[24] 平凡な女子高生がトロントをわかせた日

   Marilyn Bell(1937−  )

 

 1954年9月8日の夜、有名なアメリカの女性スイマー、フローレンス・チャドウィックが、夕闇迫る岸辺に立ち、世界初のオンタリオ湖横断に挑もうとしていた。彼女は前年、英仏海峡(33.8キロ)を14時間42分の世界記録で横断していた。ニューヨーク州ヤングスタウンから、オンタリオ州トロントのカナダナショナルエキシビジョン(CNE)までは実に52キロ。スポンサーのCNEは賞金を前払いで2,500ドル、完泳したらさらに7,500ドル支払い、共催の新聞社テレグラムは翌日の1面に彼女の偉業を独占スクープするつもりでいた。

 そこへ、3年前に英仏海峡を泳いで渡ったカナダ人、ウィニー=ローチ・リューツラーが挑戦状を叩きつけた。特ダネを独り占めされるのを恐れたライバル紙のトロント・サンが彼女を後援し、会場は異様な雰囲気に包まれた。テレグラム対サン、アメリカ対カナダ・・・決戦のときは近づいていた。たがもう一人の挑戦者、身長155センチ、体重53キロの小柄な女子高生、マリリン・ベルを知る者はなかった。

 しかし彼女は13歳にして障害児に水泳を教え、14歳でインストラクターとなり、つい2カ月前にはアトランティックシティー・マラソンスイミング(42キロ)を総合7位(女子1位)で完泳していたのである。

 湖は波が高く風が強いため、3人はすでに2日間待機していた。ところがテキスト ボックス: 決戦前の記念写真。右はベル、左はリューツラー。中央の女性はチャドウィックではない。午後1030分、チャドウィックが待ち切れずにまだ冷たい湖へ飛び込んだ。ほかの2人もあわてて水着に着替えて午後11時7分にスタート。真っ暗闇の湖の中を、3人はガイド・ボートが照らすライトに先導されて泳いだ。だがCNEに「小娘の出る幕じゃない」と言われ相手にされなかったマリリンにはスポンサーがなく、同じスイミングクラブのコーチのガス・ライダーとジョーン・クッキーが自腹でボートをチャーターしたのだった。

 暗闇の孤独の中で、国歌「オー・カナダ」を口ずさみながら懸命に泳ぐ16歳の少女に、高波が容赦なく襲いかかった。そしてスタートから6時間後、高波に襲われたチャドウィックは吐き気を催し19キロ地点でリタイア。リューツラーもその3、4時間後、暗闇の中でガイド・ボートを見失い、漁船に救助されリタイアした。

 夜が明けると、疲労で感覚が麻痺した手足にヤツメウナギが吸いつく。マリリンは泣いた。ライダーは黒板に「フローレンス脱落」「障害児たちをがっかりさせるな」と書いて励ました。

 昼過ぎには睡魔が襲う。もうろうとした意識の中で、それでもリタイアを頑強に拒む。しばしば居眠りするマリリンを見かねて、クッキーはついに服を着たまま湖に飛び込み、いっしょに泳ぎ始めた。彼女に話しかけることで、居眠りを防止するためである。

 そのころトロント市民は、新聞の号外を見て仰天する。「あと少しだ! 金と名誉が十六の少女を待っている」

一面にはそばかすだらけのマリリンの顔写真が掲載されている。きのうまでの平凡な女子高生は、今や知らぬ者はない。CNE前防波堤は30万人ものトロント市民で埋めつくされた。

 夕方にはラジオが実況中継を始める。トロントは興奮のるつぼと化していた。世界初の偉業を成し遂げるのはアメリカの有名スイマーではなく、カナダの女子高生なのだ。ある男性は、インタビューに答えてこう語った。

「私はね、もう二度と『女だてらに』なんて言いませんよ!」

 観衆が固唾を飲んで見守る中、午後8時6分ついにマリリンの左手が防波堤に触れた。ついにたどり着いたのだ。すかさずライダーが衰弱しきった彼女を抱きかかえようとすると、彼女はもうろうとした意識の中で手足をばたつかせ、彼の手を必死に拒んだ。クッキーが叫ぶ。

「マリリン、やったわ、やったのよ!」

少女はこのとき初めて自分がどこにいるのかを知ったのだった。

 

テキスト ボックス: マリリン・ベルがゴールしたオンタリオ湖畔のビュダペスト公園。 マリリンはスポンサーから1万ドルの賞金を獲得し、この年のルー・マーシュ・トロフィ(その年最も活躍したスポーツ選手に贈られる)を受賞した。マリリンは語る。

「自分にできるかどうかはわからなかったけど、フローレンス・チャドウィックにもできないと思ったわ。

私はアメリカ人より、ワン・ストロークでも先に行くって決めたの。カナダのためにって。」

 マリリンもほかの子供と同じように、オリンピックでメダルを獲ることにあこがれていた。そして彼女はコーチのライダーの気を引こうとしたが、ライダーは彼女を気にも留めなかった。マリリンには競泳の素質がなかったのだ。水泳を始めたのが9歳と遅かったし、体格も小さく、そして何より速くなかった。だが1時間経っても彼女がまだ力強い泳ぎを続けているのを見たとき、ライダーは彼女をマラソンスイマーに育てようと決心したのである。

マリリンは1955年には英仏海峡横断に挑戦する。途中潮に流され、1951年にイギリスのブレンダ・フィッシャーが残した記録(当時)12時間48分には及ばなかったものの、14時間36分、史上最年少で横断しテレグラム社から賞金1万5千ドルを獲得。さらに1956年にはブリティッシュ・コロンビア州のフワン・デ・フカ海峡(29.4キロ)を11時間35分で横断した。

 

 若くして有名になった彼女に、芸能界から誘いの声がかかったが、そばかす顔で内気で控え目な彼女は、自分がタレントに向いていないと承知していて、全て断わり、普通の女の子としてその後も学校に通った。18歳でマラソンスイムから引退し、現在はジョゼフ・ディラッシオ氏と結婚してアメリカ市民となり、4人の子の母であり、また祖母である。カナダ人はそんなマリリンを、典型的なカナダ女性のタイプと見ているようである。

 

 

 

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