[19] 荒城と実在しなかったモンスター 〜ネス湖〜

 

 

 

 ネス湖と言えばかのネッシーで有名だが、565年にアダムセンが書いた「聖コロンバの生涯」で、聖コロンバがネス川(ネス湖ではない)の怪獣を静めたというのが最も古い記録である。ネッシー目撃が話題にのぼるようになるのは、もっぱらネス湖周辺に国道が敷かれカメラが普及するようになった20世紀中頃からであり、その間1400年、ネッシーは全く目撃されていなかったことになる。

 1934年4月1日に撮影された有名な「外科医の写真」(写真43)について、公表した医師ケネス・ウィルソン氏の知人クリスチャン・スパーリング氏が死亡直前、ネス湖研究家2人に対し「『外科医の写真』は、自分が義父のママドゥーク・ウェザラル(ネッシーの足跡を偽造した人物)に頼まれておもちゃの潜水艦を改造したものだ。エイプリル・フールの冗談テキスト ボックス: 写真43 公表された「外科医の写真」。のつもりが、大騒ぎになってしまい60年も言い出せなかった」と告白したと、サンデー・テレグラフ紙が1994年に報道し、ネッシー騒動は幕を引いた。だが実はそれ以前に、スチュアート・キャンベル氏がこのオリジナル写真(写真44)を入手していたが、そこにはネス湖の対岸が写っていた。公表された写真は、中心部を切り抜いていたのである。分析の結果、写真のネッシーの大きさは数十センチに過ぎないことが暴露され、人々はとっくの昔にこの写真が贋作だと知っていたのである。だが「1枚のテキスト ボックス: 写真44 「外科医の写真」のオリジナル。写真が偽者だからといってネッシーが実在しないことにはならない」と言って、ある種の人々はネッシーの存在を主張し続けた。ネッシーはハイランド地方の観光の目玉だったからである。

 今日もネス湖周辺にはいくつかのネッシー博物館があり、巨大なネッシー像が観光客を迎え入れている。実にうらさびしい。

 

 アーカート城(写真45)は背後にネス湖を控え、山側には空堀がある自然の要塞で、ネス湖を行き来する船を監視するには絶好の位置を占めている。

 ハイランドの反乱を鎮圧したアレクサンダー二世から1228年、腹心のダーワード一族はアーカート周辺を領地として与えられ、アーカート城を築いた。1296年イングランド王エドワード一世がアーカート城を攻略するが、翌年サー・アレクサンダー・フォーブズが奪還する。1303年にはエドワードが再び城を攻略したが、スターリング橋の戦いでスコットランドが勝利すると、再びスコットランドの手に落ちる。1303年にはまたもやエドワードが城を攻略するが、1308年ロバート一世によってスコテキスト ボックス: 写真45 アーカート城。ットランドに奪還された。

 アーカート城は14世紀後半からは、ハイランド西部に勢力を張り「島々の君主」を称したマクドナルド一族と、統一を進めようとするスコットランド王家の抗争の舞台となった。マクドナルド一族はイングランドと同盟し、1545年の「大襲撃」まで実に150年もの間抗争を繰り広げるが、これも「大襲撃」を最後に終わりを告げる。1644年最後の城の住人となったメアリ・グラント夫人がプロテスタントによって追放されると、城は急速に荒廃した。後に城を修復しグラント・タワーを建てたグラント一族は、17世紀のジャコバイトの攻撃から城を守りぬいたが、ジャコバイトの手に落ちるのを恐れ1692年に城を爆破し、再建されることなく今日も廃墟のまま残っている。地元の人々は城の石材を持ち去り、家を建てる資材に使ったという。城はその後もグラント家の所有であり続けたが、1913年に国に移管され、現在はヒストリック・スコットランドが管理している。

 歴史の激動の中で爆破されたという悲劇性に加え、湖畔のうらさびしい風景と荒城のコントラストが何とも言えぬ風情をかもし出している。決して再建されることはないが、貴重な観光資源が朽ちることのないよう、ところどころ修復はされている。

 廃墟のまま存在し続ける城跡と、虚構を暴露されても存在し続ける博物館。つわものどもが夢の跡、ネス湖はなぜこうも物悲しいのであろうか。

 

 

 

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