[16] カナダ初代首相 〜グラスゴー(3)〜

(ふれいざー2005年6月号掲載)

 

 

 

グラスゴーはスコットランド最大の人口(イギリスではロンドン、バーミンガムに次いで3位)を誇る都市であり、スコットランドで唯一地下鉄のある都市である。この街のダウンタウンの一角Brunswick St.20番地(写真33)が、カナダ初代首相ジョン=アレクサンダー・マクドナルド(1815 – 1891)の出生地だ。

父が事業に失敗し、一家は彼が5歳の時カナダのキングストンに移住する。貧しさのゆえ大学には進めず、15歳から法律事務所で働き、1836年に弁護士資格を獲得。19歳で保守党からアッパー・カナダ議員に当選、1856年にはアッパー・カナダ州首相に就任するが、1862年市民軍創設の法案否決を受けて辞任する。

このころアメリカでは南北戦争が勃発し、マクドナルドら「建国の父」たちは、カナダの諸州がバラバラではアメリカの軍事的脅威に対抗できないと考え、連邦結成に動き出した。マクドナルドは、連邦はフランス系も含み、また大西洋から太平洋までのすべての州を含めるべきだと考えていたが、大西洋諸州は、連邦結成は自分たちの権利を弱めると見て当初反対していた。彼は連邦結成の宿願を達成するため、1864年政敵ジョージ・ブラウン率いる改革党との大連立を成立させる。

このころのマクドナルドは、連邦結成に向けて東奔西走していたが、私生活においては過度の飲酒という問題を抱えていた。息子と幼くして死別し、病弱な妻は寝たきりとなり、長い闘病生活のテキスト ボックス: 写真33 マクドナルド出生地付近。建物の左側道路がBrunswick St.である。彼の出生を記念するものは何もない。後に亡くなった。また後妻との間に生まれた娘は脳水腫を患っており、正常な生活を営むことができなかったのである。彼は泥酔して本会議に臨み、野党議員に指摘されると「しらふの自由党員より酔った保守党員の方がましだ」と答弁し、また選挙討論でも、対立候補の演説中に吐いてしまい「彼の演説は吐き気がする」と語っている。こうした彼の酒癖については、ブラウンが新聞ネタにしたため国民は皆知っていたという。

1864年のシャーロットタウン会議とケベック会議は、彼が大西洋諸州を説得する場となった。1866年にはアメリカのフェニアンが侵攻する事件が起き、連邦結成への追い風となる。そしてついに1867年7月1日、英領北アメリカ法(旧憲法)が施行され、カナダ連邦(Dominion of Canada)がオンタリオ、ケベック、ニューブランズウィック、ノバスコシアの4州によって結成された。マクドナルドらは“The Kingdom of Canada”と命名したかったようだが、アメリカの反発を恐れこの名称になったという。「ドミニオン」の名称は聖書の詩篇72篇8節He shall have dominion from sea to sea(その支配は海から海へ”に由来しており、マクドナルドの「大西洋から太平洋まで」の大連邦構想をよく表している。彼は連邦初代首相に指名され、1ヵ月後の最初の連邦議会選挙でブラウンに勝利した。同年保守党党首に就任する。

ブリティッシュ・コロンビア州は当初連邦に加入せず、かえってアメリカ編入の動きを見せた。マクドナルド首相は10年以内の大陸横断鉄道敷設を約束して、1871年ブリティッシュ・コロンビアをカナダに編入する。だが鉄道建設には莫大な費用がかかり、財政を圧迫した。さらに不況にみまわれ、工事は予定を大幅に遅れた。1873年、カナダ太平洋鉄道の建設を請け負っていたヒュー・アランの会社から35万ドルの政治献金が保守党に流れた「パシフィック・スキャンダル」が発覚し、マクドナルド内閣は総辞職に追い込まれ、マッケンジーの自由党に政権を明け渡すことになった。

だがこの汚職事件が不況と同時期だった点において、マクドナルドは幸運だった。彼はカナダの産業を保護するため、外国特にアメリカの輸入品に高率の関税を付す「ナショナル・ポリシー」を訴え、1878年の選挙に勝利し、再び首相に返り咲く。1885年のノースウェストの反乱に対しては、完成したばかりの大陸横断鉄道で派兵して鎮圧したが、首謀者であるフランス系のルイ・リエルを処刑したことで、保守党はケベックでの支持を失った。

バンフをカナダ初の国立公園に指定し、RCMP(今日の連邦警察)を創設したのはマクドナルドの偉大な功績である。彼は首相在任中に死亡した。没後は10ドル札の肖像となり、カナダ人に関する各種人気アンケートでも常に上位にランキングされている。

 

スコットランド系によく見られる“Mac-”姓は、ゲール語で「息子」という意味である。ダルリアダ王ファーガスの息子たちのうち、兄はスコットランド王家となり、弟のゴットフリーはスコットランド北部の諸島を支配化に置いた。その子孫サマレッドは、スカイ島の住人に請われてノルマン人を追放し「島々の王」の称号を得た。その孫ドナルドの子孫がマクドナルドを名乗り、スカイ島のアーマデール城を中心としてスコットランド北西部に勢力を張った。城は今日クラン・ドナルド・センターとなっている。

世界中のマクドナルド氏は、ここから各地へと進出していった。その中で最も有名になったのは何といっても、1937年カリフォルニア州パサデナにハンバーガー・ショップを開業し、世界100カ国・2万店舗の巨大チェーンを築いたマックとディックのマクドナルド兄弟であろう。あるときイングランド人がスコットランドに来て、マクドナルド(ハンバーガー・ショップ)を探していた。地元の人に「この辺にマクドナルドは?」ときくと「ファーストネームは?」ときき返されたとか。

18世紀のジャコバイトの乱で、ボニー・チャーリーをスカイ島から逃亡させたフローラ・マクドナルドも、言うまでもなくこの氏族(クラン)出身である。1692年には、オレンジ公ウイリアム二世に忠誠を誓わなかったマクドナルド氏族がキャンベル氏族に虐殺される「グレンコーの悲劇」が起こっている。

 

 

 

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