[12] ダラム死の行進 〜ダラム〜

 

 

 

 

 クロムウェルは、スコットランド軍の敗残兵が再組織され、再び牙をむいて来るのを恐れた。そこでダンバーから逃走する敗残兵を徹底的に捜索し、捕虜とした。

捕虜になったスコットランド兵は1万人以上に及んだが、イングランド軍は1万人程度であったから、多すぎる人数を捕虜にすることにはリスクがあった。そこで、重傷者5000人を解放し、残りの5100人に、徒歩で190キロ先のダンバーに行くことを命じた。

行進は、9月4日の夜明けから始まった。イングランド軍には5100人もの捕虜に与える食糧はなかったし、付近の住民から食料を受け取ることを禁じた。捕虜たちは、路傍の水たまりで喉の渇きをいやした。逃亡を試みた者もいたが、そのほとんどは無慈悲に殺された。運良く見つからなかった者たちものたれ死にし、国に帰れた者は皆無だった。

捕虜たちはモーペスに着くと、キャベツ畑に野宿させられた。飢えた捕虜たちは、キャベツを根まで齧りつくし、木の葉や小枝まで食べた。やがて食あたりを起こす者が続出し、赤痢が蔓延した。ニューキャッスルの聖ニコラス教会にたどり着いたとき、捕虜の数は3100人になっていた。

翌朝の出発の時刻には、140人が冷たくなったまま動かなくなっていた。9月11日の夜、スコットランド兵捕虜たちがダラム大聖堂に着いたとき、彼らの数は3000人にまで減っていた。

主教戦争に勝利したスコットランド軍は1640年、ダラム州を占領下に置いた。テキスト ボックス: 写真 ウィアー川から見るダラム大聖堂(右)とダラム城(左)。彼らは軍を駐留させる費用を請求し、支払いが遅れると、見せしめに大聖堂のオルガンを破壊した。その10年後にスコットランドの捕虜が大聖堂に連れて来られたとき、教会はわずかな食糧を支給しただけで、燃料は支給しなかった。その食糧も警備の者に奪われ売り飛ばされたので、深刻な食糧不足が起こった。

冬が近づくと、捕虜たちは暖を取るため、聖堂内の椅子などあらゆるものを燃やした。「キャステル院長の時計」が奇跡的に燃やされなかったのは、その上部にスコットランドの国花アザミの模様が刻まれていたからだろう。やがて捕虜たちは、衣服を奪うため殺し合うようになった。

捕虜たちはまた、食料を手に入れるため、身につけていた貴金属類を売った。金目のものを身につけている者が、複数の捕虜に襲われることもしばしばあった。大聖堂には、この一帯を領有したネビル男爵家の墓があったので、捕虜たちは副葬品を奪うため墓を暴いた。ネビル男爵は、スコットランドが大敗し国王デビッド二世を捕虜に取られた、1346年のネビルス・クロスの戦いに功績のあった人物である。

テキスト ボックス: 写真 キャステル院長の時計。10月末までには、飢えと寒さで1600人が死亡し、捕虜の数は1400人になっていた。彼らはアメリカやバルバドス島の植民地に、労働力として売り飛ばされた。

ほんの1か月ばかりの間に、1600体も発生した大量の死体の処理をどうしたのかは、記録にないため長い間歴史の謎とされてきた。1946年、セントラル・ヒーティング・システムを導入するため大聖堂の地下を掘っていたとき、大量の人骨が出土した。これらの遺体は無造作に積み重ねられており、彼らが棺もなく葬儀も行われず、ゴミのように投げ捨てられたことは明らかだった。彼らは愛する家族の眠る故郷を遠く離れ、名前を刻まれることもなく、今もこの地に眠っている。

テキスト ボックス: 写真 ダラム大聖堂内の捕囚記念碑。

 

 

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