[8] 聖十字の伏魔殿 〜エジンバラ(3)〜

 

 

ロイヤルマイルの東端に位置するホリルードハウス宮殿(写真25)は、スコットランド歴代国王の住む宮殿だったが、その名とはうらはらに、権謀術数渦巻く伏魔殿であった。

テキスト ボックス: 写真26 ホリルード修道院の廃墟。テキスト ボックス: 写真25 ホリルードハウス宮殿。時は12世紀に遡る。国王デビッド一世がエジンバラ城近くで鹿狩りをしていたときのこと。射られた鹿が興奮して、王の騎乗する馬に向かって突進したため、馬は驚いて王を振り落とした。すると鹿は今度は王をめがけて突進しようとした。そのときそばにいた司祭が、王の母マーガレットの形見である、キリストの十字架の破片を納めた銀の小箱を振りかざすと、鹿は日光の反射に驚いたのか、逆方向に走り去っていった。デビッドはこの地に「ホリルード修道院」を建て、その司祭を修道院長に任命した。

ホリルード修道院を最初に住居とした王は、ジェームズ一世である。1498年ジェームズ四世が敷地内にホリルードハウス宮殿を建設し、以後歴代の王がここを住居とした。1650 年にはクロムウェル軍の不注意により火災が起こっている。現在の建物は、チャールズ二世によって1671 年に再建されたものである。ホリルード修道院は1768年に屋根が崩落し、そのまま廃墟となっている(写真26)。

 

ホリルードハウス宮殿の舞台に立った歴代の王の中で最も異彩を放っているのは、何と言ってもメアリ女王であろう。女王が生まれたとき、父ジェームズ五世は病の床にいた。生まれたのが王子でないと聞いた彼は「娘とともに来た我が王朝は、娘とともに去るのか!」と嘆いたという。これはブルース王家が断絶したとき、スチュアート家がブルースの娘マージョリーを嫁に取ったことで王位を継承したことを指しており、嫡男のないまま死を予期した王は、スチュアート朝の断絶をも予期したのである。王はその6日後に崩御し、メアリは生後6日で女王の座に就いた。

イングランドのヘンリー八世はスコットランド併合を画策し、息子エドワード六世とメアリを婚約させた。だがスコットランドの反イングランド派の反発により婚約を破棄されたため、激怒したヘンリーは1544年軍事侵攻し(粗野な求婚)、ピンキーの戦いでスコットランド軍を撃破した。スコットランドは同盟国フランスに援軍を要請したが、その条件として王子フランソワ二世とメアリを婚約させることになった。

ヘンリーの執拗な要求に危険を感じた母は、メアリを5歳でフランスへ亡命させた。フランス宮廷で育ったメアリはヨーロッパ最高の教育を受け、英語とフランス語のほかラテン語・イタリア語・スペイン語を話し、芸術と乗馬と刺繍を愛した。15歳で結婚し、1559年夫の即位に伴いフランス王妃となる。だが病弱な夫は翌年死去し、メアリは18歳でスコットランドに帰国することになった。

当代最高の教育を受け、若く美しく、陽気で馬術にもたけたメアリは王国各地を巡回した。馬上颯爽と軍勢を率いるメアリの勇姿は人々を魅了してやまず、諸侯が争ってばかりいたこの国も、メアリが王ならきっとまとまることだろうと民衆は期待した。

この若く美しい女王に、デンマーク王、スウェーデン王、フェルラーラ公、ヌムール公など求婚者は後を絶たなかった。最有力候補はスペイン王子ドン・カルロスだったが、カトリックのスペインとスコットランドに挟撃されるのを恐れたイングランド女王エリザベス一世は、これを妨害する一方で、愛人だったレスター伯(ロバート・ダッドリー)と結婚すればイングランドの王位継承権を与えると約束する。だがメアリはこの悪趣味に憤り、結局舞踏会で知り合った、いとこでイングランドテキスト ボックス: 写真27 メアリの寝室に続く秘密の階段。王室の血も引いているダーンリ卿(ヘンリー・スチュアート)と結婚した。これはメアリが恋愛にも政治にも判断力を欠いていることを示している。ダーンリは家柄も良く男前だが、嫉妬深く国政に口出しし、王位を望むようになり、メアリの心は急速に離れていった。

洗練されたフランスの宮廷で育ったメアリにとって、スコットランドはヨーロッパの辺境にしか見えなかった。メアリはフランス宮廷からお抱えの芸術家を連れて来ていたが、その一人にシャストラールという詩人がいた。彼はメアリを讃美する歌を捧げて寵愛を得たが、女王の寝台の下に隠れているのを見つかった。裁判で「前回は思いを遂げた」と語ったため死刑を宣告され、メアリはなぜか処刑に立ち合うことになり、彼が「世界一美しく冷酷な姫君よ、さらば!」と叫んで絶命すると、メアリは泣き崩れたという。

夫との仲が冷え切っていたメアリは、イタリア人音楽家のダビッド・リッツィオテキスト ボックス: 写真28 メアリが食事を摂っていた小部屋。を寵愛するようになった。彼は秘密の階段(写真27)を使って逢瀬を重ねたが、ダーンリ卿の刺客は、リッツィオがメアリと部屋(写真28)で夕食中にその階段を通って乱入し、彼を隣の謁見室(写真29)に連行して、メアリに見えないようにただし聞こえるように羽交い締めにして、リッツィオを順番に剣で56回刺して殺した。妊娠中のメアリをショックで流産させ母子ともに死ねば、自分が王になれると考えたのである。メアリは危機を乗り越え、無事にジェームズ六世を出産した。ジェームズ六世が生涯刃物を嫌ったのはこれが原因と噂された。また彼は父のダーンリに似ておらず、ダーンリは息子の幼児洗礼に欠席している。フランスのアンリ四世は後に「ジェームズはソロモン王にも喩えられよう、彼はダビデの子なのだから」と語っている。

リッツィオ暗殺の後幽閉されたメアリを救出したダルタニアンは、ボスウェル伯(ジェームズ・ヘップバーン)だった。彼は野生味溢れ男らしく、過去の夫たちにはない魅力があった。二人は夫婦同然の生活をするようになる。そして軍最高司令官となったボスウェルの力は絶大となった。そこで国務卿メートランドは、メアリとの結婚をちらつかせてボスウェルにダーンリを殺害させ、その後ボスウェルとメアリを殺人で告発する陰謀をたくらんだ。1567年2月、ダーンリの宿泊するカーク・オ・フィールド(現在はエジンバラ大学)が爆破され、ダーンリが遺体で発見された。だが遺体には外傷はなく、首を絞めた痕があった。誰もがメアリとボスウェルを疑った。

テキスト ボックス: 写真29 リッツィオが殺された謁見室。プレート下の床に血痕が残っている。肖像画はリッツィオ。メアリは独身となったが、ボズウェルには妻がいた。ボスウェル夫妻は曾曾祖母が同一だったため、裁判所は5月7日「近親婚」を理由に結婚の無効を宣言、ボスウェルは515日にメアリとの結婚を強行する。教会はこれに憤り、諸侯も敵意を抱き、民衆も慄然とさせられた。メアリは全てを敵に回したのである。

諸侯はただちに挙兵した。彼らはダーンリの死を表す旗印を掲げ、ダーンリの復讐を果たし、女王と皇太子を君側の奸から救うという大義名分を掲げた。メアリとボスウェルもただちに兵を集めたが、諸侯はみな反乱軍についており、わずかな兵しか集められなかった。

反乱軍はエジンバラ城を落とし、エジンバラ郊外のマッセルバラに軍を進める。メアリはカーベリーの丘(現在はクイーン・メアリーズ山と呼ばれている)に陣を張ったが、兵士たちに戦闘を拒否されてしまう。反乱軍もまた女王に発砲することに恐れを感じ、ボスウェルとの離婚に応じれば兵を引く、さもなくばボスウェルが一対一の決闘に応じよと伝えた。兵力で劣るボスウェルは決闘に意欲満々だったが、たとえ勝っても新たな挑戦者が続々現れるのが目に見えているため、メアリがこれを禁じた。

結局メアリは、自分を丁重に扱うことと、ボスウェルを安全に逃がすことを条件に戦わずして降伏した。二人はこの後二度と会うことはなかった。ボスウェルはデンマークに逃亡して捕らえられ、獄中で発狂して死んだ。メアリはエジンバラに連行されたが、道中見物人が罵声を浴びせた。

「売春婦を殺せ!」「亭主殺し!」

テキスト ボックス: 写真 カーベリー・ヒル古戦場。それは宮廷で大切に育てられたメアリが、初めて聞く言葉であった。

 

 

 

 

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