[18] 世界初のラジオ放送

   Reginald Aubrey Fessenden (1866−1932)

 

 レジナルド・フェッセンデンはケベック州イーストボルトンで、貧しい牧師の父イライシャ=ジョゼフとジャーナリストの母クレメンティーナの子として生まれた。母の父エドワード・トレンホームは揚穀機、穀物冷蔵庫、除雪車などを発明しており、孫に少なからぬ影響を与えたことだろう。

 フェッセンデンはド=ボー陸軍学校、トリニティー大学を卒業して、ビショップス大学、ホイットニー学院で教鞭を取るが、発明を志し、職を投げうって1886年エジソンのいるレウェリンパーク研究所の門を叩く。だがそこは彼のような志願者が入れ替わり立ち替わり押しかけてくるようなところだった。「電気に関してどんなことを知っていますか」という質問に「特にありません」と答えた彼は、門前払いを食らってしまう。だが独力で電気工学を勉強して何度もエジソンのもとに押しかけ、あまりのしつこさに根負けしたエジソンは、ついに彼を研究所のメンバーに加えることにした。

 研究所に入ったフェッセンデンはすぐに頭角を表し、1887年に化学部門のチーフ、1890年には電気部門のチーフに昇格する。彼はニスにタンザニア産のゴムを混ぜると美しい光沢が出て、より長持ちすることを発見した。またエジソンの作った電球は、プラチナのフィラメントを使っていたため高価で寿命も短かったが、フェッセンデンは鉄とニッケルの合金のフィラメントを作って特許を取り、これは1893年のシカゴ博覧会にも出展された。またオーバーヒートしやすかった当時のモーターから鋼鉄中の炭素を取り除き、代わりに(ケイ)素を含む合金のものを作ったが、これは今日も使用されているものである。

 

 彼は生計を立てていくため、パーデュー大学とピッツバーグ大学で教えていたが、1901年にマルコーニがニューファンドランド島でイギリスからの無線を受信する実験に成功したという知らせを聞く(エジソンは、電波は真っすぐに飛ぶので天に届くはずであり、地表に沿って丸く飛ぶはずはないと考えたが、実は大気中の電離層が電波を反射するという事実は当時知られていなかった)。だがこれは、単一の周波数により音の長短でモールス信号の“S”が一方通行で送られただけで、フェッセンデンは肉声や音楽を無線で伝え、しかも双方向で会話ができないかと考えた。彼は無線の知識がなかったので、まず勉強することから始めたが、周囲の人々はそれを不可能だと言い、たとえできても実用性のない高価なおもちゃにしかならないと酷評したので、彼は研究を秘密裏に行なわなければならなかった。

 発明に専念するため彼は大学の職も投げうち、アメリカの富豪トーマス・ギブンとヘイ・ウォーカーの援助でナショナル電気信号社を創立する。ラジオ波の振幅を調節して音の波を形成するというAMの原理を開発し、これにより異なる周波数の音の受信と伝達が可能となり、会話と音楽の両方を再生できることになった。そして19001223日、メリーランド州ポトマック川のコブ島で、ラジオ塔から1,600メートル先のラジオ塔へ自分の肉声を送る公開実験を行い、世界初のラジオ通信(無線電話)に成功する。そのとき彼がマイクに向かって発した歴史的な第一声は「もしもし、1、2、3、4、そちらは雪が降っていますか? ティーセン君、もしそうなら電報で返事をくれ」だった。彼はさらに改良を重ね、1902年にはヘテロダイン式受信機を発明。これは、受信周波数より低い周波数を受信機内部で発振させ、それと受信周波数とを非直線性を持つ混合用真空管に加えることによって差の周波数を作り出し、十分に増幅したのち検波して、さらに可聴周波数で増幅することによって高い感度と良い選択度を得られるものである。また1906年には高周波発電機(フェッセンデン=アレクサンダーソン高周波発電機)を開発する。理論的には、交流発電機の回転を速くすれば高周波が得られるが、技術的に回転数には限度があるので、彼は360本の電極を1分間に8,500回転させて50キロヘルツの高周波を得ることに成功した。高周波発電機によって彼は100キロヘルツもの高周波を得て、その年の秋にはマサチューセッツ州ブラントロックプリマス間で18キロの長距離通信にも成功する。世界初のAMラジオ放送実現は、目前に迫っていた。

 19061224日、大西洋を航行していたユナイテッド・フルーツ社の貨物船で、乗組員たちが果物相場の動きをモールス信号で聞いていた。ところが午後9時になると突然“CQCQCQ”のモールス信号が割り込み、続いて蓄音機の奏でるクセルクセスの「ラルゴ」が流れてきたので、彼らはクリスマスイブに奇跡でも起こったのではないかと思い、ただ目を白黒させるばかりだった。実はフェッセンデンがブラントロックのラジオ塔から送信していたのである。続いて美声の持ち主、助手のスタインが歌う予定になっていたが、マイクを前に尻込みしてしまったので、フェッセンデンはすかさずバイオリンをつかんで“O Holy Night”を演奏し、最後のフレーズは弾きながら歌った。歌もバイオリンも決して上手とは言えなかったが、彼は世界初の栄誉をバックに全く気にとめることはなかった。次に妻のヘレンと秘書のベントが聖書から、キリストが生まれたときの天使たテキスト ボックス: ブラントロックに残る、世界初のラジオ放送が行われたアンテナの土台。ちの讃歌を朗読するはずだったが、2人とも緊張して声が出ないので、再びフェッセンデンが聖書を読み上げた。

Glory to God in the highest,              いと高きところに、栄光が、神にあるように。

    And on earth peace to men of good will.    地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。

                                                                                    メリー・クリスマス!

 こうしてクリスマスイブの快挙は終わったのだった。

 

 その後も彼は測深機(ファソメーター)、無線方向探知機、曳光弾、敵砲探知機、マイクロ写真、ポケットベル(頭部につけるもの)、装甲車のための煙幕、など生涯に500以上の発明を手がけた。だが彼はエジソンやマルコーニのように自分の会社を創らず、ギブンとウォーカーの会社に巧みな契約で事実上特許権を奪われ、生涯を通して貧乏だった。またベルのように自分の名前を会社につけなかったため、彼は歴史から忘れられていったのだった。

 しかし1928年、特許権をめぐる裁判で勝訴し、250万ドルもの損害賠償を受け取った。彼が裕福になることができたのは、その生涯が終わろうとしていたときのことだったのである。

 

 

 

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