[7] エジンバラ城物語 〜エジンバラ(2)〜

 

 

 

エジンバラの中心にそびえ立つ岩山の上に、エジンバラ城はある(写真22)。この地に最初に砦を築いたのはブリトン人で、7世紀にサクソン人の王エドウィンが城を築き、彼の名が「エジンバラ」の語源になったとも言われている。

現存する最古の建物は、11世紀に建てられた聖マーガレッツ・チャペル(写真23)である。マーガレットはサクソン王家の出身だが、ノルマン人の侵入を受け海路亡命するところを、偶然スコットランドに打ち上げられ、その美貌からマルコム三世に求婚された。王には妻イーンガボーグがいたが原因不明の死を遂げ、二人は結婚する。敬虔なクリスチャンだった彼女は全てを神の導きと受けとめ、以後テキスト ボックス: 写真22 北から見たエジンバラ城。スコットランドのカトリック布教とイングランド(英語)化に努め、死後聖女に列せられた。彼女は6人の息子を育て、うちエドガー、アレクサンダー一世、デビッド一世の3人を王位に就けたが、ほかに9人の孤児を自分で養育し、必ず孤児たちの食事の世話を先に終えてから自分の食事をしたといわれている。

息子たちに先立たれたマーガレットは晩年弱気になり、エジンバラ城内に質素なチャペルを建て、祈りに専念する日々を過ごし、1093年、夫と長男エドワードがイングランドとの戦いで戦死した4日後、後を追うように他界した。

すると前王の息子たちを差し置いて、前王の弟であるドナルド三世が反イングランドの諸侯に推されて即位した。彼はスコットランドがイングランド風に「堕落」した元凶が兄の妃マーガレットにあると考え、エジンバラ城に安置されている彼女の遺体を奪い、晒しものにしようとたくらんだが、彼女の側近が遺体を別の城に移し、難を逃れテキスト ボックス: 写真23 聖マーガレッツ・チャペル。た。1097年、マーガレットの子エドガーが挙兵し、ドナルド三世の両目をくり抜いて追放した。エドガーはエジンバラ城を王宮として使用した最初の王である。

 

1313年、ロバート一世がイングランド軍の篭るエジンバラ城を攻撃した。彼は難攻不落のこの城を攻めあぐねていたが、以前スコットランド軍のウイリアム・フランクという兵士が、街に住む恋人に会うため密かに城を抜け、岩壁をよじ登って帰っていたという情報を得た。そこでロバートは、フランクの先導で決死隊13名に岩壁を登って侵入させ城を奪還したが、そのとき聖マーガレッツ・チャペルを除く全ての建物を破壊した。現在の城はエドワード三世が再建したものである。

 

城内の宮殿に、ジェームズ六世生誕地(写真24)が残っている。彼の出生はそれ自体が問題の種であり、奇妙な話が伝えられている。彼を生んだメアリ女王は、彼を暗殺者の手から逃がすため、赤子を籠に入れてロープで吊るし、崖下で待つマー伯夫人に渡した。マー夫人はジェームズ六世を殺して自分の子と入れ替え、自分の子をスコットランドとイングランドの王位に就けたというのである。実際1830年、城の地下室で赤子の遺体が入った小さな棺が発見されているが、遺体を包んだ布には“J”の刺繍が施されていた。城壁はビルと違って垂直ではなく傾斜があるため、ロープで渡すなどというのは不可能だが、ジェームズ六世が父親に似ておらず、その血筋を疑われていたことからこのような作り話がされたのだろう。

 

宮殿内のクラウンルームには、王冠・王剣・王笏の三つの宝器が安置されている。クロムウェル軍がスコットランドに侵攻したとき、宝器はエジンバラ城からダノッター城へ移された。そしてクロムウェル軍がダノッター城を包囲すると、グレンジャー夫人によって今度はキンネフ教会の説教壇の床下に隠され、その後の王政復古で再びエジンバラ城に戻された。宝器はチェストに収め鍵をかけて封印されたが、やがて時が経ち宝器の保管場所がわからなくなった。そこでウォルター・スコットが城内をくまなく探させ、1818年地下倉庫でおよそ110年ぶりにテキスト ボックス: 写真24 ジェームズ六世生誕地。宝器を発見したのである。

 

 

 

 

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