[6] フロッデンの衝撃 〜エジンバラ(1)〜

 

 

 

「フロッデン・ウォール」という城壁が、ジョージ・ヘリオットスクールの敷地沿いに一部残っている(写真17)。これは1513年にスコットランドがイングランドとの「フロッデンの戦い」で大敗した後、敵の首都侵攻に備えて急遽造られたものである。

 

ジェームズ三世は芸術を愛し、音楽家や仕立屋など下層階級の者を寵臣として取り立てた。スコットランドの歴史は、諸侯の王に対する反逆の歴史と言って過言ではない。ジェームズ三世は諸侯を政治の中心から遠ざけるため、わざと身分の低い者たちを重用したのテキスト ボックス: 写真17 フロッデン・ウォール。かもしれない。1488年、コールディンガム修道院の税収をめぐって国王と諸侯との対立が激化し、諸侯はついに息子のジェームズ四世をかついで反乱を起こした。両軍はスターリングの南にあるソーヒーバーンで対戦したが、戦況が不利と見るや国王は単騎で戦場を離脱した。

国王がバノックバーンの川を渡ろうとしたとき、馬がこれを拒んで国王を振り落とした。村人がこれを見つけ、国王を水車小屋まで運ぶと国王は、自分は実は国王で、間もなく死ぬから僧侶を呼んでくれと懇願した。村人が僧侶を探しに外に出ると、そこへ国王を追ってきたグレイ卿の部下が通りがかり「私が懺悔を聞いてやろう」と言って、水車小屋に入り国王を刺し殺した。その後ジェームズ四世は父の遺体を見つけると良心の呵責に苛まれ、水車小屋の壁にかかっていた馬具鎖をとっさに腰に巻いて「死ぬまでこれを着けて暮らす」と宣言した。このエピソードは長い間フィクションだと考えられていたが、王室会計録には年々「王の鎖の継ぎ輪一ついくら」と記録されている。これはジェームズ四世が中年になってウエストが太くなったことを示しているものと思われる。

 

ジェームズ四世は政治にも学問にも優れた理想的な君主で、会う人はみな彼に魅了された。彼はエジンバラにホリルードハウス宮殿を建設して首都機能を整備し、さらに300門の大砲を搭載する軍艦グレイト・マイケル号を建造して海軍力の増強につとめた。またマクドナルド氏族を服属させハイランドを平定したが、それには彼らの言語であるゲール語を話すジェームズ四世の学識によるものが大きかった。彼はほかにラテン語・フランス語・ドイツ語・イタリア語・スペイン語・フランドル語を操り、音楽や医学にも強い関心を示した。彼が創設したアバディーン大学は、イングランドにもなかった医学部を持っていた。ジェームズ四世は自ら抜歯の実験も行っている。

 

教皇ユリウス二世の提唱により、対フランス神聖同盟が結成された。そしてイングランドがフランスに侵攻すると、フランスは同盟国のスコットランドに「3フィートでいいからイングランドに侵攻してほしい」と要請した。ジェームズ四世は全ての騎士に出陣を命じ、通説によると10万近い大軍を率いてイングランドに侵攻し、各地の城を次々と落としていった。国王は途中フォード城に入ったが、城主の妻エリザベス・ヘロン夫人をいたく気に入り、そこに不必要に長く滞在した。彼女の夫は、その弟に殺人容疑がかけられたため囚われの身となっていたのである。夫人は国王に「鎖が当たるので取り外してほしい」と懇願したと言われている。

このような大軍は莫大な兵站を必要としたが、国王がフォード城で無駄に日々を過ごしたため、食糧の不足が深刻となり、何万人かの兵士が国元に引き揚げ、そして帰って来なかった。こうしてスコットランド軍は兵力を減少させたが、それでもまだ4万近い大軍をフロッデンの丘陵地帯に布陣させた。だが2万6千の軍を率いる敵将サーレー伯は狡猾だった。スコットランド軍に見えるようにわざと軍を分割し、敵に各個撃破するため有利な布陣を捨てて出撃するよう誘ったのである。案の定スコットランド軍は丘を下って来て、平地での戦いとなった。ジェームズは己の有能さを誇示しようと、騎士道精神に則り前線での一騎討ちを挑んで戦死した。彼の遺体はロンドンに運ばれたが、鎖は巻きついてなかったという。スコッチたちの中には、ジェームズが死んだのは「死ぬまではずさない」と誓った鎖をはずしたからだと信じている者もいるが、専門家はジェームズがヘロン夫人に軍事機密を漏らしたからだと主張している。

 

エジンバラのHigh St.に、“World’s End”という大袈裟な名前のパブがある(写真18)。その店の前の道路上に真鍮で印がついているのは、フロッデン・ウォールがあった跡である。つまり、かつてはここがエジンバラの終わりだったのだ。

テキスト ボックス: 写真18 The World End。

 

 

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