[14] 亡命スパイの一番長い日

   Igor Sergeievitch Gouzenko (1919−1982)

 

 1982年6月、オンタリオ州ミシサウガの教会で、家族とごくわずかな友人たちが見守る中、プラハ出身のブラウン氏の葬儀がとり行われた。だが司卿を除き、参列者はみな故人が本当はブラウン氏ではないことを知っていた。

 彼の本名はイーゴリ・セルゲイエビッチ・グーゼンコ。ソ連のベラルーシ共和国ロガチョフに生まれる。建築専門学校で学ぶが、第二次大戦が始まると、愛国心の強い彼は祖国に奉仕するため士官学校に入り、まじめで忠実な人柄がGRU(グルー)(赤軍参謀本部情報機関)に買われ、1943年オタワのソ連大使館にGRUの暗号書記として赴任する。

 だが、憧れの国家公務員の実態は、彼の想像したようなものではなかった。本来ソ連国内での諜報活動はKGB(国家保安委員会、当時はNKVD)の領域だったが、赤軍の国外情報部がGRUとして独立し、国内諜報活動にも触手を伸ばしてきたため、GRUKGBは血で血を洗う抗争を繰り広げ、オタワの大使館でもGRUKGBは険悪な関係にあった。GRUの公用車が故障したときなど、運転手は発覚を恐れ自費で修理したが、KGBに密告され、本国に送還された。こういうときの辞令の文句は「別の任務を命ずる」。だがその意味はシベリアでの強制労働である。このような情況ではいつ自分も同じ目に遭うかわからないとグーゼンコは恐れていた。彼は家ではいつも、テキスト ボックス: グーゼンコのアパート(オタワ)。彼の部屋は車が停まっているところの2階だった。会話を聞かれないようショスタコービッチのレコードをかけていたのだった。

 彼のアパートの隣には、ソ連からの移民が経営する雑貨屋があった。グーゼンコは、買い物に来るとき店主が公然とカナダ政府の批判をすることに驚き、「そんなことを言うと密告されますよ」と忠告したが、店主に「ここはソ連じゃないんだよ」と逆に笑われてしまった。資本主義は堕落していると聞かされてきたが、見ると聞くでは大違い、カナダはあまりにも自由であり、物も豊富で買い物の行列もない。グーゼンコは、ソ連の教育がいかに欺瞞に満ちているかを思い知ったのだった。

 

 ある日の夕暮れどき、仕事を終えた彼は冬のリドー運河を歩いていた。肌を突き刺すような寒さはモスクワと同じだった。だが違うのは、人々がとても楽しそうにスケートに興じていることだった。それを見ていると、自分もなんだか楽しくなってきて、靴のまま凍った運河の上を滑ってみたが、たちまち転んでしまった。周りの人たちは、そんな自分を見て笑っている。彼らは見知らぬ自分に気軽に声をかけてくるのだ。そのうちの一人にパーティーに誘われた。カナダ人は何て親切なんだろう、ソ連では人々が互いに密告し合っているのに・・・・・自分たちの仕事はいったい何なのだろう? 彼はそう自分に問いかけるのだった。

テキスト ボックス: 冬のリドー運河。左に見えるのは国会議事堂。 そんなとき突然モスクワから辞令が届いた。

「イーゴリ・セルゲイエビッチ・グーゼンコに別の任務を命ずる。モスクワへ帰還されたし」。

彼は一瞬目の前が真っ暗になった。そして妻アンナにこのことを話すと、妻は「子供たちはこの国で育てたいわ」と言う。そこで彼は上司に、暗号書記を続けたいので「栄転」を思い直すようモスクワに頼んでほしいと願い出ると、信じ難いことに了承された。本物の「栄転」だったのである。彼は喜んで妻にそう告げたが、妻は一言「いつかその日が来るに違いないわ・・・」。もしそうなったら、妻や幼い子はどうなるのか。やられる前に、やるしかない。職務に忠実な公務員は、悲壮な覚悟で亡命を決意したのだった。

 それから彼は機密文書のコピーを秘かにとり始めた。亡命の手みやげにするためである。ところが彼は驚くべき情報を目の当たりにする。

 「ニューメキシコで極秘の原爆実験成功。広島用の原爆はウラン235から作られ・・・・」

 核兵器が実用化されるのは何十年も先のことだとされていたが、このときすでに実験まで行われており、人類は間もなく恐るべき光景を目にすることになるのである。そしてこのアメリカの最重要機密は、早くもソ連に握られており、アメリカの圧倒的な軍事的優位は間もなく崩れ去るに違いない。ソ連が核兵器を持ったら世界はどうなるのか・・・・・・彼の心に、一国への忠誠を超えた、より大きなものが涌き上がってきた。今まさに自分が試されているのだ、そう彼は思った。

 

 1945年9月5日の夕刻、業務を終えた彼は109通もの機密文書コピーを服の下に隠して、大使館の鋼鉄の扉を後にした。もうここに来ることもないのだ・・・・・サマータイムの外の日差しが、彼の目にはまぶしく映った。

 彼はその足で、新聞社オタワ・ジャーナルを訪ねた。だが編集長は英語の不自由な彼を全く信用せず、

「これは、うちらが関わる問題じゃないね」。

月に一度はこういう頭のいかれた奴が来る、そう思った編集長は、グーゼンコに法務省にでも行けと冷たく言い放った。グーゼンコは仕方なく法務省に行き、法務大臣との面会を要求する。だが守衛に、大臣はすでに帰宅したので明日来て下さいと言われ、その日はやむなくアパートに引き揚げた。

 翌朝彼は、妻子を連れてもう一度法務省を訪れた。だが大臣の秘書に、大臣は国会議事堂にいると言われ、今度は国会議事堂に向かった。しかしそこでも別の秘書に、大臣は法務省にいると言われ、再び法務省に引き返すと、秘書は、

「大臣は面会できません」。

右往左往している間に貴重な2時間が過ぎた。大使館はすでに業務を開始し、彼の無断欠勤に気づいている。このまま街をうろうろしていたら危ない、早く何とかしなくてはと思い、藁をもつかむ思いでもう一度オタワ・ジャーナルを訪ねるが、編集長は、

「特に言うことはないね。スターリンの話なら別だけど」。

 全ては終わった。幼い子供はもう歩き疲れている。一家は観念してアパートに引き返した。

 これからどうすればいいんだ・・・そう思いながら彼が何げなく窓の外を見ると、向かいの公園からKGBの職員2人に監視されているのに気がついた。彼らは夜を待っているのである。殺される! 一家は息を飲んだ。

 無情にも日が暮れていく。なすすべもなく、時が流れていく。すると突然、ドアを激しく叩く音がした。

「グーゼンコ! グーゼンコ!」

彼らはついにドアを壊し始めた。もうだめだ・・・。ところがそのとき、物音を不審に思った隣部屋の住人、カナダ空軍のハロルド・メイン軍曹がバルコニーづたいにやって来た。

テキスト ボックス: グーゼンコのアパートと向かいのダンドナルド公園。「警察を呼んだので、私の部屋に隠れていて下さい」。

こうして駆けつけた警官によって、KGBの刺客は逮捕された。一家は難を逃れ、グーゼンコはまたもカナダ人の親切に痛み入ったのだった。

 

 実はそれまでにキング首相は、クーゼンコが法務大臣に面会を求めたことを知っていた。だが当時第二次大戦が終わったばかりで、同盟国ソ連との対立を避けようとした首相は、これを黙殺することにした。首相は当時の日記に「これは熱いポテトだ。熱すぎてつかめない」と書き記している。しかしウイリアム・スティブンソンがグーゼンコの書類の重要性を見抜き、彼の保護を訴えたのである。

 キャンプXに保護されたグーゼンコは、声明を発表した。

「2年前カナダに入国した最初の日以来、私はカナダにあってソ連にはない、個人の完全な自由に驚いていた。虚構が真実に打ち勝てないように、ソ連で喧伝されている民主主義国に関する虚偽の宣伝は、私の日々の生活の中で次第に消されていった。

私は2年にわたるカナダでの生活の間、自由な国民が何をすることができるのかを見た。ソ連国民が暴力と、血と涙の代価によってでさえ達成することができない完全な自由の下で、カナダ国民が何を達成しているのかを。

テキスト ボックス: ダンドナルド公園に建てられた記念碑。カナダで最近行われた選挙は、特に私を驚かせた。カナダの自由な選挙と比較すると、ソ連の選挙は茶番としか言いようがない。例えば、ソ連の選挙はただ1人の候補が推薦され、選択の余地が初めからないという事実が全てを物語っている。

ソ連政府は同時に、民主主義国の民衆がソ連の内実を知ることを防ぐためにあらゆる手段をとっている。言論と信教の自由への弾圧の事実は、民主主義国に対し隠蔽されている。ソ連政府は共産主義体制を国民に押しつけて、ソ連の人民が西側諸国とは異なる自由と民主主義を享受していると強弁する。

これは、嘘である。

ソ連人民は、容赦のない恐怖と迫害のために自由と民主主義を実現することはできない。

テキスト ボックス: グーゼンコ事件を描いた1948年の映画「鉄のカーテン」。右はグーゼンコ役のダナ・アンドリュース。ソ連政府は国際会議において、平和と安全について数多くの声明を並べながら、同時にひそかに第三次世界大戦に備えている。ソ連政府はこの戦争のために、カナダを含む民主主義国の中に組織をつくっている。・・・・・・」

 グーゼンコの文書からアメリカ・イギリス・カナダの政府高官にソ連のスパイがいることが明らかとなり、聴聞会が開かれた。彼の証言によって各国で著名人が次々に逮捕され、カナダでは18人が起訴され9人が有罪となり、そのうち共産党のフレッド・ローズ下院議員は懲役の実刑判決を受けた。アメリカでもマッカーシー議員による赤狩りが始まり、資本主義陣営と社会主義陣営の対立は決定的となった。グーゼンコ事件は東西冷戦を惹き起こしたのである。

 彼は亡命後ブラウン氏と名乗り、RCMP(連邦警察)に警護された家に住み、政府から月500ドルの年金を受けて暮らした。亡命当時に妊娠していた妻は、産婦人科病院ではポーランド系の農婦と偽り、出産する際には夫がいないと怪しまれるという理由で、警察官がなまりのある英語で、夫として付き添ったという。グーゼンコは貧しい家計を助けるため、得意な絵を描いて売っていたが、テキスト ボックス: 覆面姿でテレビ出演するグーゼンコ。仕事もせずに遊んで暮らすいい身分という中傷は、常に彼につきまとっていた。1948年には自伝「私が選んだこの道」、1953年には小説「あるタイタンの転落」を発表している。タイタンとは国民を監視するソ連の秘密エージェントのことで、この物語は、国家に忠実なタイタンであり、「人民の良心」と呼ばれるソ連の著名な小説家ミハイル・ゴーリンが、政治的陰謀に巻き込まれ、スターリンによって秘かに暗殺されるが、英雄として彼の遺体はクレムリン宮殿の壁の前に葬られ、スターリンが「我らが同志、レーニンとスターリンの友、プロレタリア文学の祖、祖国のために惜しみない奉仕を捧げたタイタンに栄光あれ」と皮肉な追悼の辞を述べるという、グーゼンコの祖国への思いがにじみ出た自伝的小説である。

 

 彼はその後糖尿病を患うが、暗殺を恐れ病院での治療を拒否して、つテキスト ボックス: 素顔のグーゼンコ。いには失明し、ミシサウガの自宅で死亡した。彼の死は新聞で報じられ、初めて覆面のない素顔が公表されたが、そのとき遺体はすでに埋葬されてしまっていた。

 

 

 

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