[18] 学問と芸術の都 〜エジンバラ(4)〜

 

 

 スコットランドとイングランドは長い間敵対関係にあったが、1707年グレートブリテン連合王国が成立し、スコットランドはイングランドの軍事的脅威から解放された。するとスコッチたちは勉学に勤しむようになり、堰を切ったように多くの技術者・学者・芸術家などを輩出するようになる。スコットランドはもともと学問を重んじる土地柄で、中世の時点ですでにセントアンドリューズ大学(1412開校)、グラスゴー大学(1451開校)、アバディーン大学(1495開校)、エジンバラ大学(1583開校)と、4つもの大学を有していたのである。

 

 アレクサンダー=グレアム・ベル(1847−1922)は、South Charlotte St.の16番地(写真19)に生まれた。エジンバラ大学とロンドン大学で音声学を学ぶが、兄弟が結核を患ったため1870年カナダに移民し、1876年ボストンで電話を発明して特許を取得し、ベル電話会社を興して巨万の富を築いた。その後は蓄音機の改良、聴力計・光線電話・電話式探針・人工呼吸機の発明などに取り組み、晩年はカナダのノバスコシア州に移り航空機の研究に勤しんでいる。

 

テキスト ボックス: 写真19 ベル生家。 Heriot Row 17番地(写真20)は、作家ロバート・スティブンソンの旧廷である。跡を継がせたいという土木技師の父の命令で、スティブンソンはエジンバラ大学工学部に入るが、まるで興味が持てず、法学部に移って弁護士の資格を取得するものの、肺結核を患い、以後転地療養と執筆を繰り返す生活に入る。 療養先で知り合った11歳年上で夫と子を持つファニー・オズボーン夫人と道ならぬ恋に落ち、夫人の離婚を知った両親からスティブンソンは援助を断たれ、肉体的にも経済的にも追い詰められるが、1880年ファニーと結婚し、1883年出版された「宝島」が好評を博しようやく作家として独り立ちできるようになる。

 病状が悪化した彼は、1887年サモアに移住した。しかしそこではイギリス・アメリカ・ドイツの三国が統治権を巡って争っており、国王も酋長たちも権限を失っていた。だがスティブンソンは投獄されていた酋長たちを訪問し、彼らを刑務所から解放することに成功する。そして島民たちは、異国から来たこの白人が自分たちの最良の友であることに気がついた。彼らは「トゥシターラ(語り部)」であるスティブンソンのところに行き、彼が長い間望んでいた道路を作る工事を始める。彼らは猛烈な南の島の太陽の下で何週間も工事を続け、ついに「優しい心の道」という名の道路を完成させた。スティブンソンはその後間もなく亡くなった。彼の邸宅は1962年のサモア独立後、国家元首の公邸に用いられ、現在はスティブンソン博物館となっている。

テキスト ボックス: 写真20 スティブンソン旧邸。 彼が1886年に発表した小説「ジキル博士とハイド氏」は、エジンバラの市会議員ディーコン・ブロディが夜になると強盗を働いていたという有名な史実に基づいた作品である。エジンバラ旧市街は、溶岩の小山の上にあるエジンバラ城周辺に形成され、拡張することができず高層階建築が多くなり、路地は狭く不潔で、人口密度が異常に高くなった。そこで城の北側の谷の向こうに新市街を造成したが、貧しい人々は移住できず旧市街に取り残された。やがて旧市街は、ホームレス・売春婦などが集まりスラム化していく。エジンバラはまさに、谷を挟んで2つの性格を持つ街だったのである。ブロディは旧市街で、身寄りのないホームレスや売春婦を殺し、新市街の医学校に売っていた。解剖用の死体が不足していたからである。やがてブロディの犯行は発覚し、彼は絞首刑に処せられ、彼自身の死体が医学校に献体された。彼の骨格標本は、今もエジンバラ大学医学部に展示されている。スティブンソンは、事件の責任の半分は死体を買っていた医師にあるとして、ジキル博士の姿を通してその偽善を糾弾したのだろう。

 人格者で知られるジキル博士は、「人間の善と悪の性格を分離できれば、善の人格は善行に喜びを見出し、悪の人格は良心の呵責なしに欲望のまま行動できる」という幻想に取りつかれ、秘薬を発明するが、薬を飲まなくてもハイドに変身したり、ジキルに戻りたいのに薬を使い果たしてしまうという事態に直面する。考えてみればジキルは完全な善ではなく、善悪二つを兼ね備えた普通の人間であり、当初考えたような「善悪の完全分離」などではなく、ジキルが内心望んでいたことをハイドの姿で楽しんでいたに過ぎなかったのである。彼はジキルの心があるうちに死にたいと願い、ハイドに変身する前に自殺を遂げるが、遺体が発見されたときはハイドの姿となり果てていた。スティブンソンはこの物語を、コカインを服用しながら書いたという。

 また彼は「吉田寅次郎」という作品も書いているが、これは世界で初めて、日本人よりも早く書いた吉田松陰の伝記である。長州の出身で東京開成学校教授補だった正木退蔵が渡英したとき、スティブンソンに松陰の思い出を語ったのがきっかけであった。

 

 York Pl.の路上に、シャーロック・ホームズの像が立っている(写真21)。ここはホームズの出生地、ではなく、作者コナン・ドイル(1859−1930)の出生地である。ドイルはエジンバラに生まれ、エジンバラ大学を卒業後眼科医を開業するが、客が少なく、あまった時間で執筆活動を始める。1887年、ホームズが登場する「緋色の研究」を発表して推理作家としての名声を確立した。しかし本人は内心では通俗小説を軽視していて、本当は歴史作家として名を上げたいと考えており、ホームズ連載を終了させるため作中で彼を一度死なせている。だが読者の強い要望により、ホームズは実は死んでなかったことにされ、彼は生涯ホームズと縁を切ることはできず、彼のSFや歴史小説はほとんど評判にならなかった。

 第一次大戦で息子を失ったことをきっかけに心霊現象にのめりこむようになり、有名な「コティングレー妖精事件」では、少女たちが捏造した妖精の写真を本物だと主張し続け、彼女たちの生涯に重大な影響を与えた。

テキスト ボックス: 写真21 コナン・ドイル出生地。 ドイルの出生地に、彼自身ではなくホームズの像が立っていると知ったら、彼はどう思うだろうか。

 

 

 

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