[10] 愛妻に城を建てた男−ダンズミュア帝国の興亡

   Robert Dunsmuir     (1825−1889)

    James Dunsmuir     (1851−1920)

    Alexander White Dunsmuir(1853−1900)

 

ビクトリア郊外に今も残るクレーグダロック城を訪れる人は多い。愛する妻のために建てられたというこの城に、ロマンチックな幻想を抱く人も多いだろう。しかし、実際の彼らの生きざまはどのようなものであったか、これは石炭王と呼ばれたロバート・ダンズミュアとその一族が辿った「実話」である。

 

 ロバート・ダンズミュアはスコットランドのハールフォードで生まれた。「ロバート・ダンズミュア」の出生証明書は存在せず、両親が誰なのかも不明だが、鉱夫の子だといわれている。彼は叔父のボイド・ギルモアとその妻ジーン・ダンズモア(Dunsmore)に育てられたが、ダンズミュアの姓もここから来ているものと思われる。養父母の姓がなぜ異なるのかなど、彼の出生については謎が多い。

ロバートはキルマーノック・アカデミーを卒業後、ハドソンベイ社の鉱夫となり、1851年ブリティッシュ・コロンビア州ナナイモ(バンクーバー島)に移住する。このとき故郷を離れるのを嫌がった妻ジョーン=オリーブに、将来スコットランドの城を建ててやると約束してなだめた。だが夫はそのとき貧しく、妻はその言葉を本気にはしていなかった。

 金鉱を探していたロバートは、1854年ナナイモ炭鉱を偶然発見し、2,340ヘクタールの借地権をテキスト ボックス: ロバート・ダンズミュア。得て、炭鉱経営を開始した。1869年にはウェリントン炭鉱を発見するが、海岸から5キロしか離れていなかったため巨万の富を築き上げ、その近くに社宅と5キロの鉄道のある街をつくった。そのため鉱夫たちがカナダのみならずアメリカ、イギリス、イタリアなどから続々押し寄せ、ウェリントンの街はにぎわった。

 しかしそのような福利厚生の一方で、彼は組合を徹底的に弾圧し、ストライキに参加した従業員を社宅から追い出し、不況のときは容赦なく解雇や賃金カットを断行し、政府の安全点検を拒否するなど暴君であった。このような経営姿勢に対し1871年、1874年、1876年と立て続けにストライキが起こり、1877年のストライキでは、彼の要請で軍隊から51人の兵士を動員し、投石して抵抗する組合員との間で乱闘となり、おびただしい数の負傷者を出した。この事件の結果組合側の10人が起訴され、1人が投獄された。ストライキに参加した従業員は二度と雇われることはなかった。そして相次ぐストライキに業を煮やした彼は、以後中国人を積極的に雇うようになる。彼らのほとんどは英語が不自由で、坑内の標識を読むこともできず危険な存在だったが、低賃金でよく働いた。

 1879年サウスウェリントン炭鉱社を買収し、1884年アレクサンドリア炭鉱を開き、1895年イーストウェリントン炭鉱を買収。1886年にはアメリカの鉄道会社とともにエスカイモルト&ナナイモ鉄道(115キロ)を完成させ、政府から報酬として75万ドルと80,940ヘクタールの土地を与えられ、バンクーバー島の約4分の1を所有し「ダンズミュア帝国」と呼ばれた。

 ロッキー以西で最も裕福であり、炭鉱、土地、鉄道、住宅、新聞社、海運会社、製材所などを所有して、市長をも凌ぐ実力者だった彼は、1882年ナナイモの代議士に当選し、政界と財界の両方でその権力を大いにふるって敵を多く作った。一度は石炭の計量をごまかしたかどで告訴され、また晩年は毎月のように脅迫状を送りつけられた。

 彼はその生涯で息子ジェームズ、アレクサンダー=ホワイト、娘エリザベス=ハミルトン(ブリーデン夫人)、アグネス=クルックス(ハービー夫人)、メリアン=ジョーン(ヒュートン夫人)、メアリー=ジーン(クロフト夫人)、エミリー=エレン(スノーデン夫人、バローズ夫人)、ジェシー=ソフィア(マスグレーブ夫人)、アニー=ユーフェミア(ゴー=カルソープ夫人)、ヘンリエッタ=モード(チャップリン夫人)を生んだ。晩年にはビクトリアに約束の城の建設を始め、民謡アニー・ローリーにちテキスト ボックス: クレーグダロック城(ビクトリア)。なんでクレーグダロック城と名づけたが、1889年の完成を見ることなく世を去った。未亡人ジョーンは娘たちが嫁に行くのを見届けてから、65万ドルを投じて建てられた城に、1908年に世を去るまで一人で暮らした。

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 バンクーバー島で生まれた最初の白人である次男アレクサンダーは、幼少のころから利発で、級友たちからも一目置かれる存在だった。兄ジェームズとは仲良しだったが、兄がアメリカに留学していたためよく長男に間違えられたという。1878年から父の事業を手伝い、サンフランシスコの事務所で勤め始め、商才を遺憾なく発揮し、両親は彼を後継ぎにしようと考えた。だが下宿先のウォーレス家の人妻ジョゼフィン=ウィルバーと道ならぬ恋に落ちる。彼女は離婚し、前夫との子エドナーとともにアレクサンダーは新しい生活に入るが、母ジョーンに結婚を反対されたため酒に溺れていき、次第に人格に変調を来していった。エドナーは新しい、そして酒乱の父親に全くなつかないばかりか、世間の白い目に耐えきれず家出を決心する。このときアレクサンダーは、

「お願いだから出て行かないでくれ。パパとママといっしょにいてくれ。欲しい物は何でも買ってやテキスト ボックス: アレクサンダー・ダンズミュア。るから。ジェームズおじさんに頼んであげるから」。

と泣いて懇願したが、娘の決心が固いことを知ると、

「どんな手を使ってでも止めてやる。どうしても出て行くって言うなら、自分の生活の面倒は自分で見るんだな。どうだ、それなら出て行けないだろう。─(猫なで声に変わり)でもこの家にいるなら何でも買ってやるぞ」。

かつて級友たちから尊敬された人柄は、もはやその面影すらなかった。

 アレクサンダーが裕福な生活を送れたのは会社があったからで、ジョゼフィンと結婚すれば母に会社を追放されることは目に見えていた。それでロバートが死亡したときもジョーンは遺産を息子たちには譲らなかった。しかし弟の苦境を見かねた兄ジェームズのはからいにより、兄弟たちはエクステンションおよびウェリントン炭鉱と鉄道を譲り受け、アレクサンダーはようやく1899年、18年の内縁関係に終止符を打って極秘に結婚する。彼は正式に妻となったジョゼフィンのため、オークランドにギリシア風の白亜の豪邸「ダンズミュアハウス」を建てるが、激怒した母についに勘当されてしまう。2人はニューヨークへ新婚旅行に出かけるが、すでに重症のアルコール中毒となっていたアレクサンダーは、汽車の中で様態が急変し、わずか40日の結テキスト ボックス: ダンズミュアハウス(オークランド)。婚生活を残し48歳の若さで生涯を閉じた。ジョゼフィンは4万8千坪の土地に建てられた部屋数37の豪邸に一人で暮らすことになったが、そのわずか1年後に死亡した。

 アレクサンダーが莫大な遺産を兄に譲る遺言状を残したため、ジェームズは母と姉妹たちを相手に骨肉の法廷闘争を繰り広げることとなった。母ジョーンはあれほど忌み嫌っていた未亡人ジョゼフィンと団結し、裁判でウェーター、バーテンダー、駅員、コールガール、しまいには精神科医など役に立たない証人を80人以上も集めて世の失笑を買った。最後は英国枢密院にまで提訴したが、ジョゼフィンが1901年に病死し、1906年ついに城主とその娘たちの敗訴が確定した。

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 長男ジェームズSr.は、両親のバンクーバー島への移住の途中、ワシントン州バンクーバーに生まれる。この金髪の珍しい赤子は、よくインディアンに盗まれたという。16歳で機械工見習いとなり、バージニア兵学校を出た後父の事業を継ぐ。彼も父と同じように組合を弾圧し、東洋人を好んで雇った。1900年エクステンション炭鉱とレディスミス炭鉱を開き、オイスター湾岸を開発。ウェリントンにある教会諸派に多額の献金をして発言力を持ち、諸教会をレディスミスに移したためレディスミスはブームタウンとなり、ウェリントンは人口が激減していった。

 彼は1898年保守党に入り政界へ進出、1900年から1902年までブリティッシュ・コロンビア州首相、1906年から1909年まで副総督を務める。だがこれは、ヨットと狩猟が好きで内向的な彼の本意ではテキスト ボックス: ジェームズ・ダンズミュア。なく、社交好きな妻ローラの希望だったという。1908年に建てられたハトリー城の中で、妻は婦人解放運動、チャリティー、教会活動などにいそしんだ。

 こうして政界と財界の頂点に立ったジェームズSr.の前に、エネルギー革命の波が静かに押し寄せていった。石炭はその地位を石油に奪われつつあり、コストは上昇し、炭鉱は枯渇しつつあった。彼は1905年エスカイモルト&ナナイモ鉄道をカナダ太平洋鉄道へ、1911年には炭鉱をカナダ炭鉱へそれぞれ売却し、実業界から身を引いた。帝国はその終焉に近づきつつあった。

 ジェームズSr.はその生涯で息子ロバート=ウイリアム(18771925)、アレクサンダー=リー(18861887)、ジェームズJr.18931915)、娘セーラ=バード(オーデイン夫人)、ジョーン=オリーブ=ホワイト、エリザベス=モード(ホープ夫人)、ローラ=メイ(ブロムリー夫人)、エミリー=エリナー、ジョーン=メリオン(スティーブンテキスト ボックス: ハトリー城(ビクトリア)。ソン夫人)、ジェシー=ミュリエル(モリュネー夫人、ウィングフィールド夫人、ケース夫人)、キャサリン=ユーフェミア(ハンフリーズ夫人)ドーラ=フランセス(キャベンディッシュ夫人)を生んだ。彼は一滴の酒も飲まず、家庭を愛する父親であり、末娘ドーラと、長女の息子ジェームズ=ガイ=ペインとともに階段を駆けずり廻る「インディアンと熊」ごっこが大好きだった。ある日副総督官邸を訪れた人が、子供と間違えられて、いつも暖炉の上に飾ってあるはずの熊の毛皮を着た副総督が、物陰からいきなり飛び出してきて、対応に困ったという逸話がある。

 ジェームズの娘たちはみなイギリスで学び、その後ドイツで音楽を学んだ。ヨーロッパの洗練されたファッションに身を包んで帰国した娘たちは、「ダンズミュア・キッズ」と呼ばれ人々の羨望テキスト ボックス: ハトリー・パークの日本庭園(ビクトリア)。の眼を受けた。ジェームズは娘たちに、家柄が高くかつ能力のない人物と結婚することを望み、そしてほとんどの娘たちはその期待に応えた。

トランプとスコッチウイスキーが好きだった帝国の始祖ロバートの血は、疑いもなく孫たちに受け継がれており、特に五女エリナーは、女性が賭け事をするのがまだ珍しかった時代に、ショートカット、ビロードの黒いジャケットに短いスカートを履いてモンテカルロ、ニース、カンヌのカジノに出入りし“La Riche Canadienne(裕福なカナダ婦人)”と呼ばれていた。しかし彼女は倍率も知らずに賭けていたほどお粗末で、大金を使い果たし、支払い請求がビクトリアの実家に山のように届けられ、危うく投獄されるところを、姉の夫で海軍大将のブロムリー氏に肩代りしてもらうはめになり、実家へ連れ戻された。

姉エリナーの悪影響か、若くして夫を亡くした六女メリオンと、最初の夫と別れた七女ジェシーはパリのナイトクラブに入り浸り、出演する下積み芸人たちにお金を湯水のように与えた。彼らにとってこの石炭王の娘たちは金山のように見えたことだろう。しかし1929年のウォール街の株式暴落は「ダンズミュア・キッズ」にとってもただごとではなく、2人ともビクトリアの母のもとに連れ戻された。

八女キャサリンは映画に夢中になり、ブリティッシュ・コロンビア最初の有声映画の製作で巨額の損益を計上した。また九女ドーラは、移り気な俳優タルラー・バンクヘッドの面倒を見ることに40年の歳月と莫大な資産を費やした。だが12人の子を生んだその母ローラに至ってはさらにたちが悪く、男性を相手にトランプの「500」で賭けるのが好きだったが、相手は負けた場合夜の相手をさせられたという。

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 ジェームズSr. の長男ロバート=ウイリアムはサンフランシスコの事務所に勤め、23歳で結婚するが、ビリヤードの腕はプロ級という彼は若いころからの放蕩癖が直らず、14年で離婚し、親の怒りをかってカナダ追放の身となり、アルゼンチンに住んだ。彼は3年後に再婚し、3人の娘を生んだ。

 ロバート=ウイリアムは1922年、ペルー政府から4000キロの鉄道敷設を依頼され、蒸気船モーリタニア号の上で商談することになった。最初の2日はうまく運んだ。だが3日目に酒を出されたのが悪く、商談が成立したとき、彼は興奮して船内を走り廻り、海へ飛びこもうとして取り押さえられるという失態を演じた。商談はご破算となり、あきれた母によって彼は会社のポストからはずされ、妻子とも引き離されシンガポールに追放され、残りの生涯をホテルで孤独に過ごした。

 次男を幼くして亡くした父ジェームズSr.の関心は、三男ジェームズJr.に向けられた。モントリオールの銀行に勤めていた彼は堅実な性格で、親に金を無心することもなく、父は彼を後継ぎにしようと考えた。だが第一次大戦中の1915年、ルシタニア号がドイツ潜水艦に撃沈され悲運の死を遂げる。ビクトリアのクラブで飲んでいた兵士たちはそのニュースを聞いたとき、屋根にユニオン・ジャックを掲げ、愛国的な歌を歌い「ドイツに乾杯!」と叫んだという。

最愛の息子に先立たれ、出来そこないの長男を抱えたジェームズは悩みと失意のうちに5年後世を去った。長男ロバート=ウイリアムは男子がないまま世を去り、ここにダンズミュアの家は断絶する。なおアレクサンダーの継子エドナー・ウォーレスはブロードウェイで有名な女優となり、コメディアンのド=ウォルフ・ホッパーと結婚した。またジェームズSr.の長女セーラ・オーデインの長男ジェームズ=ガイ=ペイン・オーデインは後に作家となり、「炭鉱から城へ」「アレックス・ダンズミュアのジレンマ」などの作品を書いているが、この中で5歳のとき初めて曾祖母ジョーンをクレーグダロック城に訪ねた思い出について、「建物の雰囲気といい、こんなところに一人で住んでいる老婆といい、いかにも異様で、とにかく早く家に帰りたかった」と述べている。余談だが、クレーグダロック城は映画「キャッツ&ドッグス」で、世界征服を企む猫の首領の棲家としてロケに使用されている。

 

 城主ジョーンが死亡した後、娘たちはクレーグダロック城に住みたいとは思わなかった。城の敷地はグリフィス・ヒューズ氏が購入し、144の区画に分割して販売した。城は区画を購入した者へのくじの賞品となり、ソロモン・キャメロン氏が当選したが、彼はほかの土地を購入するため城を抵当に入れ、しかもビジネスが成功しなかったためモントリオール銀行へ抵当流れとなった。第一次大戦中は病院として使用され、その後ビクトリア市が購入してビクトリアカレッジ、次いでビクトリア教育委員会となり、1994年クレーグダロック城歴史博物館に1ドルで売却された。

アレクサンダーの残したダンズミュアハウスは、ジョゼフィンの死後その娘エドナー・ホッパーが相続するが、維持費がかかりすぎるため、1906年にネバダ・ナショナル銀行頭取の息子アイゼアス・ヘルマンJr.氏の別荘となり、オークベールパークと改称されるが、地震で損壊した後放置された。1962年に市の所有となり、研究協議センターとして使用され、一帯はサウサーパークと改称されたが、1989年からダンズミュアハウス&ガーデンズ社に無償で貸与されている。ダン・カーチス監督はダンズミュア家にまつわる因縁が気に入り、家が人を食うというホラー映画「家」の舞台とテキスト ボックス: 1976年の映画「家」。してダンズミュアハウスを選んだ。なおアレクサンダーがジョゼフィンと出会った町プッシャーは、1886年ダンズミュアと改名された。ジェームズの残したハトリー城は、ハトリーパークとともに今日ロイヤル・ローズ大学が占有している。

 ナナイモ、サウスウェリントン、エクステンション、レディスミスの各炭鉱はダンズミュア家の手を離れた後もずさんな安全管理の中で事故を続発させ、1912年2年間に及んだ“The Great Strike”が起こり、このときも経営者側は軍隊を導入している。ストライキ終了後、参加者は復職を許されなかったため街を去り、炭鉱の街の衰退に拍車をかけた。各炭鉱はいずれも1930年代に閉鉱した。

 

 

 

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