口之津歴史紀行 〜長崎県南高来郡口之津町〜
(ふれいざー2003年10月号掲載)
長崎県口之津町は、記録に残るカナダ最初の日系移民、永野万蔵の出身地である。筆者はこの夏、この地の史跡を巡る旅に出た。
(1) キリシタン文化、花開く
島原半島は山がちで耕地に乏しく、地味もやせて貧しい土地柄である。この地の領主有馬義直は、貿易で利益を得るため、また龍造寺氏の軍事的脅威に対しポルトガルの援助を受けるため、1562年に口之津港を開き、宣教師を招いた。翌年宣教師アルメイダが口之津に入り布教を始め、1565年にはトレイス神父が口之津の大泊に「岬の聖母の教会」を建てて、口之津を日本布教の本拠地とする。1567年からはポルトガルの定期船が来港するようになり、口之津の隣村加津佐にセミナリヨ(中学校)とコレジヨ(大学)が設置されると、日本の若者がここでラテン語・西洋美術・医学を学んだ。1591年に加津佐コレジヨで印刷された「サントスの御作業の内抜き書」は、日本最初の活版印刷物である。こうして、この地方は日本の西洋文化の中心として黄金期を迎えた。
有馬義直は1576年キリシタンに改宗したが、家臣もみなこれに従い改宗し、やがて口之津の全人口1200人がことごとくキリシタンとなって、以後仏教寺院の破却が行われるようになった。
(2) 島原の乱:口之津、無人の野となる
戦国の世は終わり、泰平の世を迎えると、1613年に禁教令が出され、キリシタンは迫害の時代を迎える。1616年には南蛮船入港が平戸と長崎に制限され、口之津は貿易の利を失った。
1634年より、島原・天草両地方には凶作が続いた。翌年九州地方に大風があり、さらに1636年には旱魃があり多くの餓死者が出た。ところが幕府は大名統制のため参勤交代・公儀普請など大名に課役を強いたため、海外貿易も途絶え農民からの徴税以外に収入がない藩主松倉重政は、過酷な税負担を課した。彼は貧しいこの地に不相応な5層の天守閣を持つ島原城を建設し、キリシタンを残酷に処刑した。
このような状況で起こった島原の乱では、口之津と加津佐の住民全員が一揆に参加し、原城に立て篭もった。その人数は、「島原一揆松倉記」によると「口之津加津佐両村 人数2949人」である。一揆に参加した者は全員玉砕し(これには異説がある)、口之津は無人の野となった。現在口之津に住んでいるのは、乱の後小豆島などから強制的に移住させられた人たちの子孫である。
(3) 裏切り者のユダ:山田右衛門作
原城の大殺戮から、ただ一人生還した者がいる。口之津の絵師、山田右衛門作である。彼は有馬家の家臣だったが、主家の日向転封に随行せず、この地に留まり浪人となっていた。耶蘇天誅記によると、彼は一揆勢に妻子を人質に取られ、有無を言わさず一揆に加担させられたのだという。
右衛門作は日本最初の南蛮絵師であり、世界三大聖旗の一つである「天草四郎陣中旗」は、彼の作といわれている。彼は一揆勢の幹部として、篭城中は幕府軍と矢文で交渉していた。ところが「天草四郎は霊験高く、彼のそばにいれば弾丸に当たらない」と信じられていたのが、近習の者が流れ弾に当たって死亡すると、右衛門作は四郎の霊性に疑いを持つようになり、幕府軍にいたかつての上司有馬左衛門助と密かに内通するようになった。右衛門作は牢に押し込められ、妻子は殺害されたが、このような事情で彼だけが命を長らえたのだった。大石内蔵助は討ち入り参加者の一人寺坂吉右衛門を逃し、後世に実情を伝えさせているが、右衛門作が生き長らえ、自白調書「山田右衛門作口書写」を残したことによって原城の内部事情が後世に伝えられることになったのである。
好きな絵を描くためただ一人生き残った右衛門作は、松平信綱の命で江戸に上り、キリシタン目明かしになるよう命じられた。裏切り者の彼に与えられた任務は、キリシタンを摘発することだったのである。
幕府に徹底的に利用された右衛門作は、ある日突然キリシタン信仰に立ち帰り、布教活動を始めて投獄された。彼のその後の消息は、わかっていない。
口之津町の東大屋名には、彼の屋敷跡がある(写真1)。
(4) カナダ最初の日系移民:永野万蔵
1977年、バンクーバーでカナダ移民百年祭が行われた。この年は永野万蔵が、日本人として初めてカナダに移民して百年目に当たる年だったのである。
永野万蔵は1853年、長崎県口之津町西大泊(写真2)で永野喜平の四男として生まれた。初め大工見習をしていたが、船の修理をするうち海外へ行きたくなり、イギリスの石炭運搬船で働き、船上で英語を覚え、海外移住が自由化される以前の1877年、カナダのニューウェストミンスター到着後に脱走して密入国を果たす。
ブリティッシュ・コロンビアに居を構えた万蔵は、イタリア人ガエターナ・ポルコと組んでフレイザー川の鮭漁に従事した。その後、日本からの移民が増加すると万蔵はホテルを建て、新移住者の面倒を見るようになり、日系社会の先達として慕われるようになる。海外初の銭湯を開いたのも万蔵である。
ジャック・ナガノと名乗った彼は、1892年にビクトリアへ移るが、白人漁師が価値のないものとして捨てていたチャムに目をつけ、塩漬けにして日本へ輸出する業務を始めてから羽振りが良くなっていった。その後、金を掘りに行く人に食料や雑貨を売る商売を始めて巨富を成し、J・ナガノ美術店を3店舗、レストラン「リクシャ」を2店舗開業して「カナダ大尽」と呼ばれる名士となった。
だが晩年に結核を患い、気弱になった万蔵はキリスト教の洗礼を受ける。このとき万蔵の雇い人全員が洗礼を志願したという(かつて有馬家の家臣が領主に従い全員改宗したことに注意)。火災で財産のほとんどを失い、余命いくばくもないことを悟った彼は、二人の息子をカナダ残し妻トヨ子とともに帰国し、その2年後の1924年、口之津で生涯を閉じた。万蔵が晩年暮らした家(写真3)は数年前まであったが、今はない。彼の生家も残っていない。万蔵の直系の子孫は日本にはおらず、「カナダ大尽」と言われた万蔵が残したものは、玉峰寺の墓(写真4)だけである。
なお玉峰寺はかつて「岬の聖母の教会」があった地と考えられており、1579年には日本初の公会議である全国宣教師会議が開催されている。禁教後は刑場となり、1614年にはこの墓地で70名のキリシタンが処刑された。
余談だが、「アメリカ村」と呼ばれた三尾(和歌山県美浜町)から最初に移民した工野儀兵衛も、貧しい漁村で大工をしており、しかもカナダで鮭漁に従事しているが、これは単なる偶然なのだろうか。やはり初期の移民は、貧しさに絶望して郷里を出て行ったのではないか。漁村の出で遠路航海に抵抗がないことや、田畑を持っていないことが土地を捨てる決心を容易にし、また漁村の出身であることから漁のノウハウがあり、フレイザー川での鮭漁に適応できたのではないだろうか。
(5) からゆきさんと島原の子守唄
口之津は1878年、三井三池炭鉱の石炭積み出し港に指定され、再び繁栄の時代を迎えた。1899年には石炭で賑わっていた口之津に、与論島からの集団移民がやって来ている。だがその繁栄の陰では、石炭運搬船の船底に押し込められて売られて行く娘「からゆきさん」の悲しい歴史があった。
島原・天草地方では、長男以外はみな郷里を出ていった。男子は坑夫になる者が多かったが、女子の中には、貧しい生家に仕送りするため、「大東亜共栄圏」の区域に駐在する帝国軍人のための売春宿に売られていった者たちがいた。ボルネオ島のからゆきさんは、ほとんどが島原・天草地方の出身者であったという。からゆきさんにはバンクーバーに来た者もあり、工藤美代子著「カナダ遊妓楼に降る雪は」に詳しい。彼女たちの平均寿命は約20歳で、多くは若くして性病や風土病で亡くなった。ごく一握りの者が幸運にも郷里に帰ることができたが、彼女たちの仕送りで飢えをしのいだ故郷の人たちの目は、冷たかった。
「島原の子守唄」
1.おどみゃ島原の 2.帰りにゃ寄っちょくれんか
おどみゃ島原の 帰りにゃ寄っちょくれんか
梨の木育ちよ あばら家じゃけんど
何のナシやら 何のナシやら 唐芋飯や粟ん飯 唐芋飯や粟ん飯
色気ナシばよ ショウカイナ 黄金飯ばよ ショウカイナ
はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい おろろんおろろん おろろんばい
鬼の池ん久助どんの 連れんこらるばい おろろんおろろん おろろんばい
3.山ん家はかん火事げなばい 5.あん人たちゃ二つも
山ん家はかん火事げなばい あん人たちゃ二つも
サンパン船は与論人 金の指輪はめとらす
姉しゃんな握ん飯で 姉しゃんな握ん飯で 金は何処ん金 金は何処ん金
船ん底ばよ ショウカイナ 唐金げなばい ショウカイナ
泣く子はガネかむ おろろんばい 嫁ごんべんな 誰がくれた
アメガタこうて ひっぱらしゅう 唾つけたら あったかろ
凶作の年は米は全て年貢に納め、米の飯が食えなくなると娘が売られた。娘たちが密輸される夜は、決まって山の民家に付け火があり、町が騒然となるその隙に船はひっそりと出て行った。娘たちは船底に押し込まれ、握り飯だけが与えられ、船乗りたちに肉体を奪われた。それは密出国の駄賃として彼らにあてがわれていたものだった。そのショックで船から身を投げる娘もいたという。
幸運にも身受けされ、中国の馬賊などの妻となって故郷に帰って来られた人は稀であった。子守りをする貧しい家の娘は、自分もいつか売られてゆく身とは知らず、からゆきさんが金の指輪を二つも着けているのをうらやんでいるのである。
異郷の地にある彼女たちの墓標は、故郷に背を向けて立てられているという。島原の子守唄も教科書に掲載されたが、通常歌われるのは1・2番で、「からゆきさん」を歌った3〜5番は歌われることはなく、教科書にも掲載されていない。からゆきさんはその存在を口にするのもはばかられ、忘却の彼方へと葬り去られていったのである。
安土桃山時代の海岸線は、今より500メートルほど内陸にあった。当時の船着場を示す石垣が今も残っており、「南蛮船来航の地」として公園となっている(写真6)。
全てはここから始まった。いったいどれだけの人々がこの港から入り、また出て行ったのだろうか。南蛮人、百姓一揆、海外移民、からゆきさん…みな貧しさゆえであった。
1909年に三池港が整備されると、口之津は石炭積み出し港としての地位を失い、急速に斜陽化する。口之津の海は今、激動の歴史が嘘のように穏やかである。
そこに立つ石碑には、意味不明瞭な言葉が刻まれている(写真7)。
「殉国の人々 郷土を離れた地」
先の大戦において国に殉ぜられた人々が、万感の思いを胸に抱いて郷土を出発され、また声もなく帰郷された地を記念して、之を建立する──
口之津の海に、夕日が沈んでいく。もう宿に戻ろうか、そう思い引き返そうとしたとき、石碑が夕日に照らされ、輝いて見えた。