[付] 栗の木は残った─「ドンネリーの郷」を訪ねて

 

 

 1993年9月、オンタリオ州ロンドンを訪ねた。そこは人口約27万人、エリー湖地区では中核となる都市で、ホテルも市バスもあるが、着いたのが金曜の夜で、インフォメーションセンターは週末は開いていないので“Donnelly Homestead”の場所を確かめることができず閉口した。何しろ日本人旅行者必携の「地球の歩き方」や「自由自在」はおろか、当地の“Let's go Ontario”にも載っていないのである。現地ルーカンへ行って土地の人に聞くしかなさそうだ。

 ルーカンのバスは行きが夜1本、帰りが朝1本あるだけという、要するにルーカンの住人が朝ロンドンに行って夜日帰りをすることが前提で、ロンドンから見たら行ったその日は帰れないのだが、電話帳で調べたら予想通り、ルーカンにはホテルもモーテルも何もなかった。観光地でも何でもない、ただの農村だから当然か。少し遠いがタクシーで行くしか方法がなかった。

 ドンネリーの屋敷は事件当日炎上し、その後誰も住んでいないはずなので、運転手に聞いてもわかるはずはないと思った。そこでとりあえず聖パトリック教会まで行き、それから地元の人にドンネリー邸跡の場所を聞こうと思い、運転手に、

「聖パトリック教会に行きたいのですが、場所を知っていますか」。

ときくと、

「結婚式でもあるのか?」

ときかれた。この日は土曜日である。

「いえ、私はその・・・日本語誌の取材なのですが」。

と答えると、

「ああ、あの辺はドンネリー一家が住んでたところだからね」。

という望外の返事が返って来た。ドンネリー一家殺害事件は、この地域では相当に知られているようである。そこで私が、

「私はそのHomesteadを探しているのですが、どこにあるのか知っていますか」。

ときくと、運転手は、

「ルーカンは狭いから、きっと探し出せるよ。今きいてみるから」。

と言って、無線で本部に連絡を取り始めた。

「・・・リッチモンド・ストリートを北に上がると、聖パトリック教会が角にある。その手前のコンセッション6が通称ローマン・ラインで、右折して真っ直ぐ行くと“Donnelly Homestead”と書いた看板が立っている・・・・・」。

という声が聞こえてきた。

テキスト ボックス: 写真1 City of London, Town of Londonを越えてルーカンに入ると、私が想像したよりずいぶん立派な聖パトリック教会(写真1)が見え、その向かいには近代的な学校があった。しかしその間のローマン・ラインはなぜか舗装されていなかった。ローマン・ラインは行けども行けども畑で、民家はほとんど見当たらない。やがて“Donnelly  Homestead”という看板が見えてきた(写真2)。ツアーの連絡先も書いてあるが、ガイドブックにも載っていないこんな(へん)()なところで、ツアーなどする人などいるのだろうか。

 

図1

 

写真2

 

 

 

 看板奥の今建っている家は新しく見えるが、二つ見える屋根のうち奥の屋敷は事件の翌年ウイリアム・パトリック・ロバートの三兄弟が建てた家で、手前の屋根の屋敷は後に増築されたものである(写真2)。階段を降りてくる人がこの家の主人で、私たちのタクシーが進入して来たのを見て出て来られたのだ。この主人はロバート・ソルツ氏といい、1988年にわざわざこのいわくつきの土地を買い取って養蜂を営んでいる。その名も“Donnelly Homestead Honeyfrom the Roman Line”(図1)。かつてドンネリー一家が暮らした、血塗られた舞台であるローマン・ラインを商標に使っていることは感慨深いものがある。

 

Birds don't sing and men don't smile,                          ローマン・ラインでは

Out on the Roman Line.                                                 鳥は鳴かず人の笑顔も絶える

Their faces grim and so they'll be,                                その時が過ぎるまで

Until the end of time.                                                      人々の顔はこわばる

For the midnight hour brings alarm,                            真夜中のその時が来ると

And horses won't pass the Donnelly farm,                  馬はドンネリーの畑を避けて通る

Stay off that road or you'll come to harm,                    ローマン・ラインから出て行かないと

Out on the Roman Line.                                                 怖い目に遭っても知らないよ

                                                                                                                                     (ルーカンの民謡)

 

この土地は事件後、五男マイケルの息子ジェームズ=マイケルの所有となり、彼の死後人手に渡るが、家畜がドンネリーの畑を通るのをいやがるとか、命日の2月4日にドンネリーの敷地に入ると死ぬとか、ドンネリー邸で首のない馬が駆け回るのを見たとかいう風説が後を絶たなかった。

ソルツ氏は私を敷地内に案内してくれた。何でもこの地を世界中から人々が訪れて来るのだそうである。そんなまさか・・・と思っていたら、本当に車が1台やって来て、写真を撮って行った。以前とある人物が、事件当時から残る唯一の遺構である納屋でわざわざ一夜を過ごしたが、夜中に奇妙な足音を聞いたとか、胸の上に何かが乗っているような重苦しさを感じたとか語ったそうである。ソルツ氏がいたずら好きでないことを願うばかりである。ちなみに日本人の訪問者は初めてだそうで、この事件を日本語で報道したのは私が最初になるのだろうか。

テキスト ボックス: 写真3:再建されたドンネリー邸。左はロバート、右は養子ジェームズ=マイケル(1901年頃)。 一家皆殺しなど特別珍しいこともないのだろうが、これだけ狭い村で村人たちが互いに反目し合い、殺人にまで発展したこと、また目撃者がいるのに容疑者が全員無罪になったことなどは、法学的見地からも貴重な例だと言えよう。1954年にトーマス・ケリーの小説“The Black Donnellys”が出版されると、忘れられていたこの事件は再び脚光を浴びるようになり、何度か芝居として上演されるたびに尾ひれがつき、「伝説」が形作られていったのだろう。

 ドンネリー一家が実際に住んだ母屋の跡には、ウイリアムがその場所に何も建てず、そっとしておきたいとの希望により、母屋の跡を示す4個の石を埋め(写真4のABC)、4人の犠牲者を記念する4本の栗の木を植えた。そのうち2本は現存している(Bの上とCの左)。

 

オコナーの証言によると事件当夜、自警団リーダーのジェームズ・キャロルが一人でドンネリー邸を訪れ、トーマスを逮捕すると宣告した。オコナーと同じ部屋で寝ていたジェームズSr.は、起きてコートを探したが、オコナーはそれを枕にしていたことに気づき「ぼくの頭の下にある」と言ってコートを渡した。このときテキスト ボックス: 写真4キャロルは玄関にいて、灯を持っていたのではっきり彼と認識できたと後に証言している。キャロルはトーマスのいる台所に進入したので、ジェームズSr.が「トム、手錠をかけられたのか?」ときくと、トーマスは「やられたよ」と答えた。トーマスが「逮捕状を読めよ」と言うと、そのとき伏せていた残りのメンバーがいっせいに屋敷内に踏み込み、ジェームズSr.とジョハンナを棒で殴りつけた。彼らは顔を布で覆い、何人かは顔を黒く塗っており、女性の服装をしている者が一人いたとオコナーは証言している。伝承ではジェームズSr.は首を刎ねられ目玉をえぐられ、ジョハンナは熱した鉄の棒で串刺しにされ頭皮をはがれ、トーマスは首を刎ねられたというが、犯人以外目撃者がなく到底事実とは思えない。オコナーはブリジットが台所から居間を通って階段に向かって逃げるのを見て、自分も2階に逃げようと部屋から居間に出たが、居間には誰もいなかったという。彼は階段を駆け上がったが、ブリジットがドアを閉めてしまったため再びジェームズSr.の部屋に戻り、ベッドの下に隠れ、前方に籠を置いて身を隠した。それからトーマスが台所から居間を通って外に逃げたが、犯人は追いついて棒で叩き、家の中に引きずり戻した。オコナーはそのとき手錠らしき金属音と、トーマスのうめき声、そして誰かが「鋤で脳天かち割ったれ!」と言って3・4回殴る音を聞いた。「蝋燭を持って来い」という声がすると、蝋燭の灯がついて、トーマスのそばにジョン・パーテルとトーマス・ライダーがいるのをオコナーは「見た」と一審で証言している。誰かが「女の子はどうした」と言うと、犯人の数名が2階に上がって行き、そして戻って来て「大丈夫だ」と言った。2階から音は聞こえなかったという。犯人たちはそれから油をまき、屋敷に火を放った。オコナーはベッドの下から出て、裏口から脱出しようとしたが、ジョハンナの体につまずいたこと、そのときトーマスの体とそばにある「犬の頭部のようなもの」を見たこと、二人はまだ息をしていたことを後に証言した。

犯人にとって、オコナーの存在は想定外だった。彼は唯一の目撃者であり、検察側は彼の証言に全面的に依存したが、ベッドの下に隠れた彼テキスト ボックス: 図2 ドンネリー邸間取り図。
4:トーマス・ドンネリーの遺体発見場所。
6:納屋(現存)。
10:ジョニー・オコナーが事件後に逃げ込んだパトリック・ファーレン邸。
の視野は狭く、また意識が混乱した13歳の少年の証言は、その信憑性が問われることになった。彼の証言によれば、彼は犯人がブリジットを1階に連れて来るのを見ていないので、犯行は2階で行われたとも考えられるが、彼女の遺体が1階で発見されているのは、火災で天井が崩壊したからか、それとも単に1階に連れて来るのを見なかっただけなのか。また自警団が犯行の前に、ドンネリー一家と親しかったジェームズ・フィーヘリーを偵察のため訪問させているのは、目撃者がいると困るので家族以外の者がいないか確認したのだが、フィーヘリーはジョンがいたと報告している。運命のいたずらと言うべきか、その日ジョンは実際に家にいたのである。だがジョンはその夜ウイリアム邸に泊まったため、彼がウイリアムと誤認され殺されたことでウイリアムが命拾いした以上は、自警団はウイリアム邸にジョンがいることを知らないはずだから、彼らはドンネリー邸にいるもう一人を探さなければならないはずである。コートに関するオコナーとジェームズSr.の会話も、部屋の位置からしてキャロルには聞こえたはずだし、邸内におおぜいの暴徒がいたのに、オコナーが居間に二度出たのを誰も見ていないのは、いかに殺人に熱中していたとはいえ不自然であろう。犯人が「女の子はどうした」と言うところをみると、ブリジットが2階に上がるのを誰も見なかったのは本当のようだ。裁判で「なぜより近い玄関から逃げず、裏口から逃げたのか」ときかれたオコナーは、「玄関にはトーマスの死体があるとわかっていたから」と答えている。

限られた視野しかないにもかかわらず、オコナーが事件の詳細を知っているのは音を聞いていたからなのだが、彼が証言した「手錠」「棒」「鋤」などの物証は押収されず、彼はこれらを本当に見たのか聞いただけなのか本人さえわからず、証言は二転三転し、また彼の証言を裏付ける別の証言もなかった。彼は、トーマスが台所から外に逃げたのは足を見てわかったと言い、ジョン・パーテルとトーマス・ライダーがいるのを「見た」と一審で証言したが、後に声でわかったと供述を翻した。幼い彼には見たことと聞いたことの区別がつかず、また人から聞いた噂や報道に幻惑された可能性を否定できない。このように謎が多いオコナー証言は、これを創作だと結論づければ全ての矛盾は解決することになる。なおキャロルが事件直前に警官から手錠を借りたことについては、これを裏付ける証言が取れている。

コノリー神父は対立を激化させた決定的な役割を演じたが、喚問すれば暴動が起きかねず、検察はこれを断念した。また検察はロンドンでは公正な審理ができないとして会場の変更を要請したが、裁判官に拒否された。これは自由党のオリバー・モワット司法長官の意向であった。彼は有権者にアイリッシュ・カトリックの敵と見なされるのを恐れたのである。

ホワイトボーイズには「プロテスタントやオレンジ党員が我々のメンバーを告訴した場合、絶対に証言を拒否する」という掟があった。事実、証言したオコナーは屋敷に放火されている。マーガレット・トンプソンの母メアリは法廷で、事件のあった時刻にキャロルは自分の家にいたと証言した(実は夫も息子も犯行に加わっていた)。

裁判は、一審では陪審員7名が有罪、4名が無罪、1名が保留で評決不能となり、二審ではキャロルに無罪判決が出たことで、ほかの5人も不起訴となり釈放された。こうして事件は、法的には迷宮入りとなった。自警団の何人かは後年犯行を告白しており、被害者が自警団によって殺害されたことは今日疑いの余地がないが、犯行に加担した正確な人数や、オコナー証言の真偽など、事件はいまだ謎が多い。オコナーの母メアリは、唯一の目撃者である息子を証言させる見返りに金品を司法長官に要求し、裁判で「なぜ司法長官のオフィスに行ったのですか」と尋問されると「司法長官のオフィスはどんなものか見たかった」と答え、失笑を買った。

 

 ドンネリー旧居を出て私は、聖パトリック教会に向かった。ドンネリー一家の墓碑は初めロバートの注文で1889年に作られ、犠牲者の名の後に「殺害された」という文字が刻まれていたが、オーロ・ミラーの「ドンネリー一家死すべし」が1964年に出版されると、興味本位の観光客が多いときには週に1500人近くも押し寄せて墓碑の一部を持ち帰ったりしたので、次男ウイリアムの娘ノラ・ロードによっていずこかに撤去され、本人が黙秘しているため所在は今もって不明である。現在あるのは教会が新しく設置したもので、表面(写真左)には事件の犠牲者の名前、裏面(写真右)にはその他の家族の名前が刻まれており、「殺害された」という挑戦的な文字はない。なおミラーの著書には「パトリックだけが両親の墓に入らなかった」と書かれているが、この墓碑にはパトリックとロバートの名がない。新しい墓石も四隅が幾分削られており、また墓石の上にコインを供えて願をかける人があとを立たない。墓碑(裏面)の向こうに見えるのは学校である。

 


 ウイリアムは足が変形していたにもかかわらず、飛び蹴りは一発必中だったという。差別されていたブラックフットの一家における、障害を持った彼の誕生は、周囲にどのような影響を与えたのだろうか。ミラーは、抗争が始まって終わった時期が、ウイリアムの生没年とほぼ一致していると指摘している。狭い村社会の構造が、外の世界とどんなに異質であったかということを、19世紀末に近代化の波が押し寄せ、車でロンドンに通うようになったとき、人々は知ったのだろうか。かつてウイリアムとマーガレット・トンプソンが通った学校も、聖パトリック教会も、名前はそのままに、しかし建物は近代化されて、昔の出来事など忘れたかのように映っていた。別の時代に生まれていたら、二人は結ばれていたのかもしれない・・・そんな思いに(ふけ)っていると、教会の扉が開けられ、礼服を着た人々が現われた。そう、この日聖パトリック教会で結婚式が挙げられたのである。

 

Special thanks to Mr. Robert Salts, who lives in Donnelly Homestead, invited me into the property, and gave me permission of using several photos from his collection.

 

 

 

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