[11] スコットランド、まさかの敗戦 〜ダンバー〜

 

 

 

 

長老派教会の司教が1640年、日曜日にゴルフをするという「許しがたい罪」を犯したため、懲戒処分を受けた。その地は今はダンバー・ゴルフクラブとなっているが、10年後の1650年には、スコットランドにとって忘れることのできない、圧倒的優位な形勢からまさかの敗北を喫し、イングランドの属国となる運命を決定づけたあのダンバーの戦いの舞台となった。今では考えられないことだが、スコットランドは宗教上の理由から日曜日に戦うことができず、敵に不意を突かれたのだった。

 

それはまだ、人々が宗教を理由に戦っていた時代のことである。チャールズ一世は、スコットランドにも国教会の祈祷書を押しつけようとしたが、長老派が多数を占めるスコットランドはこれを拒否し、イングランドとの主教戦争に発展した。チャールズ一世は戦費調達のため議会を召集するが、議会と鋭く対立し、イングランド内戦に発展する。スコットランド軍は、敵の敵であるイングランド議会派とともに王党派と戦った。敗れたチャールズ一世はスコットランドに降伏するが、ニューキャッスルの提案を拒否したためイングランド議会に引き渡された。

ところがチャールズ一世は脱出し、第二次イングランド内戦をひき起こす。イングランドはここに至り、1649年ついにチャールズ一世をバンケティング・ハウス前で処刑し、王制廃止と共和制樹立を宣言した。

スコットランドは、スチュアート家のチャールズ一世が処刑されたことに衝撃を受け、イングランドへの不信感を抱いた。チャールズ一世の子でオランダに亡命していたチャールズ二世は、スコットランド長老派の「厳粛なる同盟と盟約」を受諾することを条件に、スコットランドの王位に就くことに同意した。もっとも彼はカトリックだったから、それはスコットランドの力を借りてイングランド王位を取り戻すための方便にすぎず、目的を達成したら「強勢されたもので本意ではなかった」として撤回すればいいと考えていた。そしてスコットランドも、チャールズ二世を担いでイングランドに侵攻し、彼を王位に就けたあかつきには、イングランドに長老派の形式を押し付けようと目論んでいた。

テキスト ボックス: 写真 チャールズ一世処刑の地。1650年6月23日、チャールズ二世はスコットランドに上陸し、「スコットランド・イングランド・アイルランドの王」として即位する意向を表明した。ところがイングランド議会も偶然にも同日、チャールズ二世を国家の敵と認定し、スコットランドへの軍事侵攻を決定した。オリバー・クロムウェルが司令官に任命され、1万6000人のニューモデル軍を率いて7月22日、何の抵抗もなしに国境を越え、スコットランドに侵入した。ニューモデル軍は、わずかな食糧・弾薬と将校用のテント100個とともに陸路を北上し、補給は船で行うこととした。

そのころスコットランドでは、王の不在に乗じ、長老派の狂信的セクト「カーク党」が実権を掌握していた。彼らは、公共の場でswear wordを口にするような「不信心な者」を、政府と軍から追放した。歴戦の将校たちや経験豊富な兵士たちがいなくなり、スコットランド軍はわずか6000人にまで減った。そこでイングランドの侵攻にあたり、カーク党は新たに徴兵して2万3000人に増やしたが、その多くは新兵だった。

スコットランド軍司令官のデビッド・レスリー将軍は、2倍の兵力があるにもかかわらず、直接交戦すれば不利とみて、エジンバラ周辺に長大な塹壕を築いて、平時はそこに籠り、機を見てゲリラ戦を仕掛けるようにした。彼はイングランド軍が補給できないよう、国境から首都エジンバラまでの農作物を徹底的に焼き払い、家畜を処分する焦土戦術を採用した。

イングランド軍はスコットランド軍を捕捉できず、決定打を与えることができないまま、歳月を浪費した。やがて食糧が底を尽き、パンと水だけを食べる日々が続いた。その年の夏は寒く、雨が続き、赤痢が蔓延して5000人もの兵が倒れた。8月28日、イングランド軍は補給のためマッセルバラの港に到着したが、港が小さく、荒れた天気では危険なため、ダンバーの港へ向かった。するとスコットランド軍はついに塹壕を出て、先回りしてダンバーを見下ろすドゥーン・ヒルの丘の上に布陣した。イングランド軍の動きは、丘の上から丸見えである。

クロムウェルは、進退極まった。彼には2つの進路があった。一つは、血路を開き陸路を南下する選択である。だがドゥーン・ヒルの東端が海岸近くまで迫っており、街道は海と丘の間で狭くなっている。イングランド軍がここを通過すれば、スコットランド軍に丘の上から側面を突かれ、甚大な被害を生むことになる。もう一つは、ダンバーの港に行き船で撤退する選択である。この場合スコットランド軍に背後から追撃されるため、しんがりを置かなければならないが、しんがりは船が出港したあと置き去りにされるため、玉砕するしかない。馬や荷物を積む余裕はないから、遺棄することになる。よってどちらの道テキスト ボックス: 写真 スコットランド軍が本営を置いたドゥーン・ヒル。を選んでも、被害は大きい。かと言ってこのまま滞在を続けても、病人が増えるだけで、座して死を待つようなものである。

クロムウェルは、ニューキャッスルの知事に手紙を書いた。

「我々は、非常な困難の中にいる。敵はコッパースパスへの退路を遮断しており、奇跡でも起きないかぎり脱出は不可能である。そしてここに滞在を続けても、兵士たちが想像を超える早さで日々倒れていくばかりだ。どうすれば良いかは、神のみぞ知るところである。」

彼はもはや、神に祈るしかなかった。

 

9月1日、イングランド軍が病人と負傷者を船に運んでいるという情報が入った。レスリーは、逃げ腰の敵を背後から叩く絶好のチャンスと、即時の攻撃を主張した。だが軍を監督するカーク党の司教たちは、これを聞いて凍りついた。その日は日曜日だったからである。安息日に血を流すなど、もってのほかであった。

もっともスコットランド軍は、丘の上の補給困難な地にいつまでも滞在できるわけではなかった。教会は徴兵した兵士に日当を払っていたので、戦が長引くのは好ましくなかった。あくまで即時攻撃を主張するレスリーに配慮して、司教たちは折衷案として、2日に丘を下って野営し、翌朝総攻撃にかかるよう命じた。スコットランド軍の布陣はイングランド軍の射程距離外にあり鉄壁だが、スコットランド軍にとってもイングランド軍は射程距離外だから、攻撃するには今の有利な陣を捨て、丘を下らなければならなかった。

2日午後4時ころ、スコットランド軍はまだ明るいうちに、イングランド軍の見守る前で丘を下った。敵のおよそ2倍にあたる2万3000の大軍は、ブロックスバーン川に沿って2400メートルの弧を描くように布陣した。中央に歩兵隊、両翼に騎兵隊を配置したのは、数の優位を意識した敵を包囲する体制である。

クロムウェルは、我が目を疑った。今目の前で起こっている光景は、神が起こした奇跡としか思えなかった。スコットランド軍は、ドゥーン・ヒルとブロックスバーン川の間の狭い位置に布陣していた。ドゥーン・ヒルは西へ行くほど川に迫っており、スコットランド軍左翼は、大テキスト ボックス: 写真 イングランド軍本営跡。軍が展開するには狭すぎる地を占めていた。いっぽう右翼では、川とドゥーン・ヒルの間には十分な間合いがあった。もしクロムウェルが兵力の大部分を割いてスコットランド軍右翼を包囲攻撃しても、スコットランド軍は左翼の遊兵を右翼に移動させることが難しいだろう。

クロムウェルはただちに軍議を開き、夜明け前の奇襲を表明した。スコットランド軍左翼と中央を釘付けにするため、イングランド軍の右翼と中央には最小限の兵力を配置する。そして主力のほとんどは左翼に置き、スコットランド軍右翼への集中攻撃を企図した。歩兵隊と騎兵隊の境目が特に弱いので、そこを重点的に攻撃するよう指示した。

その夜はひどい暴風雨となった。スコットランドの将校たちは、翌朝の勝利を確信しながら、前線から少し離れた農家に宿泊した。スコットランド軍兵士たちは、彼らのマッチを消し、彼らの武器と鞍を積み重ねた。イングランド軍は夜陰と暴風雨にまぎれ、スコットランド軍に気づかれることなく接近した。

 

3日4時ころ、イングランド軍は日の出を待たず「万軍の主よ!」と叫びながら攻テキスト ボックス: 図 ダンバーの戦いにおける両軍の動き。撃を開始した。不意を突かれたスコットランド軍は混乱したが、自軍の方が数が多いことを思い出し、持ちこたえていれば必ず援軍が来ると信じて、必死に防戦した。夜が明けるころには、スコットランド軍は体勢を立て直し、イングランド軍の攻勢をはね返していた。

そのとき、雲の間から朝日が差し込んだ。クロムウェルはここが勝負どころと見て、疲労したスコットランド軍右翼に切り札の鉄騎隊を差し向けて、こう言った。「神よ、今こそ立ち上がり、その敵を散らしたまえ!」(詩篇68編1節)

スコットランド軍右翼は、正面と側面から同時に攻撃を受け、たまらず総崩れとなった。スコットランド軍中央と左翼は、右翼が崩壊するのを見て、戦わずして敗走を始めた。こうしてダンバーの戦いは、2時間で終わった。スコットランド軍の戦死者3000人に対し、イングランド軍の戦死者はわずか400人であった。

イングランド軍騎兵隊は、詩篇117編を歌いながら落ち武者を狩りを行い、1万1000人を捕虜とした。多大な兵力を失ったレスリーには、首都エジンバラの防衛はもはや不可能だった。彼はダンバーの生き残り4000人とともにスターリングに落ち延び、エジンバラの街は占領された。エジンバラ城はイングランド軍の包囲に12月まで耐えたが、ついに降伏した。

ダンバーの戦いはスコットランドに、スターリング橋やバノックバーンに匹敵する栄光をもたらすはずだった。イングランド軍が作戦の秘匿と戦力の集中によって2倍の兵力を撃破したのに対し、スコットランド軍は敵に丸見えの状態で布陣するという失態を犯した。ダンバーの戦いが実際にもたらしたのは、史上かつてなかった、イングランドによるスコットランドの併合という屈辱であった。

 

 

 

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