[17] 世界標準時の考案

   Sandford Fleming(1827−1915)

 

 イギリスのカーコルディに生まれる。生まれつき色盲だったが、幼少のころより絵画と数学に非凡な才能を示したフレミングは、14歳で測量技師の徒弟となり測量と機械工学の手ほどきを受ける。

 1845年、兄のデビッドとともにオンタリオ州ピーターボローに移民する。測量士の資格を取得して、ピーターボローとカバーグを測量し、当時カナダになかった石版で地図を作成したところ、飛ぶように売れた。1852年から1863年までオンタリオ・シムコー・ヒューロン鉄道(後のカナダ北部鉄道)、1853年から1876年まテキスト ボックス: フレミング出生地の碑(カーコルディ)。でインターコロニアル鉄道、1871年から1880年までカナダ太平洋鉄道と、カナダ三大鉄道の主任技師を務め、大陸横断鉄道の開通に尽力する。この路線の敷設に関しては、汚職事件「パシフィック・スキャンダル」が1872年に発覚し、保守党のマクドナルド内閣が総辞職して、自由党に政権を明け渡すという政変が起こり、またその翌年からの不況などの困難に見舞われ、事業は難航したが、1885年に完成した。

 彼は政治家ではなかったが、政治に強い関心を持ち続けた。保守党は1880年に政権を奪回したが、フレミングはチャールズ・タッパー(後の首相)との関係から、病気のマクドナルド首相の後継争いに巻き込まれ、同年カナダ太平洋鉄道を辞職に追いやられている。しかし1888年にロンドン、1894年にオタワで開催された大英帝国植民地会議や、1896年にロンドンで開催された帝国電信会議のカナダ代表を務めている。1897年にはナイトに叙せられた。また1851年には彼の描いたビーバーの絵が、カナダ最初の切手(3セント)に採用されている。

 

 だがフレミングの最も偉大な業績は、世界標準時の考案である。19世紀には世界中で鉄道の敷設が進められていたが、徒歩や馬車で移動していたころには考えられなかった問題が浮上した。それは例えばハリファックスから汽車でトロントに行くとき、時差があるため実際の移動時間より1テキスト ボックス: フレミング事務所跡(トロント)。カナダ最初の切手の肖像は、ここで描かれた。時間5分早く着くということだった。当時各都市は太陽が真上に来るときを正午と定め、それぞれ異なる時差があり、しかもそれは今日のようにゾーンごとに1時間刻みではなく、都市ごとに分刻みだったのだ。そこで旅行者は時計をいくつも持たなければならず、また各鉄道会社も時刻表を現地時間で作ったり、起点の時間で作ったりと混乱していたのである。

 彼はこの複雑な問題を解決するため、古今東西の時刻に関する研究を始めた。イタリア人、ボヘミア人、ポーランド人などは24時間制を用いていた。日本人は一日を12時間制とし(すなわち1時間は120分)それぞれに動物(十二支)の名をつけ、それをさらに12分割して一日に144の区分を用いていた。古代エジプト人の一日は午前6時から午前6時で、一日を午前と午後の2つに分け、その2つをそれぞれ12の区分に分割していた。ユダヤ人、トルコ人、オーストリア人の一日は日没から日没までで、アラビア人の一日は正午から正午までであった。またニュージーランドは1868年11月2日、世界に先がけて国内単一時刻を採用していた。

 彼はこれらの例を参考に、午前と午後の混乱を避けるため24時間制とし、世界中の都市が統一の時刻を用いる「地球時」を発表する。そして1878年、アイルランドのタブリンで開催された英国科学推進協会の協議会で、各国に「地球時」を採用するよう呼びかけたが、「利益がない」として黙殺された。この案ではロンドンが12時のとき世界中が12時であり、ロンドンの正午が12時ならバンクーバーの正午は4時で、一日は16時から16時までとなってしまう。ほとんどの国では昔から一日は0時から24時で、昼食は12時に摂るものと決まっており、そもそも時間というものは人の生活のために設定されたものであって、人が時間に(それもロンドンの)合わせるような案は不自然なのだった。

 しかし彼は、1869年にアメリカのチャールズ・ダウドが考案した「鉄道時」を参考に、今日使われている「世界標準時」を1878年に考案する。これは世界を24のタイムゾーンに分け、それぞれの時差を一時間ずつとするもので、これならばどのゾーンでも一日は0時から24時であり、またゾーン内に分刻みの時差もない。彼の論文が翌年学会から出版されると、世界各地に植民地を持つイギリスと国土が東西に広いロシアがこれを支テキスト ボックス: 標準時誕生地の碑。持し、後押しした。

また標準時の問題とは別に、本初子午線を決定するという問題があった。多くの国は天文台のあるイギリスのグリニッジを本初子午線としており、アメリカも同様だったが、国際地理学会は1875年、カナリア諸島のフェルロを基礎子午線と決定していた。これは、国際的に通用するものとして特定国の首都などは避けたほうがいいという考えによるものだったが、この地がパリとちょうど15度違いというのが真の理由であり、フランス以外の国には不評だった。

アメリカの提唱で1884年に国際子午線会議が招集されると、フレミングは委員長に指名される。本初子午線はエジプトのピラミッドやエルサレムに置くべきだという意見も出されたが、裏側(日付変更線)が太平洋の中心にあたるイギリスのグリニッジが本初子午線(経度0度)に選ばれ、世界標準時も承認された。フレミングが作成したタイムゾーンは、地方の問題であり会議の権限でなく、会議の目的は本初子午線の決定であるという理由で国際統一規格とはならなかったものの、ヨーロッパ諸国や日本など25ヶ国がこれを承認し、20世紀初頭にはほとんどの国がこれを採用したのだった。

 世界各国が世界時を採用すると、ダウドは自分こそがこのシステムの考案者だと主張した。彼は「鉄道時」を1869年、鉄道会社に上申し、翌年「鉄道のための国家的時刻制度」というパンフレットを出版したが、これによるとアメリカを15度ずつに4つのタイムゾーンに分割し、それぞれ第1・第2・第3・第4ゾーンとし、それぞれの時差を1時間としていた。第1ゾーンの中心子午線は、ワシントンであった。後にカナダを含め5つのタイムゾーンとして、このシステムは1883年11月18日、アメリカ鉄道協会に採用された。協会は、政府が先にタイムゾーンを設定する前に、私鉄各社の境界に合わせた都合のよいタイムゾーンを鉄道会社が先駆けて設定すれば、既成事実化できるだろうと考えたのである。

だがこれは鉄道会社による私的な決定であり、法律に基づく公的なものでなかったので、多くの市町村はこれを採用せず、独自の時刻を維持し続けた。新聞はこの日「2つの正午を持った日」と報じた。というのは、閉店時間の違反で起訴されたアイオワ州の酒場の経営者が、自分は鉄道時ではなく地方時に基づいて営業していると主張して無罪となるなど、2つの時刻が社会問題化する兆しが見えていたからである。

その後も標準時は地域の問題となっていたが、1918年のサマータイム導入の際、世界標準時が正式に法律で制定され、ダウドの「鉄道時」は放棄された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フレミングは世界を1時間ごとに24のタイムゾーンに分けたが、各国の事情により30分違いのゾーンも成立した。

 

 

太平洋ケーブル(カナダ−フィジー−ニュージーランド−オーストラリア)の設置も、フレミングの提言によるものである。1902年に開通したとき、カナダに初めて届いたのはニュージーランド首相からのフレミングへの祝電だった。

 世界がまさに狭くなろうとしていた時代に、彼は交通と通信の発達に邁進し、その当然の結果として生まれた標準時という遺産を残し、1915年ハリファックスでその八面六臂の生涯を閉じた。

 

 

 

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