[4] ウォレスの最期 〜フォルカーク〜

 

 

 

イングランド王エドワード一世はフランスとの戦争に没頭していたため、ウォレスの動きに対応できなかった。彼は自分がフランスから帰還するまでスコットランドでの軍事行動を控えるよう命じていたが、1298年にフランスから帰還すると、いよいよウォレス討伐に動き出した。

エドワードの軍がスコットランドに侵入すると、ウォレスは衝突を避け、国境地帯の食糧をほとんど持ち出しあるいは燃やして、2万9千もの大軍が補給できないようにする焦土戦術を採った。兵站が維持できなくなれば、敵は撤退すると踏んだのである。

 

7千人からなるスコットランド諸侯連合軍は、フォルカークの沼地を決戦場に選び布陣した。前方には川、後方にはカレンダーの森がある。川と沼地はイングランド重騎兵隊の障壁となるし、森は退却するとき身を隠すことができ、また騎兵隊の自由な機動を阻止できるのだ。

ウォレスは歩兵隊をもって騎兵隊を破らなければならなかったが、それは中世のこの時代には不可能だと考えられていた。しかし彼は騎兵隊に対抗する新兵器を用意した。スキルトロンである。それはウォレスが考案した、3.5メートルもの長槍を持つ密集隊形である。農民兵中心のウォレス軍では騎兵が不足し、また戦の訓練も受けていないため、密集隊形ならば周囲に兵がいるため勝手な行動、特に逃亡はできず、両端の兵士の指揮で部隊全体を動かすことができるのである。戦闘に参加しているのは最前列の兵だけだが、一人倒れたらすぐ後続の兵が前に進んで補充するので、農民兵とはいえこの槍襖を突破するのは容易ではない。実はBC4世紀にアレクサンダー大王が同様の戦術を考案していたのだが、平民のウォレスがそれを知っていたとは考えにくい。

ウォレスはイングランド重騎兵隊を恐れ、その備えとして正面にスキルトロンを配置し、前方と側面に杭を打ってロープを張り、柵を立てた。貴重な騎兵隊は後方で待機した。

スコットランド連合軍は、ウォレス、ジョン・コミン、ジョン・スチュアートの三つの部隊で形成された。だが三人は、誰が指揮官になるかで争った。ウォレスは王国守護官であり、スチュアート(後の王家)は執事の職に就いており、コミンは最も多くの兵力を持ち、スコットランドの実権を握ろうと狙っていた。結局三人はそれぞれが個別に戦うことになり、最高指揮権を得られなかったコミンは、戦場から遠く離れた場所に布陣した。

同じころ、飢餓に瀕したイングランド軍内部にも食糧をめぐる争いが始まり、イングランド兵がウェールズ兵80人を殺す事件が起きた。ウェールズ兵は「スコットランドにつく」とさえ主張した。ウェールズは十数年前に武力で併合されたばかりであった。だがエドワードが「好きにしろ、向こうにつくなら徹底的に討伐するだけだ」と言うと、彼らの不平はおさまった。彼らはエドワードの恐ろしさを、忘れてはいなかったのである。

 ウォレスはこれを好機と捉え、夜襲をかけようとしたが、ウォレス軍の中に裏切り者がおり、イングランド軍に夜襲を密告したため、成立しなかった。エドワードは、ウォレス軍が夜襲のためすぐ近くのカレンダーの森にいることを知って喜んだ。彼はウォレス軍を捉えようと追い続けていたが、いつも逃げられていたからである。

 

1298年7月22日、戦闘が始まった。イングランド軍はこの地をよく知らなかったため、騎兵隊がスコットランド軍正面に突撃し、沼地に脚を取られ、スキルトロンと弓隊の餌食となった。エドワードはこれを見て騎兵隊を呼び戻し、正面から陽動攻撃をかけつつ、左右に別れて側面から突撃するよう命じた。イングランド軍騎兵隊は正面の沼地を避け、硬い地盤を左右に見つけると、そこから背後に回り込んで、後方で待機していた騎兵隊に襲いかかった。イングランド重騎兵隊は強く、戦況がスコットランド軍に不利になると、ジョン・コミンの部隊が戦場から離脱し始めた。彼はスコットランドの実権を握るため戦力の温存を計ろうとし、また平民出身のウォレスが守護官としてスコットランドを治めることを快く思っていなかったのである。こうしてウォレスは、わずか5千の軍勢で2万8千の軍団と戦うことを強いられることになった。

コミンの部隊が逃亡するのを見ると、エドワードはスコットランド軍が見たことのない新兵器を繰り出した。ウェールズ人のロングボウ(長弓)隊である。ロングボウは、大陸で使用されていた1.2メートルの弓より長く、身長にほぼ等しい1.5メートルのイチイの木で作られ、1メートルもの長さの矢を最大で300メートル放つことができた。命中率は低かったが、訓練されたウェテキスト ボックス: 図3 フォルカーク合戦図(青=スコットランド軍、赤=イングランド軍)。ールズ人弓兵は1分間に10本以上の発射が可能だったので、彼らは集団で宙に向かって矢を放ち、文字通り矢の雨をスコットランド軍に降らせた。エドワードはウェールズ遠征でロングボウ隊の破壊力に苦しめられたが、彼は今やそれを自軍の兵器に組み込んだのである。

スキルトロンは密集隊形だったため、ロングボウの攻撃を避けることができず、次々と倒れていった。このような場合、騎兵を派遣して弓兵を追い散らすのが常道だが、コミンの部隊がすでに離脱し、騎兵はほとんど残っていなかったのである。またスコットランド軍にも弓兵はいたが、敵は射程距離外から矢を放ってくるので、手の施しようがなかった。スキルトロンはついに隙間だらけになり、エドワードがそこをめがけて騎兵を再び突入させると、スコットランド軍は総崩れとなった。スチュアートは戦死し、ウォレスは命からがら戦場を脱出する。

兵力のほとんどを喪失したウォレスは、権力の維持が困難となり王国守護官を辞任した。懸賞金をかけられた彼は国中を逃げ回るがついに捕らえられ、ロンドンで処刑される。彼の罪状は「エドワードに対する反逆」だったが、彼はエドワードに臣従を誓ったことはないから、これは言いがかりである。ウォレスの処刑は首を吊り、意識があるうちに腹を裂き、目の前で内臓を取り出して焼き、その後首を刎ね、遺体を馬で四つ裂きにするという凄惨なものだった。彼の生首はロンドン橋の上に晒され、四等分された死体はニューキャッスル、アバディーン、ベリック、パースの4個所にそれぞれ晒された。彼が処刑された地は、現在聖バーソロミュー病院となっており、その壁に記念碑が掲げられている。

テキスト ボックス: 写真14 ウォレス刑死の地。 

フォルカーク・グレアムストン駅から一つ東のポルモント駅で降り、1.5キロほど南西に行くとウォレスストーンという地区がある。そこにはかつて「ウォレスの石」があった。現在は19世紀に建てられた碑があり、そこからフォルカークを一望できる。

フォルカークの古戦場は特定できていないが、伝説ではウォレスストーンの丘にウォレスが布陣したのだという。スチュアートの部隊が包囲され苦戦しているとき、ウォレス自身は戦闘に参加せず、遠くから戦況を見つめていた。この丘の上でウォレスは、自ら考案したスキルトロンが破られ、祖国解放の夢が破れるのを見つめていたのだろうか。スチュアートはこの地でウォレスを「借り物の羽をつけて、本来の姿以上に美しいとうぬぼれているフクロウのようだ」と叱責したと伝えられている。

イングランドの修道士ヘミングフォードは、フォルカークの戦いについて地元民の証言を記録した。イングランド軍はリンリスゴーより西の高地で夜営し、スコットランド軍はカレンダーの森の南に布陣した。両軍の間に川と沼地があったことはテキスト ボックス: 写真15 ウォレスストーンのウォレス記念碑。「スコットランドの英雄ウィリアム・ウォレスを記念して 1810年8月2日建立」と刻まれている。確実である。だが当時のカレンダーの森は現在よりもはるかに広大で、フォルカーク界隈はどこも沼地だったから、決戦場を特定するのは難しい。川をエイボン川と仮定するなら、本陣をウォレスストーンに置くのは遠すぎるのだ。

バノックバーンにおけるスコットランドの輝かしい勝利は、学校の授業でも取り上げられ、スコットランド人なら誰でも知っている。バノックバーン古戦場は保存され、ヘリテージ・センターが設置され、観光バスが多くの観光客を運んでいることを思えば、フォルカーク古戦場に何もないこととはずいぶんと対照的である。だがフォルカークの敗戦の教訓こそがバノックバーンの勝利につながったことを思えば、フォルカークはもっと取り上げられてもよいのではないか。フォルカークを記念するものは、何も残っていない。由来の定かでないウォレスストーンの碑だけが、ガイドブックに掲載されることもなく、地元民にしか存在を知られることなく、今日も丘の上からフォルカークを見つめている。

 

 

 

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