[9] カサ・ロマの落日

    Henry Mill Pellatt Jr.(1859−1939)

 

トロントの観光名所として知られるカサ・ロマを建てたヘンリー・ペラットは、見事な金の使いっぷりで市民に愛されたが、晩年破産し、一文無しのまま世を去った。

 

 オンタリオ州キングストンに生まれる。父ヘンリーSr.は銀行家だったが、南北戦争後の不況のため破産し、ペラットが生まれたときは一文無しだった。

 その後、一家は1859年にトロントに移り、ヘンリーSr.は株の仲買いを始める。彼が見込んだとおりトロントは人口が増加し、新しい産業が興り、既存の会社も事業を拡大したため彼のビジネスも成功した。

テキスト ボックス: 正面から見たカサ・ロマ(トロント)。 ペラットは1876年アッパーカナダカレッジに入るが、3ヶ月で中退してクイーンズオウンライフル隊に入隊する。このころ短距離走者として頭角を現わし、1878年カナダマイルチャンピオンシップ、翌年には北米1マイル走に優勝している。

 だがこれを機会に彼はレースから遠ざかり、父の事業に参加し1883年ペラット&ペラット社を創立。その年トロント電灯社を創立するが、同社はトロント市と30年の街灯独占契約を結び、市域の拡大と人口の増大に伴い莫大な利益を上げた。また1885年に大陸横断鉄道が開通すると、西部に土地ブームが起こるのを見越してカナダ太平洋鉄道、グランドトランク太平洋鉄道、カナダ北西不動産の株を買い占め成功。1903年にはナイアガラ滝での発電独占権を3万ドルで購入し、オンタリオ電力開発を創立。同社は投資家から資本金600万ドルを募って創業したが、彼はすぐに発電の権利を600万ドルで同社に売却。濡れ手に粟のボロ儲けであった。さらに翌年オンタリオ州コバルトで銀鉱が発見されると、コバルト湖鉱業社を創立。そのほかトロント・ナイアガラ電力、ホームシティー不動産、トロント不動産、帝国生命保険、カナダ造船を創立し、トロント電鉄、ドミニオン鉄鋼、ウエストドーム鉱業、オフィル鉱業、マッキンチャー鉱業、モネタ・ポーキュパイン鉱業、ページ・パーシー鋼管、ウエスタン生命保険、カナダ生命保険、製造業生命保険、オンタリオ汽船、カナダ汽船、ラパス石油などテキスト ボックス: ナイアガラ滝(カナダ側/オンタリオ州ナイアガラ・フォールズ)。の取締役に就き、カナダの富豪23人の一人に数えられるまでになった。

 しかし彼は単なる金の亡者ではなかった。社会事業にも関心を持ち、トリニティー大学、グレース病院、救世軍、国教会などに献金し、1911年のジョージ五世即位時にはトロントの全児童に記念メダルを贈呈している。

 だが王党派の彼が最も心血を注いだのは、何と言ってもクイーンズオウンライフル隊だった。1901年司令官(階級は中佐)に昇進し、1902年のエドワード七世戴冠式では軍楽隊657 名を自費でイギリスに派遣し、その功によりナイトに叙せられる。1910年にも自費でクイーンズオウンライフル隊創設50周年セレモニーをCNE(博覧会場)で開催。またその年隊員635名を自費でイギリスのトレーニングセンターに派遣している。

 

 万事派手好きな彼の究極の贅沢は、カサ・ロマ(ラテン語で丘の館)の建設だった。1914年、トロント郊外の丘陵地に3年の歳月を費やして建てられたこの城は、部屋数98、暖炉25、電話52台、電灯5000、浴室だけでも38、ノルマンタワーとスコットタワーの2つの塔を持ち、世界で唯一電動エレベーターのある城である。最も見事なものは一階入口すぐの大ホール。樫材の梁の天井と、738枚のガラスから成る張り出し窓に囲まれたこの部屋には、7万5千ドルのパイプオルガンと、英国王が戴冠式のときに使うウエストミンスター寺院のものを模倣した玉座があり、ペラットの王権を象徴している。ピーコックテキスト ボックス: 軍服姿のペラット。回廊はウインザー城のものを模倣しており、ビルマ産チーク材でできた床には釘が使われてなく、壁は樫材の手彫りである。応接室はドイツ職工が3年かがりで仕上げた樫のパネルで覆われており、オークルームと呼ばれている。ビリヤードルームにはスペイン産マホガニー製のビリヤードテーブル(3,800ドル)があり、ここで彼は設計者であり隣人でもあるEJ.レノックスと、象牙の球でよくプレーを楽しんだ。24×8メートルの図書室は、10万冊が収納でき、壁はフランス産胡桃材、床はカナダ産樫材でできたヘリンボーン模様、天井はエリザベス朝の仕上げになっている。食堂は100人以上が収容できる。東隅の温室は地中海様式となっており、天井はイタリア製ステンドグラス(1万2千ドル)のドーム、床もイタリア産大理石で、蒸気パイプで保温されている。彼はここで栽培した植物を園芸展に出展していた。書斎は壁はスペイン産マホガニー、床はカナダ産樫でできているが、来客と顔を合わせたくないときのために秘密の階テキスト ボックス: 庭園から見たカサ・ロマ。段があり、上は自室に、下は1,800ボトル収納可能なワイン貯蔵庫に通じている。二階の彼の浴室は大理石の浴槽で、当時珍しかった全角度から吹きつけるシャワーがある。

 地階には18×7メートルの屋内プール、ボーリングレーンが2面、ローラースケートリンク、ビリヤード場、50メートルのライフル射撃場があるが、これらは全て第一次大戦の影響による物資不足と、彼の財政的事情から未完成に終わった。そして244メートルの地下トンネルの先にはスペイン産マホガニー製の厩舎がある。城の背後は6エーカーの庭園で、そこでカナダグース、キジ、ふくろう、りす、七面鳥などを飼っていた。畜舎では牛も飼い、そこで搾ったミルクは温室で栽培された果実とともにペラット家の食卓に上げられた。

 このような超豪華設備を持つこの城は、ペラット自身が実際に世界各地を旅行して城を視察し、それぞれの長所を取り入れた「ノルマン・ゴシック・ロマネスク様式の融合」と呼んでいたが、専門家はこれを「17世紀スコット朝様式と20世紀フォックスの融合」と評したという。この巨大な城でペラット夫妻はパーティーを催し、クイーンズオウンライフル隊の全隊員を城に招いたのだった。

 

 カサ・ロマはペラットの夢だったが、同時に自らが所有する周辺の不動産を高級住宅街に変貌させる広告塔の役割も兼ねていた。だがそのセダーベール地区は、その周囲の庶民階級が住むアベニューロードヒルやローズデールなどの地区に比べ、地価が異常に高かった。

 1912年に彼は畑だったセダーベールを32万ドルで購入しているが、翌月にはそれを傘下のホームシティー不動産に120万ドルで売却し88万ドルの利益を得ていた。だが実際には土地を転がして地価を高騰させただけで、そこから何も産み出されたわけではなかった。株のディーラーとバイヤーの両方を兼ねていた彼は、好きなだけ株を売買して株価を上げ、地上げをして含み資産は勝手に増えていき、それを担保にホーム銀行から無尽蔵に融資を受けることができたのだ。だがトロントの人口が増えているときは土地も売れ、人口増加に伴い産業が活発になると、人々は株に投資したのでオンタリオ電力開発のときのような儲け方もできたが、第一次大戦が始まると人々は戦時公債や軍需産業に投資し、土地や株を買わないようになったため、彼は資金繰りに行き詰まっていったのだった。

 ペラットは自由党と密接な関係にあったが、1905年保守党は政権を握ると、オンタリオ電力開発の独占に異を唱え、翌年世界初の公営電力会社オンタリオ水力発電公社を設立する。より安価な電力供給を約束した大規模なキャンペーンを各方面で展開し、市民の支持を取りつけることに成功した。ペラットは新聞社トロント・ワールドを35万ドルで買収し、キャンペーンをやめさせるよう謀ったが、逆に世論の反発を買い、人々は公社に投資するようになったため、ついに1908年オンタリオ電力開発、1911年にはトロント電灯社を売却し、彼の独占(モノポリー)は終わりを告げた。

 カサ・ロマの建設費は25万ドルの予定だったが、終わってみれば300万ドル以上の大金を投じていた。またその評価税額は25万ドル、従業員の給与が年間2万2千ドル、光熱費だけで1万5千ドルもかかり、彼は170万ドルもの負債を返済できなくなった。そこでホーム銀行は興信所に彼の身辺を調査させたところ、彼の所有するドーズ・ロードの土地が、地価72万ドルとされていたが、実際の価値は15万ドルほどしかないことがわかった。1,700万ドルと言われた彼の資産は、どれもみなこのような上げ底状態であり、その実体はトロント経済成長期に地上げと株価操作で膨らんだバブルでしかなかったのである。

 ペラット一人の負債があまりに巨額なため、ホーム銀行はもはや彼の財政再建に自らの運命を託すほかなくなり、何とその後もそれ以上の融資を続けるという、今日ならば犯罪となる愚挙に出た。だが第一次大戦後の景気後退にはなすすべもなく、彼が多額の投資をしたグランドトランク太平洋鉄道とラパス石油が倒産する。彼の経営建て直しは絶望的となり、ホーム銀行も1923年ついに倒産し、彼は金の成る木を失ったばかりか、法的責任を問われかねない事態となった。するとホーム銀行の管財人ジオフリー・クラークソンはペラットの資産のほとんどを差し押さえに出た。彼の権勢の象徴だったカサ・ロマも差し押さえられ、退去を余儀なくされ、家具類が競売にかけられたが、王室から賜わったエドワード七世のブロンズ像が430ドル、大英百科事典が3ドル25セント、レイノルズ画のウォルポール像が2,700ドル、3,800ドルのビリヤードテーブルが875ドル、ルイ十六世のベッド1,100ドルが380ドルで飛ぶように売れ、この「カサ・ロマバザー」は新聞の社会面の記事にさえなった。ペラット王国の無残な最期であった。

 会社や資産を次々と手放していった彼は、カサ・ロマだけは手放そうとせず、1927年資本金100万ドルで「北米一の超豪華ホテル」カサ・ロマホテルをオープン、お抱え楽団のグレンクラブ・カサ・ロマ・オーケストラも組織された。借金の返済に充てるはずの4万5千ドルをカサ・ロマホテルに投資して、クラークソンを激怒させるほど執着したが、豪華すぎて宿泊費がべらぼうに高く、しかも住宅地にあってダウンタウンには遠く、観光には不向きで、わずか一年で閉鎖の憂き目にあう。ペラットはすでに借金地獄にはまっており、クラークソンの同意なしには何もできない立場になっていたが、彼に実業家としての資質がないと見たクラークソンは、以後彼を全く信用しなくなり、全ての経営から身を引き、ペラット&ペラット社をペラットの息子レジナルドに譲って実業界から身を引くことを強要した。1929年ウォール街の株式暴落でとどめを刺され、トロント市はペラットを破産させ、カサ・ロマと爵位を没収しようとする。このときクラークソンは、

「ヘンリー卿を破産させても市に何の利益もなく、ヘンリー卿が市の発展のためこれまでどれほど多くの貢献をしてきたかを思えば、市は破産勧告を撤回し、今の体調からして余命いくばくもないヘンリー卿に爵位を残す程度のことはできると考えます」。

という嘆願書を提出するが、市は爵位は残したものの1934年ついに彼を破産させた。

 博物館として残して欲しいとペラットが懇願するのを無視して、市は再開発のためカサ・ロマの解体を決める。だが解体には建設費と同程度の巨額の費用がかかることがわかったため、ダイナマイトで爆破することにしたが、破片が近隣に飛び散るため断念。焼却する案も出たが、カサ・ロマは耐火建築となっていたため、これも不可能となる。莫大な光熱費を要するカサ・ロマは、使用することも解体することもできないまま放置され、こうもりや鳩の住みかとなり、荒れ果てていった。

*    *    *    *    *    *    *

 1937年、トロントの貴重な歴史的遺産であるカサ・ロマの荒廃を惜しんだキワニスクラブが、市よりカサ・ロマの使用を委任され、カサ・ロマはトロントの観光スポットとして再び脚光を浴びることになった。このとき祝賀パーティーに招待された、今は一文無しのヘンリー・ペラット卿は白内障で失明しつつあり、往年より30キロも痩せ、杖をついていた。スピーチを求められた彼は目に涙を浮かべながら、

「私はカサ・ロマを人々に楽しんでもらえる場として建てた。そしてこのクラブはその目的にかなってこの城を使い、多くの人々をこの城に導いている。これ以上のことはない。私は・・・・・私は満足だ。」

と語っている。この日が彼の最後のカサ・ロマ訪問となった。

 第二次大戦の足音が迫る1939年3月、彼は負債6,000ドルと現金185ドル8セントを残して世を去った。父子ともに戦争で破産した彼は、この戦争で多くの者が財産を失い、そして一握りの者が財を成すであろうことを知っていただろうか。翌日の新聞テレグラムはこうコメントしている。

「カサ・ロマはヘンリー・ペラット卿の破れた夢を後世まで語り継ぐだろう。それは人の世の栄華が永遠でないことを刻んだ(いしぶみ)として、今日も丘の上に建っているのだ」。

 

 

 

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