[2] スコットランドの古都 〜ダンファームリン〜

 

 

 

マルコム・カンモアは、父を殺して王位を簒奪したマクベスを殺し、1058年マルコム三世として即位した。ダンファームリンに首都を移したのは彼である。ダウンタウンの西に、宮殿の廃墟が残っている(写真5)。16世紀にエジンバラに遷都するまで、この町が事実上の首都であった。

宮殿の隣には、マルコム三世の妃マーガレットが建てたダンファームリン・アビーがある(写真6)。かつてアイオナ島にあった王族の墓も、この地に移された。ロバート・ザ・ブルースもこの地に埋葬されており(心臓だけはメルローズ・アビーにある)、修道院のてっぺんには“BRUCE”“KING”の文字が見える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

テキスト ボックス: 写真5 ダンファームリンの宮殿廃墟。テキスト ボックス: 写真6 ダンファームリン・アビー。

ダンファームリン・アビーのすぐ近くに、鉄鋼王アンドリュー・カーネギー(1835−1919)の生家(写真7)がある。父は手織職人だったが、産業革命によって機械織が進むと貧困に喘ぐようになり、1848年アメリカのピッツバーグへ移民する。カーネギーは13歳から木綿工場で週給1ドル20セントで働くが、木造の橋を鉄製に換える鉄橋会社と製鉄所を創業し、アメリカの鉄鋼の約25%を支配する鉄鋼王となった。

その一方で彼は労働組合を支持する論文を発表し、1889年には「富裕層は社会に奉仕する責任がある」と説いた「富の福音」を出版するなど、庶民のために尽くそうと努力する。ところが1892年、彼の旅行中に製鉄所でストライキが起こり、部下が州政府に軍隊の派遣を要請して12名が死亡する惨事となった。傷ついた彼は以後「金持ちのまま死ぬのは恥である」と称し、さまざまな慈善活動に乗り出す。カーネギー・ホール、カーネギー・メロン大学の創設のほか、世界に2811の図書館を寄贈した。

彼は平和運動にも熱心に取り組んだ。1913年オランダのハーグに「平和宮殿」(現国際司法裁判所)を設立し、また宗教団体を糾合して「チャーチ・ピース・ユニオン」(現カーネギー倫理・国際問題評議会)を結成するが、1914年8月1日ドイツで会議が開催される当日にドイツがベルテキスト ボックス: 写真7 アンドリュー・カーネギー生家。ギーに侵攻し、失意を味わう。彼の日記は、その日を最後に終わっている。

 

 

 

 

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