●進歩保守党The Progressive Conservative Party of Canada)

 自由保守党→保守党→進歩保守党→カナダ同盟に吸収され消滅

【歴代党首】(*は首相)
〔(自由)保守党〕
初 代 *ジョン=アレクサンダー・マクドナルド(1867年7月1日〜1891年6月6日)
第2代 *ジョン・アボット(1891年6月16日〜1892年11月24日)
第3代 *ジョン・トンプソン(1892年12月5日〜1894年12月12日)
第4代 *マッケンジー・ボーウェル(1894年12月21日〜1896年4月27日)
第5代 *チャールズ・タッパー(1896年5月1日〜1901年2月5日)
第6代 *ロバート=レアド・ボーデン(1901年2月6日〜1920年7月9日)
第7代 *アーサー・ミーエン(1920年7月10日〜1926年9月24日)
第8代 *リチャード=ベッドフォード・ベネット(1927年10月12日〜1938年7月6日)
第9代 ロバート・マニオン(1938年7月7日〜1940年5月13日)
第10代 アーサー・ミーエン(1941年11月12日〜1942年12月9日)
〔進歩保守党〕
第11代 ジョン・ブラッケン(1942年12月11日〜1948年7月20日)
第12代 ジョージ・ドリュー(1948年10月2日〜1956年11月29日)
第13代 *ジョン=ジョージ・ディーフェンベーカー(1956年12月14日〜1967年9月8日)
第14代 ロバート・スタンフィールド(1967年9月9日〜1976年2月21日)
第15代 *ジョー・クラーク(1976年2月22日〜1983年2月18日)
第16代 *ブライアン・マルローニ(1983年6月11日〜1993年6月12日)
第17代 *キム・キャンベル(1993年6月13日〜1993年12月13日)
第18代 ジャン・シャレー(1993年12月14日〜1998年4月2日)
第19代 ジョー・クラーク(1998年11月14日〜2003年5月30日)
第20代 ピーター・マッケイ(2003年5月31日〜2003年12月8日)

 

 (1) 保守党結成

 アッパー・カナダ(オンタリオ)とローワー・カナダ(ケベック)が合併して成立した連合カナダ植民地には、1850年ころ大きく分けて7つの政治勢力があった。
 アッパー・カナダにはアラン・マクナブの保守派、ジョン・マクドナルドの穏健保守派、ロバート・ボールドウィンの穏健リベラル派、ジョージ・ブラウンの急進改革派があった。ローワー・カナダにはルイ・ラフォンテーヌの穏健リベラル派「ブルー党」、アントワーヌ=エメ・ドリオンの急進改革派「ルージュ党」とケベックのアングロ・カナダ人グループがあった。
 1854年にヒンクス=モレン連合政権が崩壊したとき、総督はアラン・マクナブに組閣を命じた。だがマクナブのグループは少数だったため、マクドナルドに協力を求めた。マクドナルドは政権安定のため多数派形成を図り、ケベックのアングロ・カナダ人グループのみならず、穏健リベラルのボールドウィン一派とその盟友ラフォンテーヌ一派の抱き込みに成功する。これは換言すれば、リベラル派が巧妙に分断されたことにほかならなかった。
テキスト ボックス: アラン・マクナブ。 連合カナダ植民地では、フランス系の人口はイギリス系より多かった。そもそもフランス系の発言力を封じるため、両カナダを合併させ連合カナダを形成し、そのうえ二人共同首相制を採用していたのである。だが両民族の勢力が拮抗することで、政治はしばしば停滞し「デッド・ロック」に陥った。そこでマクドナルドは、念願のカナダ連邦結成を実現するため1864年、ついに政敵ジョージ・ブラウンを説得し大連立を成立させる。この連立はルージュ党以外の全ての政治勢力を含んだものとなった。ブラウンは翌年大連立から離脱したが、多くの改革派は彼に従わず政権に残ったため、カナダ連邦結成は1867年無事に実現された。マクドナルドはここでも、巧妙にリベラル派を分断したことになる。連邦初代首相に指名された彼は、正式に「自由保守党」を結成しその党首に就任した。単に「保守党」とせず「自由」の名称を冠したところに、マクドナルドの絶妙のバランス感覚と多数派形成のための苦労を見ることができるだろう。
 マクドナルドは、党派によらない超然内閣を形成しようと試み、最初の閣僚には保守派と自由主義者をほぼ同数任命している。だがブラウンらもリベラル諸派を結集して自由党を旗揚げし、二大政党による政党政治の時代が到来していることは明らかだった。かつて大連立を支えた自由主義者たちは、次々と離脱していった。
 1873年、党は名称を「保守党」に改称したが、何人かの候補者はその後も「自由保守党」を名乗り続けテキスト ボックス: ジョン・マクドナルド。たため、2枚の看板が同時に存続することになった。1916年には、「自由保守党」を名乗る最後の閣僚サム・ヒューズが罷免された。

 

(2) 黄金の日々
 カナダ連邦が成立した初期、「トーリー」と呼ばれた保守党はその名の通り君主制主義で、大英帝国における義務を果たすことを旨とし、プロテスタンティズムを重んじた。経済政策においては重商主義で、初代首相マクドナルドは、高い輸入障壁によって国内産業を保護する「ナショナル・ポリシー」を提唱し、自由党が主張する規制緩和に反対した。
 「トーリー」アプローチはカナダ連邦の最初の30年間、特に19世紀において保守党によるカナダ政治の独占を実現した。歴代党首のうち、最初の8人は全員首相になっている。だが保守党は1891年総選挙に勝利した後、創設者マクドナルドと後継者トンプソンの相次ぐ死にみまわれ、リーダーシップが動揺したまま、国民の審判を経ることなく5人もの総理総裁による短期政権を続出させた。保守党の偏狭な反カトリック主義は、マニトバ学校問題などカナダの複雑化する諸問題に柔軟に対応できなくなっていた。

 ボーデン首相は第一次大戦中の1917年、大多数の自由党および無所属議員とともに大連立会派「連合」を結成し、挙国一致内閣を形成している。ボーデン退陣後政権を引き継いだミーエン首相は、この統一会派を定着させるべく党名を「国家自由と保守党」に改めたが、1921年総選挙で自由党議員が分離し、保守党は大敗して「保守党」の名称に復した。マニオン党首は第二次大戦中の1940年総選挙で、挙国一致内閣を形成すべく「ナショナル・ガバメント」の名称で臨んだが、保守党の分裂を招き大敗した。

 (3) 冬の時代
 だが保守党はアメリカのトーリーとは異なり、20世紀前半に生じた社会福祉の概念を取り入れようとはしなかった。また極度の英国主義と西部依存体質が、2番目に大きい州であるケベックでの不人気を招いた。この問題は第一次大戦中、1917年の徴兵危機でいっそう深刻化し、また戦後移民が増加し多民族国家となっていくのに伴う自由党覇権時代の到来で、保守党は万年野党として、特に第二次大戦後のほとんどの歴史を反対することに費やすことになる。保守党政権約50年のうち20年は19世紀であり、戦後60年のうち保守党政権はわずか15年に過ぎなかった。
 自由党に遅れること33年、保守党が初めて党大会を開催し、全党員による選挙でリチャード・ベネットを党首に選出したのは1927年のことである。それまでの党首は議員が選出していた。彼は1930年の総選挙において、苦手のケベック州で24議席も獲得し、過半数をわずかに超える政権を築いた。
 1940年の総選挙で大敗した保守党は1942年、進歩党党首だったマニトバ州首相ジョン・ブラッケンを保守党党首に就け、強力な自由党に対抗するため、中道右派路線を志向し、関税重視策の撤回や党が軽視してきた社会保障の充実などの進歩的政策を取り入れ、党名を「進歩保守党(The Progressive Conservative Party of Canada、略称PC)」と改める。だが党名変更にもかかわらず、多くの進歩党支持者は自由党ないし協同連邦党(今日のNDP)を支持した。そしてブラッケン自身はついに政権に就くことはなかった。
 ジョン・ディーフェンベーカーは、戦後では例外的な長期政権を樹立した。1957年総選挙では得票率で自由党を下回ったにもかかわらず第一党となり、少数政権を築いた。翌58年総選挙では、ケベック州与党ユニョン・ナショナルの協力を得て苦手のケベックで75議席中50議席を獲得したほか、ニューファンドランドを除く全ての州で過半数を獲得する歴史的大勝利を収める。だがユニョン・ナショナルのデュプレシ党首が死去しケベックでの議席獲得が困難になると、彼の前時代的・権威主義的な体質は党内で批判の的となり、1967年、党首選に敗れ退陣した。

 (4) レッド・トーリズムとブルー・トーリズム
 保守党には、左派と右派の2つの派閥があった。それぞれ「レッド・トーリー」、「ブルー・トーリー」と呼ぶ。レッド・トーリーは保護貿易主義であった。レッド・トーリーにはマクドナルド首相、ボーデン首相、ディーフェンベーカー首相、スタンフイールド党首、クラーク首相などがおり、彼らは進歩保守党の歴史を通じ一貫して主流を成した。
 ブルー・トーリーは、モントリオールやトロントの実業家らエリートであった。彼らは第二次大戦前は社会政策においては保守的で、経済政策においてはリベラルだった。彼らはアメリカ共和党のバリー・ゴールドウォーターやレーガン大統領、イギリス保守党のキース・ジョゼフやサッチャー首相らのネオ・コンサバティブの影響を受けた。だがレッド・トーリズム主流の保守党は政権に就いたとき、本気でレーガノミックスを導入はしなかったし、アメリカやイギリスで喧伝されたほど「大きい政府」を攻撃するようなことはなかった。

 (5) 保守党ペレストロイカ−崩壊への序曲
 1960年代後わりの「静かな革命」の後、進歩保守党は、フランス系住民へのアプローチの必要性を痛感した。同時に重商主義から離れ、ネオ・リベラリズムを志向し始めた。この2つの動きは、保守党では初めてとなるケベック人ブライアン・マルローニによる1983年の党首就任で結合することになる。
 歴史的に、自由党がアメリカとの自由貿易を志向したのに対し、保守党はイギリスとの経済的結びつきを重視しアメリカとの自由貿易に反対してきた。だがトルドー自由党政権が経済ナショナリズム政策を採ったことで、両党の伝統的政策は入れ替わった。西部諸州にとっては、カナダの中心オンタリオとケベックは地理的に遠く、むしろアメリカ中西部と取引する方が容易だった。だが中西部で1議席も獲れなかったトルドー政権は、アメリカとの貿易に障壁を設けカナダ経済を囲い込む政策を採り、そればかりかエネルギー税を新設して原油の産地アルバータを標的にした。いっぽうケベックについては「特別の地位」を約束したにもかかわらず、1982年憲法で反故にされたため、ケベック州は新憲法の批准を拒否していた。そこでマルローニは、本来対立関係にある西部とケベックが、トルドー自由党への恨みを共有していることに着目し、対米自由貿易とケベックの憲法体制への取り込みを公約して、1984年総選挙において、ケベックを含む全ての州と準州で過半数を獲得する歴史的大勝利を得たのだった。
 1985年米加自由貿易協定(FTA)が締結されると、輸入障壁によって国内産業を保護する「ナショナル・ポリシー」(和訳すると「国策」)はついに放棄され、保守党も歴史的転機を迎える。マルローニ首相はさらに、メキシコも加えた北米自由貿易協定(NAFTA)をも推進したが、第二次大戦以降最大の不況、世界恐慌以降最大の失業率に見舞われた。だがリバタリアニズム路線を邁進する彼は、完全雇用よりもインフレ対策を重視する高金利政策、企業優遇の税制改革を推し進め、財政赤字増大という結果を生んだ。すると彼は、さらに新しい連邦消費税GSTを導入したのであった。
 ケベックに「特別の地位」を約束した憲法改正試案ミーチレイク協定は、ケベック以外の諸州、ことに歴史的に保守党を支持してきた西部を激怒させた。西部のネオコン・グループは、西部のための新しい保守党「改革党」を結成する。いっぽうミーチレイク協定破綻に失望した党内のケベック民族主義グループは離党し、分離主義のケベック連合を旗揚げした。マルローニは西部とケベックの両方の多大な期待を背負って登板し、保守党のみならずカナダの経済政策をドラスチックに転換させたが、憲法協定で西部とケベックの両方に見放されカナダ全州の怒りをかい、経済政策にも失敗した。マルローニは総理・総裁を辞任し、初の女性首相キム・キャンベルが政権に就いたが、1993年総選挙で国民の審判に臨んだ保守党は、わずか2議席と壊滅的大敗を喫し、二度と党勢を回復することはなかった。

 (6) 党再生への苦闘
 進歩保守党は下院でわずか2議席となり、公式政党の地位を失った。西部の地盤をそっくり改革党に奪われ政権復帰は絶望的となったが、選挙公約は何とでも言える強みはあった。キャンベル党首辞任後に党首に就任したジャン・シャレーは、1997年総選挙でケベックと東部だけで20議席(西部は0)と健闘し、念願の公式政党復帰を果たす。だが進歩保守党は二度とこれ以上の議席を獲得することはなく、シャレー党首は1998年、ケベック自由党党首に移籍するため進歩保守党党首を電撃的に辞任した。
 後任党首には、引退していたジョー・クラーク元首相が就任した。39歳史上最年少で首相に就任した彼が、泡沫政党に成り下がった進歩保守党のリーダーを泥をかぶるつもりで引き受けたのは、福祉を重視するレッド・トーリズムこそが保守本流であり、自由党に代わる政権の受け皿として死守しなければならないと考えたからである。
 保守主義者や二大政党主義者は、保守政党が2つに分裂している限り自由党を倒すことはできないと考え、保守再編を切望した。改革党のマニング党首は保守系諸政党を結集させ、政権交代可能な新しい保守政党「カナダ改革保守同盟」の結成に動いたが、反福祉・市場原理主義を信奉し、宗教ファンダメンタリズムの立場から中絶や同姓婚などに否定的な同党をクラークは極右・ネオコンと見なし、これに加わらなかった。世論調査では、かつての進歩保守党の支持者は改革党よりむしろ自由党に投票していることを示しており、保守合同は自由党一党支配を確立するだけだと考えたのである。クラークは語った。「カナダが求めているのはもう一つの反対党ではなく、もう一つの政権である」。
 2001年、カナダ同盟でデイ党首への不満が噴出し、7人の議員が離党して「民主議員の会(DRC)」を結成すると、進歩保守党はこれを統一会派として取り込み勢力を19議席に拡大した。カナダ同盟は分裂のテキスト ボックス: 互いに認め合う長年のライバルだったクレチエンとクラークの二人の首相は、ともに2003年政界を引退した。クレチエンは長期政権を築いた歴史上の人物として、クラークは弱小政党が吸収されるのを阻止できなかった人物として。クラークは次の首相にふさわしい人物として自由党のマーチンの名を挙げ、ハーパー党首を「悪魔」と罵った。危機に瀕し、進歩保守党にとって絶好のチャンスと見えたが、DRCメンバーはデイ党首が辞任すれば復党すると公言しており、デイ党首辞任後、彼らは2人を除いてカナダ同盟に復党した。党再生の最後のチャンスを逃したクラークは、2002年総選挙においてオンタリオで1議席も獲得できず、党首辞任と二度目の政界引退を表明した。

 (7) 一つの時代の終焉
 後継党首に就任したピーター・マッケイは、自分が党首の間はカナダ同盟による合併を認めないと約束した。だが彼は、その年のうちにカナダ同盟との合併を決定し「カナダ保守党」が結成され、初代首相を輩出した伝統ある進歩保守党の歴史に幕を引いた。
 進歩保守党に忠誠を誓い合併に反対する一派は2004年、カナダ同盟による「保守党乗っ取り」に抗議し、進歩保守党の名称の登録を申請したが却下された。そこで彼らは“PC”の名称を残すため「進歩カナダ党(Progressive Canadian Party)」の登録を申請し、今度は認められた。だが同党は“PC”(進歩保守党)の継承団体とは認められなかったし、議員も一人もいない。
 下院ではジョー・クラーク、アンドレ・バシャン、ジョン・ヘロンが暫く「進歩保守党」議員を名乗っていた。だが2004年総選挙でクラークとバシャンは出馬せず、ヘロンは自由党から立候補して落選し、「進歩保守党」勢力は下院から一掃された。上院は75歳定年制で選挙がないため、カナダ同盟による吸収合併に反対する若干の議員が現在も「進歩保守党」の院内会派を称している。だが党が政党要件を満たしていないばかりか法的に存在しないため、問題視されている。
 連邦進歩保守党が消滅した後も、地方の進歩保守党はアルバータ州、マニトバ州、オンタリオ州、ニューブランズウィック州、ノバスコシア州、プリンスエドワード島州、ニューファンドランド&ラブラドル州に存在している。アルバータ進歩保守党は現在もアルバータ州の与党である。
 ユーコンの組織は1990年にユーコン党となった。ブリティッシュ・コロンビア進歩保守党は、1991年にブリティッシュ・コロンビア保守党に名称を変更した。サスカチュワン進歩保守党は1997年に消滅したが、若干の自由党議員とともにサスカチュワン党を結成した。

 今日のカナダ保守党は、「保守党」ないし「トーリー」の伝統とまるで合致していないにもかかわらず、「保守党」の名称と「トーリー」の愛称を継承している。歴史的にはレッド・トーリズムが進歩保守党の主流だったが、20世紀後半には国民に受け容れられなくなり、非主流だったブルー・トーリズムが現在のカナダ保守党の主流になっていることに注意されたい。

 

 

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