[15] 悲劇の外交官

   Egerton Herbert Norman(1909−1957)

 

 本当にうっとうしい日々だった。1957年4月3日、カナダの駐エジプト大使ハーバート・ノーマンは気晴らしに映画を見に行った。タイトルは「修禅寺物語」。能面師が将軍源頼家に命じられて面を打つが、何度やっても死相が漂う面になってしまう。だが待ち切れなくなった頼家は、強引に面を取り上げ、能面師の美しい娘も連れて行く。娘は田舎で黙々と仕事に励む父に理解がなく、喜んで側女となる。能面師は不出来な面を納めたことを悔やむが、その夜頼家は北条氏に襲われて死に、娘は頼家の服と面を着けて身代りに斬られる。能面師は虫の息の娘を見ながら、表情一つ変えずに「面に死相が見えたのは、技芸神の域に入ったことよ」と言い、筆を取って娘の死に行く顔を写生する。――

 映画に隠されたメッセージを、日本文化に造詣の深いノーマンは汲み取ったに違いない。「信念は死をも超越する」と。――

 

 ハーバート・ノーマンは宣教師ダニエル・ノーマンの次男として長野県軽井沢町に生まれた。長野の農民とともに少年期を過ごしたことは、ノーマンの思想に大きな影響を与えたことだろう。姉グレースは町で評判の美人で、和田登の小説「想い出のアン」のモデルになっている(アンの家はノーマンの家に酷似している)。彼女は宣教師の妻となったが、長兄ハワードも宣教師となり、父の伝記「長野のノルマン」や新渡戸稲造の伝記を書き、芥川龍之助の作品を翻訳するなど、日本文化の発展に寄与した。2人とも生涯の大部分を日本で過ごした。

 ノーマンは17歳まで神戸のカナディアン・アカデミーに通い、トロント大学、ケンブリッジ大学、ハーバード大学で学テキスト ボックス: 飯綱高原に移築されたノルマン館(長野市)。んだ後、1939年外務省に入り、翌年東京のカナダ大使館に語学官として赴任する。だが太平洋戦争が勃発すると、1942年本国へ送還された。

 日本が戦争の泥沼にはまり込む中、ノーマンの博士論文「日本における近代国家の成立」が1940年に出版される。その中で彼は、外国の脅威は、武力を主とした上からの改革による急速な近代国家成立を促したが、同時に軍国主義を生んだと述べ、軍国主義の起源を昭和だけでなく、近代国家成立の過程にある構造的なものだとする視点が、日本研究が皆無であった時代に、日本生まれの西洋人によって書かれたことは大きな反響を呼んだ。続く1943年の「日本の兵士と農民」では、市民軍として創設された欧米の軍隊に対し、日本の軍隊は海外侵略のために創設され、徴兵制によって人民を抑圧したと説いた。1945年には「日本政治の封建的背景」を発表し、日本が国粋主義に突入するうえでの右翼団体の役割について論じている。また1949年発刊の「忘れられた思想家―安藤昌益のこと」では、文字通り歴史から忘れられた思想家である安藤昌益に、元禄の泰平の世にあって身分制度を批判し、男女の愛を説き、農耕を尊び、宗教を否定した世界最初の共産主義者としてスポットを当てている。これらの著作によって、ノーマンの日本史家としての地位は不動のものとなった。

 終戦後、彼はGHQ(連合国軍総司令部)スタッフとして再来日する。彼は農地改革、財閥解体、婦人解放など民主化政策を遂行するマッカーサーを慕い、マッカーサーも日本の実情に詳しいノーマンを重用した。ノーマンはまずエマーソンとともに、共産党の志賀義雄と徳田球一、朝鮮独立運動家の金天海、天理教の指導者、反戦主義者など政治犯の釈放に当たった。またそのころ近衛文麿元首相は新憲法制定に動いていたが、ノーマンが彼の戦争責任を問うたため一転して戦犯に指名された(近衛はこれを苦に自殺)。そのほか重光葵、東郷茂徳の減刑を進言し、市川房江、河上丈太郎、犬養健の公職追放者リストからの削除に働いた。天皇制に関しては日本人の主体性を尊重すべきだとし、昭和天皇退位についても、旧軍部がGHQの言いなりになっている天皇を退け、高松宮を立てようと画策するのを危険視して反対。そして新憲法制定の2年後には、早くも極東諮問委員会主導による憲法改正の動きが起こったが、彼はこの時点での改正は尚早だとし、また外圧による改正にも反対した。

 1946年には駐日カナダ代表部主席に就任し、その3年後にはマッカーサーの推奨で特命全権公使に昇格。だが冷戦が始まると、GHQは日本を反共防波堤とする「逆コース」へと移行し、民主化政策は経済復興政策にすり換えられていった。1950年に朝鮮戦争が勃発すると、マッカーサーは公職追放令を逆用して共産党幹部を追放し、かえって保守政党を擁護する動きを見せた。そして警察予備隊の創設、500名にものぼるジャーナリストへのレッドパージと続き、ノーマンはマッカーサーから次第に距離を置くようになっていった。マッカーサーはその年「原爆使用も辞せず」の発言で解任され、ノーマンもその2ヶ月後に本国へ召喚された。

 

 だが帰国した彼を待っていたのは、RCMP(カナダ連邦警察)による審問だった。自室にフランコ将軍の肖像画を掲げていたという、GHQでも指折りの反共主義者チャールズ・ウィロビー少将はノーマンの思想を危険視し、アメリカ人でもないのにGHQで大きな顔をしていたのを目の敵にして、スパイ容疑ありとのレポートをFBIに送っていたが、グーゼンコがスパイとして名指ししたハルペリンがノーマンの友人だったことから、この偏見に満ちたレポートが日の目を見たのである。ケンブリッジ大学は共産主義の活動が盛んなところで、実はノーマンは在学中に集会に出入りし、メンバーと交際していたのだ。1951年、ケンブリッジ大学出身でイギリス外務省職員のガイ・バージェスとドナルド・マクリーンがスパイであることが発覚し、ソ連に亡命するという事件が起こると、ケンブリッジの関係者はいっせいに疑惑の目を向けられることになったのだった。

 グーゼンコ事件を契機に、このころ北米ではマッカーシー上院議員をはじめとする赤狩りの嵐が吹き荒れていた。共産主義者はソ連のスパイだという前提で次々と審問にかけられたが、それは中傷や捏造された情報に基づき、事実を歪曲し、誘導尋問を多用して追いつめるような手口だった。被審問者は共産主義者だった「罪」を告白し、別の共産主義者の名を当局に告げることで赦される(ほとんど宗教的ですらある)が、それを拒めば議会侮辱罪に問われ、地位を失ったり、自殺する者さえいたほどであった。

 4週間にも及ぶ審問をノーマンは「心理的拷問」と語ったが、スパイの証拠は見つからなかった。そして1953年彼はニュージーランド高等弁務官に任命される。事実上の左遷だった。

 

 スパイ容疑のほとぼりがさめた1956年、彼は駐エジプト大使としてカイロに赴任する。エジプトはイスラエルと敵対していたため、東側から武器を購入すると、アメリカはアスワン・ダム建設の援助を撤回した。するとナセル大統領はスエズ運河国有化を宣言し、イギリスは経済制裁でこれに応えるという、当時の中東情勢は一触即発の状態であり、友人でもあるレスター・ピアソン外相(後の首相)がノーマンの外交手腕に期待を寄せたのである。

 レバノン公使も兼務していたノーマンは、ベイルートを訪問した際、ベイルートのアメリカ大使館に勤務していたエマーソンと会っているが、ちょうどそのときイギリス・フランス・イスラエル連合軍がエジプトに侵入し、第二次中東戦争(スエズ戦争)の幕が切って落とされた。急遽開かれた国連臨時総会では、イギリスとフランスが徹底交戦を主張したが、エジプトを追いつめれば東側に傾斜するだけだというノーマンの進言を受け、ピアソンはカナダ軍を国連軍として派遣することを申し出る。イギリス連邦に属するカナダに不信感を抱くナセルを、ノーマンは根気よく説得し、国連軍の導入と連合軍の撤退を実現させた。国連軍に紛争調停という新しい役割を見出したピアソンは、翌年ノーベル平和賞を受賞する。

 だがそのころアメリカでは、エマーソンの喚問が行われていた。そこでの焦点はGHQの任務で共産党幹部を釈放したことだったが、この席で彼がノーマンと、スエズ戦争開戦直前に会っていた事実が明るみに出た。エジプトを西側から離反させる謀議だったのではないかという疑惑が浮かび上がり、ノーマンの再審問は確実となったのである。

 あの悪夢のような日々がまたやって来るのか・・・・・長時間の審問に耐え抜き、友人の名を挙げる誘惑に打ち勝つ自信はもうなかった。彼が共産党員だったという証拠は見つかっていないが、共産主義的思想を持っていたことは事実なのである。そしてマッカーシストたちにとって問題の本質は、スパイ行為そのものではなく、コミュニストであったこと自体が罪だということなのだ(英語では共産党員も共産主義者もコミュニストである)。彼らの真の目的は、ノーマンに共産主義者であることを告白させ外交官として失脚させるか、友人の名を挙げさせて人間関係を破壊し、容共主義者を見せしめにすることなのである。外交官として生き残るためには、友人を売らなければならない。だが宣教師の子としてキリスト教の教育を受けてきた彼にとって、それはユダに等しい行為だった。そして上司のピアソンは、友人として一貫してノーマンをかばい続けた。しかしノーベル賞を受賞し、将来首相の地位が望まれているピアソンにとって、もはや自分の存在は負担でしかないように思えた。つまり自分は友人のピアソンにかばわれながら、友人を売らなければならないのだ。

 映画「修禅寺物語」を見ながら、ノーマンは呆然としていたという。将軍の身代わりに斬られた娘・・・娘の命より仕事に執心した父・・・。見終わった後、彼は妻に言った。

「私は啓示を受けた。」

 翌朝彼はビルの屋上から身を投げ、自らの命を絶った。

*    *    *    *    *    *    *

 赤狩りのあまりの邪悪さに、心ある人々は反感を抱いた。1960年サンフランシスコで、市民が市会議事堂を包囲して聴聞会の開催を阻止し、赤狩りは幕を閉じる。だがカナダではイギリス連邦のスエズ運河喪失について、保守党がピアソンと自由党を批判し、政権を奪回する。ノーマンの働きは政争の具となり、彼の評価もまた歪曲されてしまったのである。彼は日本では優れた日本史家としてよく知られているが、北米では専ら彼がスパイであったかどうかがこれまで問題にされてきたのだった。

 ノーマンが生前に危険視した「逆コース」の中で、日本は未曾有の経済成長を遂げる。そして明治政府の近代化・中央集権化が今日の日本の発展を生んだとする解釈が優位となり、それに批判的なノーマンの歴史観は淘汰されていった。

 だが1979年にハリファックスでノーマンに関する学会が開催されるなど、近年ようやく彼の働きを見直す動きが現われている。日本の経済政策の見直しや、国連を通じた国際貢献が話題にされる昨今、彼の業績の再考を期待したい。

 

 

 

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