[23] バスケットボールの父

   James A Naismith(1861−1939)

 

 オンタリオ州オルモントで3人姉弟の長男として生まれる。父ジョンは製材所を経営していたが、1870年に火災に遭い、工場も財産も全て失う。その上ジョンが腸チフスにかかり、妻マーガレットは子供たちをその母アニー・ヤングに預け、夫を看病するが、2人とも病死してしまう。祖母のアニーも1873年に亡くなり、兄弟たちは叔父のピーター・ヤングに引き取られる。

 ピーターは大変厳しく、ネイスミスは12歳のときから学校の始業前と終業後に樵の仕事を義務づけられた。オルモント高校入学後も、長男の彼は弟たちを養うため中退して働きに出る。しかしそのころクリスチャンとなり、生涯を奉仕活動に献げる決心をした彼は、復学して2年で卒業し、大学受験のためギリシア語とラテン語を独学で学ぶ。そんな彼にピーターは、長男の彼が学校に行ったら一家の収入が減るという理由で反対したが、一度決めたらてこでも動かないネイスミスは、夏休みに帰郷して働くことを条件に説き伏せ、マギル大学に奨学生として入学する。

 体育学部に入った彼はフットボール、野球、サッカー、クリケット、レスリング、体操などスポーツをこよなく愛し、ラクロスのモントリオール・シャムテキスト ボックス: ネイスミス生家の記念碑。ロックスの選手としてプレーする。4回生のときには神学も修め、上位10番以内の優秀な成績で卒業した。だが彼は、神学部の教授たちから「スポーツの悪習と手を切る」よう勧められた。当時のラクロスやラグビーは「合法的な暴力」とさえ言われるほどラフプレーが横行し、1903年にはフットボールでの死者が全米で44名にも達して、セオドア・ルーズベルト大統領が「その残虐性を解消しない限り禁止措置を取る」と声明を発表したほどだったのである。

だが、スポーツへの愛着は断ち難かった。彼は大学卒業後、全米のYMCAスタッフを養成する国際YMCAトレーニングスクール(現スプリングフィールド大学)に就職し、アシスタントディレクターとなる。

 マサチューセッツは雪深い土地柄なので、それまでこの学校では、フットボールと野球のシーズンオフには屋内で行進練習や徒手体操をしていたが、これが生徒たちにはすこぶる評判が悪かった。そのためルーサー・ギューリック博士(YMCAのシンボル赤い逆三角形の考案者)はかねてから、屋内で楽しめる新しいスポーツが必要だと考えていた。そこで彼は、その新スポーツの考案をネイスミスに命じたのである。

 ネイスミスはさっそく、生徒たちとともに新スポーツの実験に挑んだ。だが室内野球は狭すぎた。室内クリケットはお話にならなかった。室内サッカーは窓ガラスを割っただけだった。そこで彼は考えた。球技には2種類あり、小さいボールを使うものはラケットなどで打ち、大きいボールを使うものは直接手で投げる─室内はコートが狭いので@大きいボールを使うAボールを持って走らない→故にタックルはしない、以上を基本方針とした。これはラフプレーを嫌うクリスチャンの彼にとって好ましいものだった。

 用具は大きいボールのみを使うという方針が決定し、次は得点方法だった。これには子供のころに遊んだ「岩の上の鴨」がヒントになった。それは岩の上にこぶしの倍ほどの石を乗せて鴨に見たて、7.5メートルほど離れた場所から石を投げて落とし、敵は鴨をガードするという遊びである。彼はこれを、箱の中にボールを入れるゲームとして応用した。ゴールを身長より高い位置にすれば、シュートは空中で放物線を描いてなされるため、ゴールをブロックされることもなく、ラフプレーを避けられるし、またシュートは高度に技術的なものになり、力任せではなくなるのだ。

 1チームの人数は、ラクロスをモデルとしてキーパー1、ガード2、センター3、ウイング2、ホーム1の計9人とした(5人制が確立するのは1897年)。そしてセンタージャンプをフットボールから借用したが、ボールにかかわるのは2人だけで、レフェリーが投げることとした(得点後のセンタージャンプは1937年に廃止)。

 こうして彼は、ギューリック博士に命じられた期限の当日である18911221日早朝に、13の基本ルールを制定した。

 

 1.ボールはサッカーのボールを使用し、片手あるいは両手で、どの方向にパスしてもよい。

 2.ボールは片手、あるいは両手でどの方向に叩いてもよい。ただし、拳で叩くのは禁止する。

 3.プレイヤーは、ボールを保持して走ることは出来ない。また、ボールをキャッチした地点からパスをしなければならない。かなりのスピードで走っているときにボールをキャッチした場合は、もし停止しようと努力しているなら、一・二歩は許されることもある。

 4.ボールは両手で保持しなければならない。腕や体で抱えてはならない。

テキスト ボックス: バスケットボール発祥の地(スプリングフィールドのYMCA跡)。左のパネルは、ピーチ・バスケットとバスケットボールを抱えたネイスミス。 5.どのような方法であれ、相手を小突いたり、捕まえたり、押したり、つまづかせたり、叩いたりすることは許されない。この規則の第1回目の違反は、1個のファウルとする。2回違反を犯した場合は、つぎのゴールが成功するまで退場とする。もし、故意に相手を傷つけようとするようなプレイであるとみなされた場合は、ゲーム終了後まで退場とする。

 6.第2・3・4・5条で述べたことに、1回違反を犯すごとに、1個のファウルとする。

 7.両チームのどちらかが連続して3個のファウルを犯すと、その相手チームに1ゴールを与える。(連続とは、その間に相手チームがひとつもファウルをしないということである)

 8.ボールが投げられるか、あるいは叩かれてシュートされ、バスケット内に入れば、ゴール成功である。もしボールがバスケットの縁に止まったり、また、シュートをしたときに相手がバスケットを動かした場合も、ゴール成功とみなす。

 9.ボールがコート外にでた場合は、最初にコート外のボールを保持したプレイヤーが、コート内にスローインする。そのとき、ボール投入者は、5秒間だけ相手チームから妨害されずにボールを保持することが許される。もしもどちらのチームのボールとなるか判定がつかないときは、副審がそこから、まっすぐ投げ入れる。スローインの際に5秒を超えると、ボールは相手側に与えられる。もしスローインのとき、どちらかのチームがゲームを遅らせようとした場合は、副審はそのチームにファウルを宣告する。

 10.副審はプレイヤーを審判し、ファウルを記録し、連続3回のファウルがあった場合は、主審にこれを知らせる。主審は第5条によって、プレイヤーを失格させる権限を有する。

 11.主審はボール・プレイを判定し、いつボールがイン・プレイとなるか、イン・バウンズになるか、どちら側のチームに与えられるかなどを決定し、競技時間を計測する。また、ゴール成功を確認し、その数も数える。このほかに、他のゲームで主審が通常行っているような任務も務める。

 12.競技時間は15分ハーフとし、あいだに5分間のハーフタイムをおく。

 13.ゴール成功が多かった方のチームが勝者となる。もし、同点の場合は、キャプテンの同意のもとに、次のゴールが成功するまでゲームを続ける。

 

 こうしてルールが決まると、その日の朝登校した彼は、管理人に声をかけた。

「ステビンズさん、箱を2つ欲しいんですが」。

 するとステビンズは、たまたまあった口が直径38センチ程の桃の籠を2つ持ってきた。ネイスミスはそれを体育館のランニングトラックの壁面、床上から10フィート(約3.05メートル、これは今日も変わっていない)の位置に釘で固定して、生徒たちを呼んだ。

「何だい、また新スポーツかよ」。

 生徒たちはもううんざりしていた。こうしてこの日、35×55フィート(約11×17メートル)のコートで、サッカーボールを使った世界初のバスケットボールの試合が行われることになった。選手たちの中には、日本からの留学生石川源三郎もいた。

テキスト ボックス: 最初のゴール。  やってみるとこの新スポーツは生徒たちに大変好評で、ゲームは白熱した。そしてシュートが入るたびにステビンズが梯子を抱えてボールを取りに行った。バックボードはまだない(1895年に設置)。ゴールが網になり、底に穴が開けられるのも1912年のことである。また当初ドリブルはなく、パスだけのプレーなので、ボールを持ったまま途方に暮れる選手もいた。最初のバスケットボールは、ずいぶん呑気だったのだ。生徒たちは誰もこのとき、このスポーツが後に世界中で行われるようになろうとは思いもよらなかった。

 他の選手と接触してはならないと定めたにもかかわらず、プレーに熱中するあまりおびただしい数の違反が起こった。試合後彼は、ルールが咎めない限り、人はやられたらやり返すだろうと心配した。そこで1893年にファウルは相手に1点加点(ゴールは3点)すると定め、翌年には6メートル(1895年に4.5メートル)のフリースローと改定した。うまいプレーヤーなら大抵シュートを決めるので、これはラフプレーの一掃に効果を発揮した。また当初のルールでは、ボールがコート外に出たときはその後最初に保持した選手がスローインすることになっていたので、コート外ではすさまじいボール争奪戦が繰り広げられたが、1929年にボールをコート外に出したチームの相手チームがスローインすると改定された。

 生徒たちはこの新スポーツを毎日のように楽しむようになり、ある日キャプテンのフランク・メイハンが「新しいスポーツを、ネイスミスボールと名づけましょう」と提案したが、ネイスミスはこれを一笑に付す。メイハンが「バスケットボール」と提案して、これに決まった。こうして名前が決定すると、この新スポーツはまたたく間に各地に広まり、1892年4月のニューヨークタイムズで「フットボールに代わる、危険のない新スポーツ」として紹介されると、全米でバスケットボールブームがまき起こった。1893年には、サッカーボールより一周り大きいバスケットテキスト ボックス: ピーチ・バスケットとバスケットボールを抱えたネイスミス。専用ボールが製造された。そして1901年には最初の統一機関として、全米アマチュア競技連合(AAU)の中にバスケットボール委員会が設置され、初代委員長にはあのギューリック博士が就任した。

 

 その後ネイスミスは、1895年にコロラド大学のグロース医学校に入って医学士となり、1898年カンザス大学の体育学教授及びチャプレンとなる。第一次世界大戦では軍医としてヨーロッパ戦線に赴き、1916年にはメキシコとの紛争に牧師として従軍している。清貧を宗とした彼は、バスケットボールで特許を取ることを幾度となく勧められたが拒絶し、その一方では借金のため邸宅を2度も手放している。

 バスケットボールは1904年のセントルイスオリンピックで公開種目として採用されたが、1936年のベルリンオリンピックで初めてバスケットボールが公式種目となったとき、彼は始球式に招待された。参加国実に22ヶ国選手団の前に立ち、各国代表から祝福のことばを受けたとき、彼は泣いていた。逆境の多い彼の人生において、最も輝かしい瞬間であった。

 

 

 

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