自由党Liberal Party of Canada/Parti libéral du Canada)

 

【歴代党首】*は首相、Aはアングロフォン、Fはフランコフォン
初 代 *アレクサンダー・マッケンジー(A)(1873年3月〜1880年4月)
第2代 エドワード・ブレイク(A)(1880年5月〜1887年6月)
第3代 *ウィルフリッド・ローリエ(F)(1887年6月〜1919年2月)
第4代 *マッケンジー・キング(A)(1919年8月〜1948年8月)
第5代 *ルイ・サンローラン(F)(1948年8月〜1958年1月)
第6代 *レスター・ピアソン(A)(1958年1月〜1968年4月)
第7代 *ピエール・トルドー(F)(1968年4月〜
テキスト ボックス: 自由党の歴代首相。左からアレクサンダー・マッケンジー、ウィルフリッド・ローリエ、マッケンジー・キング、ルイ・サンローラン、レスター・ピアソン、ピエール・トルドー、ジョン・ターナー、ジャン・クレチエン、ポール・マーチン。1984年6月)
第8代 *ジョン・ターナー(A)(1984年6月〜1990年6月)
第9代 *ジャン・クレチエン(F)(1990年6月〜2003年11月)
第10代 *ポール・マーチン(A)(2003年11月〜2006年3月)
第11代 ステファン・ディオン(F)(2006年12月〜2008年12月)
第12代 マイケル・イグナティエフ(A)(2009年5月〜2011年5月)

 

 

「グリッツ」の愛称で知られる自由党は、現存するカナダ最古の政党である。“Natural governing party”(常時与党)と呼ばれ、20世紀100年間のうち69年間にわたり政権を担当したのは、日本の自由民主党などを凌ぎ、先進国で最も長い政権である。

 一般的には中道左派政党と見られているが、そのスタイルは「左で選挙を戦い、右で統治する」と言われてきた。歴代党首は右派と左派が交互に就き、またアングロフォンとフランコフォンが交互に就くというジンクスがある。

 

 (1) 改革党とルージュ党

 19世紀のアッパー・カナダ(現オンタリオ)には、アラン・マクナブの保守派、ジョン・マクドナルドの穏健保守派、ロバート・ボールドウィンの改革党があった。ローワー・カナダ(現ケベック)にはルイ=イポリット・ラフォンテーヌの穏健改革派「ブルー党」、アントワーヌ=エメ・ドリオンの急進改革派「ルージュ党」の各勢力があった。
 責任政府の構築を主張した改革党は、党議拘束がなく、独立した議員たちの緩やかな連携であった。改革党は1849年、ボールドウィン=ラフォンテーヌ連合政権を築いたが、改革が遅々として進まないことに業をにやした急進改革派は、自らを「クリア・グリッツ」と称し、1851年政権を転覆させた。
 「クリア・グリッツ」の名は、デビッド・クリスティが自分たちのモットーを、煉瓦を作るときの注意点“All sand and no dirt; clear grit all the way through.”(全てを土砂に、埃なく、徹底的に純化せよ)に喩えたことに由来している。“sand”は「勇気」を、“dirt”は「腐敗」を、“grit”は「気骨」を表している。クリア・グリッツは普通選挙、人口に比例した代表、政教分離、小さな政府、アメリカとの自由貿易、「フランス系支配」の終焉を主張し、新聞社「トロント・グローブ」の社主ジョージ・ブラウンを盟主とした。
 ボールドウィンやラフォンテーヌら改革党穏健派はマクドナルド一派に合流し(後に保守党を結成)、改革党左派はクリア・グリッツと連携し、改革党は消滅した。そして旧改革党左派とクリア・グリッツは1857年、アッパー・カナダで自由党を結成する。これは今日のオンタリオ自由党の前身である。
 ローワー・カナダで共和主義、反教権主義を主張していたルージュ党は、それ以前に議会でクリア・グリッツと連携していたが、ルージュ党と大西洋諸州の自由党が後に加わり、1861年今日の(連邦)カナダ自由党が結成された。緩やかな連携のため党首は置かず、ジョージ・ブラウンが事実上のリーダーであった。

 (2) 保守党黄金時代
 カナダ連邦が結成されて最初に政権に就いたのは、穏健なポリシーを掲げ諸派を結集したマクドナルドだった。彼の保守党は連邦結成から29年間、5年を除き一貫して政権を担当した。
 パシフィック・スキャンダル発覚によりマクドナルド内閣が総辞職すると、総督ダフェリン卿は自由党の誰かに組閣を命じようと考えたが、自由党には党首が存在せず、事実上のリーダーのブラウンは落選していた。組閣の大命は3人に断られた後、4人目のマッケンジーがようやく受諾し、最初の自由党政権を築いた。彼はブラウンの傀儡と見られていたが、正式に自由党党首に就任し、翌年解散・総選挙に打って出て勝利して、本格政権を築いた。マッケンジー政権は1878年総選挙に敗れ、自由党はその後18年を野党として過ごした。

 

 (3) 万年与党への道
 保守党は1885年のルイ・リエル処刑と、カトリック系私立校への助成が問題になったマニトバ学校問題で、フランス系の支持を失ったが、自由党はフランス系のローリエを党首とし、フランス系カナダ人の保守党への敵意を吸収した。また自由党は、党員による党大会をいち早く1893年に開催し、党運営を民主化することで民衆の支持を得た。二大政党のもう一方である保守党が初めて党大会を開催したのは1927年であり、30年近く早いことになる。さらに1917年、ケベックでの徴兵反対デモで死者が出た徴兵危機により、保守党はケベックから閉め出される。その後1958年総選挙を除き70年近く、人口と議席の4分の1を有するケベックは自由党を支え、万年与党体制を築くのである。
 保守党のマクドナルドが「ナショナル・ポリシー」を掲げて保護貿易を主張したのに対し、自由党は結成当初はアメリカとの自由貿易推進派であった。西部の農民はカナダ中部から地理的に遠いため、アメリカとの自由貿易を支持したが、増加するいっぽうの移民が西部に入植し、西部の農民が増えることで、自由党はさらなる支持の拡大を期待できた。ローリエはサスカチュワン州とアルバータ州を新設し、「20世紀はカナダの世紀」と豪語したが、米加自由貿易を公約に掲げた1911年総選挙で敗北し、保守党に政権を譲った。
 自由党はこの後自由貿易主義を放棄し、西部の農民が進歩党、連邦協同党、社会信用党などの第三政党を連邦議会に送り込むようになると、自由党は西部での支持を失っていくことになる。

 (4) カナダ・アイデンティティ構築とケベック喪失
 自由党は第二次大戦後、今日に続く社会保険システムを導入した。キング首相は児童手当と老齢年金を創設した。ピアソン首相は国民健康保険「メディケア」、カナダ年金プランを創設した。
 またピアソンはメープルリーフの新国旗を制定し、公用語に関する王立委員会を設置して後の二言語主義への道を拓いた。英仏二か国語が正式に公用語になるのはトルドー政権下だが、これはフランス系カナダ人が、自分たちの言語を失うことなくカナダのどこででも生活できることを可能にすることであり、トルドーは加熱するケベック独立運動への対処として実施したのである。また彼の二言語主義・多文化主義は、移民の増加にともない自由党の支持を拡大したと考えられている。
 トルドー首相の功績には、国歌制定と、1982年憲法制定が挙げられる。だがケベックは、トルドーがケベック独立を否定し、ケベック民族主義をカナダに内包しようとする彼の意図を正確に読み取り、憲法の批准を拒否した。それまでケベックは、自由党にとっての金城湯池だったが、自由党はそれ以来ケベックで一度も第一党になっていない。
 トルドーはアメリカとの自由貿易を否定し、アメリカ資本への従属を阻止するためカナダ経済を囲い込む政策を採ったが、西部諸州は遠い中部と取引するよりアメリカ西部と取引する方が有利だったので、西部では不評だった。また第二次オイルショックを受けた、石油利潤を各州に再分配する「国家エネルギー計画」の導入は、西部を激怒させ「西部の疎外」を生んだ。アルバータ州は国家エネルギー計画によって、500億ドル以上の歳入を失ったと考えられている。だがトルドー政権は中西部に議席がなく、自由党の地盤にならないことがわかっていたため、彼らがどんなに嫌がる政策でも痛みを伴わず実行できたのである。
 ケベックと西部の両方の恨みを買った自由党は、1984年総選挙で大敗した。1988年総選挙は、与党進歩保守党が北米自由貿易協定(NAFTA)を提唱し、自由党がこれに反対して、両党の伝統的立ち位置が完全に入れ替わった。クレチエン党首は、GST廃止と北米自由貿易協定見直しを公約したが、1993年に政権を奪回すると、どちらも容認した。

 

 (5) カナダ政界地図一変
 ケベックでは、分離主義の新党ケベック連合が台頭し、第一党となった。自由党はもはやケベックで圧倒的な支持を期待できなくなったが、オンタリオと東部で圧倒的な支持を受けた。改革党はあまりにも右翼寄りだったため、オンタリオと東部の進歩保守党支持者は、自由党に投票したからである。そして改革党はマニトバ以西でしか議席を獲得できず、自由党に取って代われる党とは見なされなかった。進歩保守党の壊滅により、自由党は今や唯一の全国政党であった。
 政権交代の緊張感を欠いたまま、自由党は12年の長期一党支配体制を確立したが、その間に政治は腐敗を進めていた。1995年のケベック独立を問う住民投票で、自由党が広告代金を広告会社に支払い、その一部を政治献金としてキックバックを受けたという「スポンサーシップ事件」が発覚したのである。そしてポール・マーチンはこれを、クレチエン追い落としに利用した。マーチンは総理・総裁に就任すると、クレチエン派を徹底的に冷遇し、自由党内には大きな亀裂が入ることになった。

 (6) 一党支配体制の終焉
 カナダ同盟と進歩保守党は2003年、ついに悲願の保守合同を実現した。2004年総選挙でカナダ保守党は、進歩保守党が失ったと見られていたオンタリオと東部で議席を回復し、自由党を過半数割れに追い込んだ。
 200511月の、スポンサーシップ事件に関するゴメリー報告は、クレチエン前首相に責任があるとする内容で、これを境に自由党に支持率は降下した。2006年総選挙では、保守党は自由党の腐敗を糾弾するものと予想されたが、消費税減税・犯罪の厳罰化などを粛々と訴え、クリーンな選挙に徹した。いっぽう自由党は、旧態依然とした保守党へのネガティブキャンペーンが世論の不評を買った。こうして自由党は2006年、ついに政権を失い、12年の一党支配体制に幕を引いた。2008年総選挙でも、史上最低の得票率で敗北した。
 だが自由党は、ケベックでケベック連合に次ぐ第2党の地位を保持した。オンタリオでも5回連続第一党となり、保守党政権に過半数を許さず、老舗政党の底力を見せている。
テキスト ボックス: 「自由党負け犬の殿堂」。歴代党首の中で唯一首相になれなかったブレイクと、3か月で退陣したターナー元首相から「誰だお前?」と言われるディオン党首。 トロント周辺の市外局番905エリアは無党派層が多く、この地域を制した者が選挙を制すると言われている。自由党は、1979年と1984年総選挙ではこの地域から完全に閉め出されたが、近年の選挙ではその多くを確保することに成功している。

 (7) 地方の自由党
 自由党は他のどの党とも異なり、地方組織が全ての州とユーコン準州に存在する。ノースウェスト準州とヌナブート準州には政党はなく、超然内閣を組織する。だが4大州のうちケベック・ブリティッシュコロンビア・アルバータの自由党は、連邦自由党との提携関係を解消している。前者2つは、現在与党である。
 ケベック自由党は、連邦結成以来連邦自由党と提携していた。だが1940年代、連邦自由党が徴兵を実施しようとしてケベックで不評を買い、ケベック自由党は1944年州議会選挙に敗れた。長い野党暮らしの中で1955年、ケベック自由党は連邦自由党との提携関係を解消した。連邦のピエール・トルドー首相とケベックのロベール・ブラサ首相は、ともに自由党だったが、関係は冷え切っていた。
 ブリティッシュコロンビア自由党は、1987年に連邦自由党との提携関係を解消した。

 

 

inserted by FC2 system