協同連邦党CCF:The Co-operative Commonwealth Federation)

 協同連邦党(CCF)新民主党(NDP)

【歴代党首】
初 代 ジェームズ・ウッズワース(1932〜1942)
第2代 メイジャー・コールドウェル(1942〜1960)
第3代 ヘイゼン・アーグ(1960〜1961)

 

 協同連邦党は1932年、社会主義者、農民、協同組合および労働組合などによってカルガリーで創設された。党の初期の下院議員の多くは、進歩党や労働党の元党員であった。初代党首にはジェームズ・ウッズワースが選出された。彼は1919年ウィニペグ・ストライキで逮捕されている。
 CCF1933年の党大会で、リジャイナ宣言を採択した。
 「CCF政権は、資本主義を根絶し、社会福祉制度を推進して協同組合主義のカナダを建設する日まで、決して休むことはない。」
 宣言は基幹産業の公有化と、普遍的健康保険制度、普遍的年金制度、児童手当、失業保険、労災補テキスト ボックス: ジェームズ・ウッズワース償など社会福祉制度の制定を謳っている。
 CCFは最初の1935年総選挙で7議席、次の1940年総選挙では8議席を獲得しまずまずのスタートを切った。だが第二次世界大戦が勃発すると、メソジスト牧師だったウッズワース党首は議会でただ一人徹底した反戦主義を貫いた。今日では賞賛されるこの行為も、当時は多くの支持者に失望を与えた。ウッズワースの死後党首に就任したコールドウェルは、一貫して戦争を支持した。
 1944年、トミー・ダグラス(女優シャーリー・ダグラスの父。シャーリーはカナダ人俳優ドナルド・サザランドの妻でキーファー・サザランドの母)はサスカチュワンCCFを率いて州議会選挙に勝利し、北米初の革新政権を樹立した。ダグラス州首相が普遍的健康保険制度をサスカチュワンに導入すると、他州もすぐに同様の制度を採用し、その後ピアソン首相によって全国的に導入されることになった。ダグラスは今日も「メディケアの父」と呼ばれ、2004CBCの「最も偉大なカナダ人」アンケートで堂々1位に輝いている。
 CCFはその後1940年総選挙で28議席、1949年総選挙で13議席、1953年総選挙で23議席、1957年総選挙で25議席と勢力を確実に拡大していったが、赤狩りの時代には共産主義と独裁主義を理由に告発された。そこで党は1956年、リジャイナ宣言を破棄してより穏健なウィニペグ宣言を採択した。だがそれにもかかわらず、CCF1958年総選挙でわずか8議席にとどまった。
 多くの議論を経てCCFとカナダ労働連盟は1961年、同性愛者の権利、環境保護、平和運動などの進歩的な問題も含め、国民に幅広く支持される社会民主主義を掲げた新党結成を決定した。CCFは解党し、新民主党が結成された。




新民主党NDP:The New Democratic Party
 協同連邦党(CCF)→新民主党(NDP)

【歴代党首】

初 代 トーマス・ダグラス(19611971
第2代 デビッド・ルイス(19711975
第3代 エドワード・ブロードベント(19751989
第4代 オードリー・マクラフリン(19891995
第5代 アレクサ・マクドーノー(19952003
第6代 ジャック・レイトン(20032011

第7代 トーマス・マルケア(2011

 NDPは、労働組合や非政府組織(NGO)と深い関係を持つ。また宗教政党ではないが、キリスト教左派や社会福音運動(特にカナダ合同教会)の支持を受けている。
 NDPの掲げる政策は、以下のようなものである。
・環境保護
・健康保険の公営維持と、歯科診療・処方薬への適用
・男女平等とセクシャルマイナリティの権利擁護
・上院廃止と、比例代表制の導入
・先住民の土地と権利擁護
・少量のマリファナ所持解禁
テキスト ボックス: トミー・ダグラス。・軍事行動より平和維持と人道援助を重視する外交政策
・北米自由貿易協定(NAFTA)見直し

 (1) 自由党少数政権に協力
 小選挙区制を採用するカナダは二大政党制と言われてきたが、実際にはいくつかの地方政党を生んでおり、社会信用党が壊滅すると「二と二分の一政党制」と言われるようになった。NDPは連邦レベルでは政権に就いたことはないが、自由党の少数政権ではしばしば大きな影響力を行使している。1972年から74年まではトルドーの自由党少数政権を支え、カナダ石油公社の創設を実現させた。ルイス党首はこの間、党内の極左グループを追放している。
 1974年、NDPは進歩保守党とともに内閣不信任案を提出し、137123で可決し解散・総選挙に追い込んだが、自由党が過半数を回復し返り討ちにあう。NDPは議席の半分を失い、ルイス党首も自身の議席を失って辞任した。

 (2) 夢の三大政党制
 NDP1980年、進歩保守党少数政権において予算を否決させ解散・総選挙に追い込み、自由党を政権に復帰させた。このときのNDPの獲得議席は32議席である。極左と訣別し普通の革新政党となったNDPは支持を広げ、1984年総選挙では進歩保守党が圧勝するいっぽうで30議席を獲得し、自由党がわずか40議席に転落したことでNDPの発言力はかえって増大した。1987年には3つの補欠選挙に全勝。1988年総選挙では米加自由貿易協定への反対票がNDPと自由党に割れたため、進歩保守党による二期連続過半数を許したが、43議席と3期連続で30議席以上を獲得し、このころになると「二と二分の一政党制」から三大政党制への移行が真剣に囁かれるようになった。
 このような状況において、議席を持つ政党では初の女性党首となるオードリー・マクラフリンが登場する。与党進歩保守党は戦後最大の不景気にあえぎ、公約としていたミーチレイク協定が暗礁に乗り上げ、支持率を大きく下げるいっぽう、NDPが支持率トップに踊り出て「北米初の革新政権」「カナダ初の女性首相」と騒がれるようになった。党首選に敗れた元BC州首相デビッド・バレットは、党はケベックより西部の疎外に気を配るべきだと警告した。だが彼女は耳を貸さず、中西部で労組と固定支持層の強い支持を受けながら、支持をさらにケベックに拡大させようと試みた。ところがケベックNDPは分離主義を採択して、連邦NDPとの関係を解消してしまう。こうしてカナダで2番目に大きい州であるケベック(25%の議席を有する)を失ったテキスト ボックス: オードリー・マクラフリン。NDPの、政権獲得の悲願は絶望的となった。ケベックNDP2002年に消滅した。
 与党進歩保守党の惨敗が予想されていた1993年総選挙では、NDPは議席の大幅増が見込まれていた。テレビの討論では三大政党党首の2人が女性(しかもともにバツイチ)となり、新しい時代の到来を予感させるに十分であった。だが蓋を開けて見ればNDPはわずか9議席と史上最低の結果に終わった。最も大きな原因は、ブリティッシュコロンビア州とオンタリオ州においてすでに実現していたNDP政権が、有権者を大きく失望させていたことだった。
 次に大きな原因は、進歩保守党を確実に政権から引きずり下ろすため、NDP支持者が自由党に投票したことだった。出口調査は、前回総選挙でNDPに投票した有権者の実に17%が、93年総選挙で自由党に投票したことを示した。進歩保守党への反感がNDPと自由党に割れ、進歩保守党を易々と勝利させた1988年総選挙の悪夢を、彼らは忘れていなかったのである。
 またNDPの地盤であった西部の支持者ですら、右翼の改革党に投票した。それは両党がともに西部を根拠地とし、ともにポピュリズム政党であることにも深く関連している。こうしてバレットの予言は、不幸にも的中したのであった。三大政党制は夢と潰え、マクラフリンは失意のうちに党首を辞任した。

 

 (3)  「第三の道」の破綻
 後継党首に就任したのは、これまた離婚歴のある女性アレクサ・マクドーノーだった。1997年総選挙でNDPは、雇用保険切り捨てに動揺した東部有権者の不満に乗じ、従来支持の弱かった東部で8議席を奪って21議席に躍進し、公認政党の地位を回復した。好調なスタートを切ったマクドーノー党首はその後、イギリスのブレア首相の成功にあやかり、「第三の道」を模索すべく党の軌道を中道に向かわせようとした。だが労働組合の抵抗に遭い、カナダ自動車労連のハーグローブ委員長は、辞任を要求さえした。このとき2名の議員がNDPを見限り、他党に移籍した。
 2000年総選挙では、新党カナダ同盟に注目が集まった。NDPの支持者はこのときも、同党の政権獲得を妨げようと戦略的に自由党に投票したため、13議席にとどまった。
 2001年ウィニペグで開催された党大会で、NDPは左翼路線を再確認した。マクドーノー党首は行きづまり、2002年家庭内の事情を理由に辞任した。

 (4) 自由党補完勢力に甘んじる
 後継党首に就任したジャック・レイトンは、それまでに3度落選していた。新しい党首が選出されたとき、議会に議席を持たないと発言できないため、鉄板選挙区の議員が辞職して補欠選挙で党首に議席を与えるのが慣例だが、レイトンは2004年まで立候補しようとはしなかった。
 2004年総選挙では、スポンサーシップ事件で与党自由党が人気を落としていた。レイトン党首は40議席以上の獲得を見込んでいたが、100万票以上得票を増やしたにもかかわらず、わずか19議席に終わった。また根拠地のサスカチュワンで1965年以来初めて議席を獲得できなかった。
 出口調査は、多くのNDP支持者が新党カナダ保守党を勝たせないため自由党に投票したことを示した。また自由党もNDP支持者の票を獲得するため、ウジャール・ドサンジ前ブリテテキスト ボックス: ジャック・レイトン。ィッシュコロンビア州首相など幾人かのNDP党員を入党させていた。
 だが自由党が過半数を獲得できなかったため、過去の自由党少数政権で見られたように、NDPは健康保険民営化反対、京都議定書の厳守など党の方針を強く主張できる立場となった。NDPは、連邦予算での譲歩の見返りに倒閣運動に組しないことを約束した。自由党も、信任投票でNDPの支持と引きかえに予算案修正を受け容れることに同意した。こうして可決された2005年の予算は、カナダ初の「NDP予算」と呼ばれた。

 

 (5) 建設的野党として
 スポンサーシップ事件に関するゴメリー報告書が公表され、自由党とクレチエン前首相の関与が指摘されると、レイトン党首はマーチン首相に対し、閣外協力を続けるには民間健康保険禁止の確約が必要だと通告した。だが首相が応じなかったため、レイトン党首は野党三党で不信任案を提出すると発表した。カナダ自動車労連とカナダ労働連盟は、自由党政権を打倒しないよう要請したが、レイトン党首はスキャンダルにまみれたマーチン政権は長続きせず、これを支え続けることは党の支持低下に繋がるとみて断固拒否した。200511月、保守党のハーパー党首が提出した不信任案に全野党が同調し可決され、解散・総選挙が実施された。
 過去の選挙では、自由党の評判がいいときには自由党が単独過半数を獲得し、自由党の評判が悪いときは議席を伸ばす絶好のチャンスだが、NDP支持者が保守党政権を阻止するため自由党に投票してしまうことが判明した。このまま自由党の影に埋没していては未来がないと考えたレイトン党首は、大胆な転換に打って出た。NDPは攻撃を自由党に集中させたのである。NDP推薦の自由党候補を支援してきたカナダ自動車労連は、NDP候補だけを支援した。そして自由党を支援したハーグローブ委員長をNDPから除名した。こうしてNDP29議席を獲得し、栄光の80年代の水準を回復したのである。なおNDP議員の41%は女性であり、これは史上最も高い割合である。
 選挙の結果は定数308議席のうち保守党124、自由党103、ケベック連合51NDP29となった。その後、自由党から保守党へ3名、保守党から自由党へ1名移籍し、2名辞職して現在は欠員2、保守党125、自由党99(議長1を除く)、ケベック連合49NDP29、無所属3となっている。議員数は議長1を除いて305、過半数は153だから、少数与党の保守党は単独で法案を可決させられないが、野党3党いずれか一つの協力で法案を可決できるため、最も魅力的な案を提示する党を選ぶことができる。いっぽう自由党は議長1名を除き、ケベック連合と無所属を加えても151にしかならないため、NDPとケベック連合が二大政党の間で重要なキャスチングボードを握っていることになるのである。
 第39回連邦議会では米加木材問題、アフガニスタン派兵延長、2006年度予算、2007年度予算の4つの信任投票があったが、NDPはその全てにおいて与党保守党に反対票を投じた唯一の党である。だが他の問題については、NDPは終始保守党と協調した。有利な立場に乗じて、自党の政策を保守党に飲ませた方が得策と考えたからである。

 (6) 地方におけるNDP
 州レベルでのNDP政権は、90年代初頭に多く成立した。ユーコンで198592年、オンタリオで199095年、ブリティッシュコロンビアで19912001年、サスカチュワンで1991〜現在と、13ある州・準州のうち4つを占めていた。それは上述したように、与党進歩保守党が支持率を大きく下げ、政界再編の序章に突入するころであり、旧二大政党に飽き足らない層がNDPに流れたものと考えられる。現トロント市長はNDPのデビッド・ミラーである。

 

 

 

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