の子で、自分が「幻覚」に陥っていることを認識していた。患者Eは、脳に電極を当てたとき、以前にコンサートで聞いたオーケストラの演奏が聞こえてきたので、誰かが手術室でレコードをかけていると思った。だが不思議なことに、そのときコンサートでの興奮や臨場感さえ、生々しく感じていたのだった。ところが電極を離すと音楽は止み、臨場感も消失したという。患者Fは、自分がモントリオールで手術を受けているのを知りながら、南アフリカにいるはずのいとこの姿が見え、自分と談笑していたと語った。患者Gは、脳に電極を当てると突然「どうして椅子に座っている人が見えるの!」と叫んだ。電極を離すとその人の姿は消滅し、もう一度別の部分に電極を当てると、今度は二人の男が口論しているのが見えたという。また患者Hは左官屋だが、脳に電極を当てると、自分が煉瓦を積んでいる様子をありありと感じた。それは以前にやった覚えのある作業なので、次に自分がどうするのか、予見することができたという。

 これらの事実に共通しているのは、これらの体験が記憶の「回想」と呼ぶにはあまりにも鮮明であり、むしろ過去の「追体験」とも言うべきものであるということである。記憶の回想は、長いストーリーを短縮してあらすじだけを一瞬のうちに追うことができるが、過去の「追体験」は、オーケストラの演奏も煉瓦を積む作業も全て実際と同じスピードで行われる。演奏に合わせてハミングさせると、テンポは常に一定なのである。また必ず古い過去から新しい過去に向かって再現され、時間を逆行することはないのである。

 このような記憶は、当人にとってはそれほどの重大事ではなかった。また記憶の「追体験」以外にもペンフィールドの電気刺激によって、体験の実在感がなくなる「離人感」、初めて見たものを以前見たように感じる「仮性既視」、何度も見たはずのものが初めて見たように感じる「仮性未視」など、記憶に関する様々な現象が見られた。これらの現象は、癲癇の前兆(アウラ)として知られていた症状と同じであり、これにより複雑多彩な発作が実は側頭葉癲癇にほかならないことが確認されたのである。このような体験から彼は、大脳皮質のある部分に全生涯の記録が記憶として保存されていると結論づけた。しかしそれらの全てを任意に再生することはできないし、たとえできても人は非常な混乱に陥ることになるだろう。

 

 ペンフィールドは脳外科医として長年の経験を積み重ねていくうち、人の「心」や「霊魂」はどこにあるのかという問題につき当たった。彼は著書「脳と心の正体」の序文で、自分もほかの科学者たちと同様に、「心」とは脳の働きに過ぎないということを証明しようとしたが、「心」は脳そのものではないという結論に辿りついたと述べている。

 1962年、ソ連の物理学者レフ・ランダウ(同年ノーベル賞受賞)が交通事故で頭部を負傷した。彼は全身麻痺状態に陥り、ただ目だけが開いていた。ところが病室でペンフィールドがランダウの妻に「脳の手術をするべきだ」と話すと、突如ランダウの目が妻の方を向いたのである。そして妻が話を終えると、今度は何か言いたげな目でペンフィールドの方を向いたという。このときランダウは中脳に出血していたので、出血部よりも下にある運動神経の核に向かう信号は全て遮断されていたが、出血部よりも上にある言語領、視覚領、聴覚領は健在で、出血部よりも上にある、上部脳幹の動眼神経核だけが信号を目の筋肉に伝えることができたと思われる。ペンフィールドは、ランダウが2人の会話を聞いて理解していたととらえ、脳が損傷しても「意識」は存在し続けると考えた。

 また、癲癇の小発作が起こると、上部脳幹の焦点性放電により「意識」を失うが、脳の他の部分は働き続けるため、無意識のままさまよい歩いたりし、しかもその間の記憶が残らない(自動症)。ペンフィールドはこのような現象が起こるのは、放電によって上部脳幹の機能が停止し、脳と「意識」の連絡が断たれるためだと考えた。

 ある患者は、電気刺激によって右手が勝手に動くのを左手で止めようとした。また別のある患者は、見えている物体がどんどん大きくなり、「近づいて来る」と言いながら、それをよけようとはしなかった。もしも脳が「意識」そのものならば、電気刺激によって意識は混乱するはずである。しかし記憶の「再現」を経験したどの患者も、それが「幻覚」であり、自分が手術を受けていることを確かに認識しており、手足が勝手に動いても、患者はそれがペンフィールドに操作されたものであることを認識し、意識の混乱は見られない。しかも電気刺激によって何かを決心させたり、信じ難いことを信じさせたりすることはできず、ペンフィールドは、脳を刺激しても「心」は動かされないと結論づけた。

 

 ペンフィールドは1954年に教授職、1960年には神経外科学院を退任するが、それは彼にとって新しい人生のスタートでしかなかった。1954年の処女作「ほかに神なし」は、偶像礼拝のはびこるウルの街で、月の神の祭司ナンナーと、唯一の真の神である主を求めたアブラハムの生き様を対比した物語で、聖書への信仰厚い彼の母が長年あたためてきた構想に基づき、母の死後自らのメソポタミア旅行体験と合わせて綴った作品である。1960年の「ともしび」は、これもギリシア旅行体験と合わせて書いた、医学の祖ヒポクラテスの物語である。1963年には随筆集「第二の人生」を出版、1976年には自伝「人は独りでは事を成しえない」を書き終えているが、それは彼の死の3週間前のことだった。

 

 

 

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