[10] さらばいとしのメアリ 〜グラスゴー(1)〜

 

 

 

ロッホ・レーベン城を脱出したメアリは、彼女の忠実な支持者ペイズリー卿(クロード・ハミルトン)の領地に逃げ込んだ。メアリは彼の50騎の騎兵を伴いラナークシャーに入ると、「退位は脅迫されたもの」「モレー伯の摂政就任は女王への反逆」と主張して兵を募った。彼女のもとには6000の兵が集まったが、ダンバー城への入城を拒否されてしまったため、ひとまずダンバートン城に入り磐石の態勢を築いてから、より多くの援軍を募ろうと考えた。だがダンバートンに行くにはグラスゴーの近くを通らねばならず、モレー軍と衝突しかねない危険な賭けであった。メアリ軍は大きな円を描くようにグラスゴーを大きく迂回して、クライド川沿いにラザーグレン−ラングサイドと進み、その後クルックストン−ペイズリー−ダンバートンという進路を目指した。だがモレー伯は、メアリ軍がグラスゴー郊外クリンカート・ヒル(現在のラングサイド・カレッジ付近)に到着するころ、4500の兵をラングサイド(写真3132)に布陣させその進路を牽制した。数では劣っていたが、モレーは歴戦のつわものだった。

メアリ軍司令官のアーガイル伯(アーチボルド・キャンベル)は実戦経験に乏しく、敵が待ち伏せているラングサイド村を数を頼みに突破しようとして、モレー軍の集中砲火を浴びた。メアリ軍は多くの犠牲を出しつつラングサイド・ヒルのモレー軍本陣(今日のクイーンズ・パーク)に迫ったものの、そこで無傷の鉄砲隊による銃撃を受け、45分間で100名が戦死すると兵士が逃亡を始め総崩れとなった。メアリは全てを失ってイングランドに亡命する。スコットランドを実質的に統治したのはわずか6年、業績は何もなく、ただ混乱だけがあった。メアリは女王としての短い日々を、風のように駆け抜けていったのである。

 

同盟国フランスではなくイングランドを亡命先に選んだのは、メアリの賭けであった。女王エリザベス一世は、隣国国王の母で政治犯、しかもイングランド王位継承権があるメアリをどう処遇すればよいかわからず、とりあえず幽閉したが、メアリは比較的自由に過ごした。遠縁の二人の女王は互いを「お姉様」「親愛なる妹」と呼んで古くから文通していたが、結局二人が顔を合わせることはなかった。

テキスト ボックス: 写真31・32 ラングサイドの戦い記念碑。ダーンリ殺害で起訴されたメアリが、モレー伯らこそが殺害の張本人であり、自分を裁くことは謀反の正当化であると主張すると、王権不可侵の信奉者であるエリザベスは動揺した。エリザベスは、スコットランド女王の退位に同意すれば自由な生活を保証すると約束したが拒絶され、結局この裁判はうやむやに処理される。メアリはジェームズ六世に共同統治を呼びかけるが、母を知らずに育ったジェームズは側近に母の落ち度だけを聞かされており、実の息子に拒否されてしまう。

カトリックでイングランド王位継承権があるメアリの存在は、独身で子のないエリザベスにはどう転んでも脅威でしかなかった。1570年のリドルフィ事件、1572年のノーフォーク公の陰謀、1583年のスロクモートンの陰謀、1586年のバビントン事件など、メアリを担いだクーデターが相次いだ。ウォルシンガムの陰謀とも思えるバビントン事件では、19年もの長い幽閉生活に疲れたメアリがエリザベス暗殺を示唆した証拠が提示され、ついに死刑を宣告されてしまう。エリザベスはこの期に及んでなお死刑執行書への署名を渋ったが、枢密院が無断で手筈をととのえ、メアリを処刑した。

その後エリザベスは子がないまま崩御し、遺言によりメアリの子ジェームズ六世がイングランド王位を継承する。メアリを処刑したフォザリンゲー城は、ジェームズの命により跡形もなく破壊された。

メアリは生前こう語っていた。「我が終わりのうちに、我が始まりはある」。

今日の英国王室はエリザベスではなく、メアリの子孫である。

 

 

 

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