[20] 灯油の発見

   Abraham Pineo Gesner(1797−1864)

 

 エブラハム・ゲスナーは、ノバスコシア州コーンウォリスに生まれた。幼少のころから勉強好きで、石を集めるのが趣味だったという。父親も息子の勉強を奨励し、離れの小屋を実験室として与えたので、ゲスナーはそこで研究に熱中した。

 学生時代に医師のウェブスター一家と親しくなり、その娘ハリエットと結婚。ゲスナーは馬商人になるが、商売は繁盛せず、多額の負債を抱え投獄の危機にさらされたため、ウェブスター一家の勧めでイギリスに逃れ、医学校に入学した。

 卒業後はセントバーソロミューのガイズ病院にインターンとして勤めるが、そこで有名な医師ジョン・アバナシーと出会う。そして彼の研究グループに迎え入れられるが、ゲスナーの地質学への造詣の深さに驚嘆したメンバーたちから、医者よりも地質学者になることを勧められるのだった。

 1827年にインターンの訓練を終え、ノバスコシア州パースボローに赴任するが、彼は患者を診ることよりも鉱物標本の収集に夢中になり、1836年ついに300ページにも及ぶ「ノバスコシアの地質学及び鉱物学についての所見(Remarks on the geology and mineralogy of Nova Scotia)」を書き上げ、地質学者として名を挙げた。そうなると本業はそっちのけで、1837年からニューブランズウィック州へ炭鉱脈調査に行き、その翌年には政府の依頼で標本収集のため州内をくまなく旅行するが、あまりの熱中ぶりに調査経費を使い過ぎ、政府から給料と経費の両方は払えないと言い渡され、再び経済的に行きづまってしまう。

 そこで自分の標本を展示する博物館を建てるが、この経営も失敗に終わる。政府からも解雇された彼は、生活のためコーンウォリスに帰って再び医者に戻るのだった。

 その彼が、電気療法の実験をしているうちに電気工学に興味を持つようになり、またもや本業はそっちのけでついにエネルギーを直流電流に変える発動機を発明する。彼の知的好奇心はとどまるところを知らず、次は炭化水素の研究を始め、ニューブランズウィック州アルバート郡に燃える石「アルバタイト」があるという話を聞いた彼は、そこからケロシン(灯油)を蒸留する方法を発見した。なお彼は当初、蝋を意味するギリシャ語からこれを「ケロスレイン」と名づけていた。

 当時、ランプの燃料に最も適しているのは鯨油だと考えられていたが、すぐに乱獲状態となり、捕鯨業者は遠くまで漁に行かなければならず、価格は法外に高くなっていった。そこで鯨油のほかにイグサを燃やすこともあったが、煙と悪臭を発するため、人々は新しい燃料を求めていたのである。

 1846年、ゲスナーは測量のためシャーロットタウンへ行ったおり、教会でケロシン蒸留のデモンストレーションを行った。人々が見守る中、蒸留したケロシンのランプに火をともしたとき、煙はほとんど出ず、匂いもなく、実験は大成功だった。

 1854年に蒸留法の特許が認可されると、ゲスナーは大枚はたいてアルバート鉱山での瀝青採掘権を購入し、北米ケロシン・ガス灯社を創立する。会社専属の研究員として腕を奮い、ケロシンのランプで世界中を明るくし、人々が夜の時間を有効に使えるようにしようと夢は果てしなく膨らんでいった。保存が効くケロシンの需要は鯨油を凌ぐようになり、彼はビジネスの成功を確信した。だが、アルバート鉱山の石炭採掘権を所有していたアルバート鉱業社に告訴されてしまう。彼は、アルバタイトはアスファルトと同類の瀝青、すなわち炭化水素の固体であって石炭ではないので、石炭採掘権とは無関係だと主張した。ところがアメリカの地質学者チャールズ・ジャクソンが、アルバタイトは瀝青ではなく石炭だと主張して、これに「アスファルティック・コール」と命名した。実は彼は1832年に「ノバスコシアの一部における鉱物学と地質学に関する記述(Description of the mineralogy and geology of a part of Nova Scotia)」という、ゲスナーの著書に酷似した論文を発表しており、自著から盗用したとゲスナーに非難されていた。陪審員はこれに幻惑されたのか、アルバタイトは石炭であると誤った判断を下したため、ゲスナーの敗訴に終わる。かくしてゲスナーは、大枚はたいて手に入れた採掘権ではアルバタイトが採掘できず、しかもアルバタイトはアルバート鉱山でしか採掘できないため、アルバタイトからの蒸留法の特許があっても、肝心のアルバタイトが入手できないという悲境に陥った。アルバタイトが固体の石油であることが判明するのは後年のことであり、ゲスナーは運に見放されていたとしか言いようがない。

 またアスファルトを蒸留する方法は、コストがかかりすぎた。その後ケロシンが石油からも抽出できることが発見され、オンタリオとペンシルバニアで油田が発見されると、ゲスナーもケロシンを石油から抽出しようとするが、その方法では他社に莫大な特許料を支払わなければならず、経営は数年で破綻してしまう。彼は自分の特許を売却し、ノバスコシアに戻って三たび医者に戻ることを余儀なくされたのだった。

 だがアラビアで大規模な油田の発見が続出すると、20世紀は石油の世紀となり、ケロシンは20世紀初頭には精錬や潤滑油、20世紀後半にはジェット機の燃料や暖房などで大々的に普及した。今日ではほとんどの石油精製企業が、ゲスナーの蒸留法を採用している。ゲスナーの時代にケロシンのあかりが道を照らすことはなかったが、彼は未来への道にあかりをともしたのだった。

 

 

 

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