[2] 悪党ドンネリー一家─その伝説と真相

   James Donnelly Sr.       (1816−1880)

   Johanna Magee Donnelly    (1823−1880)

   James Donnelly Jr.      (1842−1877)

   William Donnelly       (1845−1897)

   John Donnelly        (1847−1880)

   Patrick Donnelly       (1848−1914)

   Michael Donnelly       (1850−1879)

   Robert Donnelly        (1853−1911)

   Thomas Donnelly       (1854−1880)

   Jane Donnelly(Mrs. Curry)  (1858−1917)

 

 ジェームズ&ジョハンナ夫妻はアイルランドのティッペラリーに生まれ、1841年に結婚。1844年カナダに移民し、1847年からオンタリオ州ルーカン郊外のビッドルフに住み、8人の子を生んだ。だがこの10人家族は、30年近くに亘ってこの地域の脅威であった。

 ジェームズSr.は、1857年パトリック・ファーレルに暴行を加え死に至らせ、死刑判決を受けるが、後に懲役7年に減刑されキングストン刑務所に服役した。1861年にはウイリアムとジョハンナが窃盗で起訴される。1869年ウイリアムが窃盗で起訴される(無罪)。ジェームズJr.とウイリアムがグラントン郵便局での強盗で起訴される(無罪)。1874年にはマーガレット・トンプソンとの結婚を妨害されたウイリアムが、マイケル、トーマスと友人3人を連れてトンプソン邸を襲撃し、父親のウイリアム・トンプソンに発砲した(命中せず)。1875年ジェームズJr. がトーマス・ギブス暴行事件で有罪判決を受ける。同年トーマスがジョゼフ・ベリーヒル暴行事件で有罪。1876年、マイケルがピーター・マッケラー脅迫で有罪。同年ウイリアムとジョンがジョン・ボーデン巡査暴行事件で有罪。1878年ロバートがサミュエル・エベレット巡査に発砲して懲役2年の有罪判決。1879年ウイリアムに不法侵入、家屋破壊、暴行の容疑がかかる(全て無罪)。同年ジョンが偽証と犯人(トーマス)隠匿で起訴される(無罪)。1880年にはパトリック・ライダー邸放火事件で、ジェームズ&ジョハンナ夫妻が起訴された。

 1880年2月3日、ジェームズSr.はライダー邸放火事件の裁判に出廷するため、翌日グラントンに行かなければならず、親しくしていたオコナー家のジョニー(13歳)を家畜の世話をさせるために家に招いていた。このとき長男ジェームズJr.は肺炎のためすでに亡く、五男マイケルは喧嘩が原因で殺害されていた。次男ウイリアム、四男パトリック、六男ロバート、長女ジェーンは独立して家を出ていたが、ジェームズSr.の姪ブリジット・ドンネリー(18581880)が1年前から同居していた。また三男ジョンも独立していたが、たまたまこの日実家に戻って来て、夜はウイリアムの家を訪ねそこに泊まっていた。

 翌2月4日早朝、キャロルの率いる自警団約30名は、村の治安を回復するためドンネリー一家の屋敷を襲撃。ジェームズ、トーマス、ジョハンナ、ブリジットを殺害し、屋敷に火を放った。オコナーはベッドの下に隠れて難を逃れた。

 続いて自警団はウイリアムの家を襲い、泊まっていたジョンをウイリアムと誤認して射殺。ウイリアムは命を拾った。

 事件後自警団の13名が逮捕され、キャロルとジョン・ケネディー、マーチン・マクラフリン、ジェームズ&トーマス・ライダー、ジョン・パーテルの6名が殺人罪で起訴されたが、オコナーという目撃者がいるにもかかわらず全員無罪となり、村のヒーローになった。

 セントメリーズ・アーガス紙は、事件テキスト ボックス: ウイリアム・ドンネリー邸。をこう報じている。

「どれほど多くの違法行為が行われたかを悔やむ人はいても、自分たちの住む地域に非常な脅威をもたらした家族を除去することを悔やむ人はいないだろう。ドンネリー一家は最悪の無法者であり、彼らの隣人は恐怖から彼らに不利な証言をすることができず、司法は彼らに有罪判決を下すには十分な後ろ盾を持っていなかった。結果的に彼らは罰せられることなくあらゆる種類の犯罪に手を染めたが、彼らのうちの何人かはその命をもって己の罪の代償を支払ったのだ」。

 カナダ史上に悪名高いドンネリー一家の物語は、20世紀初頭には忘れられていたが、1954年に出版されたトーマス・ケリーの“The Black Donnellys”が彼らの悪行をつぶさに述べたことで、彼らの悪名は以前にも増してとどろくことになった。だが1962年に出版された「ドンネリー一家死すべし」を書いたオーロ・ミラーは、その中でこう述べている。

「ドンネリー一家の物語は何度も語られ、今やほとんど伝説の域に達している。伝説は真実を深い地の底へ葬り去ってしまった。私は真実を掘り起こしたい。……私はこの事件の責任が、カトリックとプロテスタントとの相剋と、カナダ二大政党の争いにあると確信する」。

 

 1653年にイングランドがアイルランドを征服して以来、プロテスタントの入植が相次ぎ、カトリック教会の破壊が始まった。アイルランド人は勝手に父祖伝来の土地を取り上げられ、イングランドの不在地主に小作料を搾取される農奴と化していった。そうした状況の中1761年、イングランド人の土地の小作を拒否する白シャツを着た反英秘密結社「ホワイトボーイズ運動」が、ティッペラリーで発足。当初は地主の牧場を掘り返したり、フェンスを破壊する程度だったが、政府に弾圧されると次第にイングランド人やその協力者、ホワイトボーイズの脱盟者、オレンジ党員(アイルランドのプロテスタント)にリンチ、放火、家畜の屠殺などを行いテロ組織と化していった。指導者のニコラス・シェーヒー神父は1766年3月15日絞首刑にされ、死体は馬に引かれて八裂きにされ、その首はクロンメル刑務所の門の上に晒された(シェーヒー記念日)。当局は地下に潜行したホワイトボーイズを執拗に探し出し、次々と絞首台にかけたため、彼らは国外に逃亡した。その一方で、信心深いカトリック教徒は暴力をよしとせず、イングランド人とのつきあいを持ったため「ブラックフット」と呼ばれて忌み嫌われ、彼らもまたホワイトボーイズの報復から逃れるため国外に逃亡しなければならなかった。しかしホワイトボーイズは、世界中のどこであれブラックフットを見つけたときは容赦ない迫害を加えた。

ジェームズ&ジョハンナ夫妻は結婚後祖国を捨てカナダに移民したが、差別と偏見から逃れることはできなかった。夫妻は1847年からビッドルフに居住し、ローマン・ラインに面した不在地主ジョン・グレースの100エーカーの土地に「スクワッター」として勝手に居すわった。それは当時、土地を買えない貧しい移民たちによく見られた行動だった。ジェームズSr.は勤勉に働き裕福になったが、彼は英国国教会に献金するブラックフットであり、ホワイトボーイズたちが彼の行動を見過ごすはずはなかった。

パトリック・ファーレルは、1855年ビッドルフに着いたとき自分が借りたはずの土地にドンネリー一家が居住しているのを見て驚き、法廷に訴えた。調停案に両者とも納得せず、1857年のある日酔った勢いで喧嘩になり、ファーレルが鉄棒を掴んで殴りかかろうとした瞬間、ジェームズSr.はハンドスパイクでファーレルの頭部を殴って死なせてしまった。ジェームズSr.は死刑を宣告されたが、ジョハンナが総督に助命を嘆願し懲役7年に減刑された。これは村の抗争の発端となった。ジェームズSr.は冷酷な殺人者、ジョハンナは意地悪ばあさん、息子たちは乱暴者という風評ができ上がり、村で何か事件が起こるとそれは必ずドンネリー一家のせいにされるようになった。

 1857年、ドンネリー一家と親しかったアンドリュー・キーフの酒場が破壊された。犯行グループは無罪となったが、この事件を審理した判事ジョージ・スタッブは何と犯行グループの一人だった。1861年のウイリアムとジョハンナの窃盗事件を裁いテキスト ボックス: ドンネリー邸の納屋。焼失を免れ、事件当時から残る唯一の建造物である。たのもスタッブだったが、証拠がなく無罪となった。1867年にはドンネリー邸の納屋が放火され、続いてキーフの工場も放火に遭った。

1873年には次男ウイリアムがロンドン−ルーカン間を結ぶ路線駅馬車を開業し、既存の公営駅馬車を凌いで繁盛する。しかし競争会社であるフラナガン&クローリー駅馬車との間で、この地域では有名な「駅馬車抗争」を生むことになる。両者とも相手の馬車を破壊し、馬小屋に放火し、家畜に暴行を加えた。ドンネリー一家はこれで悪名をとどろかせ、抗争は10年続いた後、駅馬車事業の廃業によって終結した。

村人たちはそれまでは、納屋に放火し家畜を殺していた。決して母屋に放火はしなかったし、人は殺さなかった。事態が急速に悪化するのは、1878年にキャロルがこの地域に戻って来てからである。1879年にはジョン・コノリー神父が聖パトリック教会に赴任する。以前からドンネリー一家の悪評について聞かされていた彼は、治安を回復するため「平和協会」を設立し、盗難事件が起こったときは家宅捜査に応じることを誓約させた。だがドンネリー一家はこの誓約に加わらなかった。キャロル率いる自警団は、この平和協会の過激派によってこの年結成されたものだが、その真の目的はブラックフットに報復することだった。村で起こった事件は全てドンネリー一家に罪をなすり付け、次々と裁判にかけた。自警団結成直後に起こったウイリアム・トンプソン(マーガレットの父)の馬盗難事件では、キャロルが無断でドンネリー邸を捜索し、馬がそこで見つかったとでっち上げた。しかしドンネリー一家は自警団を不法侵入で告訴した。その後キャロルは警官となり、ドンネリー一家を村から必ず追放すると公言したため、村は一気に緊張した。ここで事態を急変させる事件が起こる。1880年1月のパトリック・ライダー邸放火事件である。この事件はライダーの自作自演の疑いが強いが、自警団はこれをドンネリー一家のしわざと断定して告訴した。だがドンネリー一家はそのとき結婚式に出ていてアリバイがあった。ジェームズSr.は彼らを逆告訴し、2月4日に公判が開かれることになり、進退窮まった自警団はついにその朝凶行に及んだのだった。

 七男トーマスはクリスティアーナ・マキンチャーと恋に落ち、逢瀬を重ねた。だがその両親はドンネリーを毛嫌いして、娘を村の外の学校に転校させ、二人を引き離した。トーマスは事件の夜、殺される前に生きたまま局部を切断された。

 ウイリアムが結婚を妨害されたマーガレット・トンプソンは、彼の幼なじみだった。だが彼女の父は大のアイリッシュ嫌いで、娘をドンネリーにくれてやるくらいなら、焼いてステーキにでもした方がましだと言って、娘を拉致し隠してしまう。彼女が当時ウイリアムに宛てた手紙が、カナダ国立公文書館に今も残っている。

 

 親愛なる友へ

 私が今元気で過ごしていることをあなたにお知らせします。そしてあなたも元気で過ごしていることと願っています。私があなたの前から去っていかなければならなかったことについて説明しなければなりません。大きな試練のために、私はどこへも行くことができず、手紙を書くこともままならないけれど、どうかお許し下さい。愛しいウイリアム、私をこんな目にあわせて私たちのじゃまをする人のところにいるくらいなら、死んだ方がましです。あなたが来て私を腕ずくででも連れ出してくれない限り、私たちの結婚の約束を果たすことはできそうにありません。もしあなたがこれまでと同じように、今でも私のことを思っていてくれるなら、どうか私を連れ出して下さい。それがだめなら、オファ郵便局へ手紙を送ってくれたら、私はそれでがまんします。人々が私を家から連れ出しに来たとき、あなたの手紙が彼らの手に渡らないように燃やしてしまいました。今は火急のときなので、こんな手紙になってしまってごめんなさい。今はこれだけしか言えません。

                                          あなたの愛する

    マーガレット・トンプソン

 

 それから間もなくウイリアムはトンプソンの屋敷を襲撃するが、マーガレットの居場所をつきとめることはできなかった。そして彼女は父親に命じられるまま、むりやり別の男性と結婚させられてしまうのである。ウイリアムはその後ノラ・ケネディーと結婚するが、彼女はそのために勘当されてしまう。そしてノラの兄弟ジョン・ケネディーは、ウイリアムに並々ならぬ憎悪の念を抱いた。

事件の夜、「火事だ! ドアを開けろ!」という声がした。ウイリアムは目を覚ましたが、彼は慎重で外に出なかった。しかし弟ジョンがその声を聞いてドアを開けた。すると待ち構えていた銃口が一斉に火を噴いテキスト ボックス: ジョン・ケネディー。た。全身に30発以上の銃弾を浴びたジョンは、口から血を噴いて絶命した。そのときウイリアムは襲撃者の一人がこう言うのを聞いた。「義兄弟はあっけなかったな」。その声は妻の兄弟ジョン・ケネディーだった。彼は憎むべきウイリアムをついにしとめたと思ったのである。ウイリアムは圧倒的多数の敵を前に、ただ声をひそめているしかなかった。自分がまだ生きていると知れれば、必ず命を狙って来るからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

左から@次男ウイリアム、A三男ジョン、B四男パトリック、C五男マイケル、D六男ロバート(左)と七男トーマス(右)、E長女ジェーン。

 
 

 

 事件の翌年、生き残ったウイリアム、パトリック、ロバートの三兄弟は村を去り、それぞれアッピン、ソロルド、グレンコーに住んだ。

 駅馬車事業を繁盛させたウイリアムは、兄弟たちの中で最も賢いと思われていたが、生まれつき内反足を患っていた。アイルランドの古い伝説で「悪魔によって身ごもった子が、奇形の足で歩く」というものがあり、彼は物心ついたときから「内反足の悪魔」と呼ばれ、人々に蔑まれていた。自警団メンバーの一人ジェームズ・ライダーは死の床で、ウイリアムに会って罪の許しを請いたいと語ったという。だがウイリアムは、法的責任を取ることもなく土壇場で懺悔する卑怯なやり方に憤慨し、取り合わなかった。ウイリアムは52歳で世を去り、聖パトリック教会にある両親の墓に葬られた。

  ロバートは事件後はグレンコーに暮らしたが、後にルーカンに戻り、抗争に明け暮れた。兄ウイリアムは1883年に警官になったが、ロバートの乱行に悩まされ、1888年に辞職した。ロバートにはただ復讐だけがあった。彼は残りの生涯を、自警団メンバーの葬儀に参列するために生きた。誰かメンバーの葬式があると、後で必ず行って棺に唾を吐きかけたという。そしてまだ生きているメンバーには、

「親愛なる○○様。あなたが日曜日に教会に行って、その血塗られた手で自らを祝福するとき、懺悔する機会もないままあなたによって死に追いやられた、あわれなドンネリーの者どものことを思い出してやって下さい。」

という赤いインクで書かれた手紙を送りつけた。彼は終生自警団への憎しみを忘れなかったが、ホームレスの少女に施しするのを村人が目撃し、地元紙セントメリーズ・アーガスの記者に語っている。そこにはかつての暴れん坊の面影はなかった。晩年は精神を患い、ロンドン精神病院に送られた。ロバートは58歳で世を去り、両親の墓に葬られた。

 馬車の製造法を学ぶため若いころからロンドンに出ていたパトリックは、兄弟たちの中でたテキスト ボックス: 1889年に建立された墓標。だ一人犯罪歴がなかった。彼は事件のことを決して思い出さず、誰にも語らず、5人の子に囲まれてソロルドで安らかに暮らし、65歳で世を去った。兄弟たちの中で彼だけが父親より長生きし、彼だけが両親の墓に入らなかった。

ジェームズ・フィーヘリーはドンネリー一家と親しかったが、それゆえ自警団に脅されてスパイにされた。彼の役割は事件の夜、ドンネリー邸を訪問して誰がいるかを報告することだった。彼は泊まっていたオコナーをジョンと誤認している(それゆえウイリアムは助かった)。1881年2月に彼の父が死亡したとき、農場が4000ドルの抵当に入っていて、フィーヘリー家は農場を手放すほかなかったが、マイケル・キャロルが農場を5005ドルで購入し、フィーヘリー家に引き続きそこに暮らすことを許し、その上資金援助するとまで申し出た。これはひとえに、フィーヘリーが重大な秘密を告白しないための口止め料だったが、実際にはお金は支払われなかったので、フィーヘリーは全てをぶちまけると言って、自分の知る限りの全てをパトリックに密告し、それからミシガンに逃亡した。パトリックが通報したため彼は殺人事件に関与したとして起訴され、アメリカで逮捕されカナダに身柄を送還された。彼は法廷でパトリックに「家族を売ったことを申し訳なく思う」と謝罪し、オコナー証言について「ジョン・パーテルが犯行に加わったとするのは誤りであり、それ以外は全部正しい」と証言した。自警団が保釈金を払ったため彼は釈放され、その後は誰のためにも一切の証言を拒否した。無罪となった彼は村を去り、ウィスコンシンで樵として働いたが、同僚からのけ者にされ、その後行方不明となった。

 クリスティアーナ・マキンチャーの兄弟ジョーは後年、自分がトーマスを殺した一人だと告白し、懺悔した。彼は泣きながら「あれから私の人生は生き地獄だ。夢の中に何度もジョハンナが現れて、私を指差して呪うんだ。もう耐えられない」と言って、その2週間後に自宅で首を吊った。

 自警団リーダーだったジェームズ・キャロルは、裁判を無罪で切り抜けた後、何かに追われるように村を去って行った。彼と同郷の医師が、1912年に彼の姿を偶然ブリティッシュコロンビア州ゴールデンで見つけている。キャロルはすっかり老けこんで、病気になっていた。その医師はキャロルのことを「親テキスト ボックス: ジェームズ・キャロル。切だが無口で、罪の意識にさいなまれているようだった」と語っている。キャロルはその3年後に世を去り、ニューウエストミンスターに葬られた。

*    *    *    *    *    *    *

 こうして時が流れ、みな人生の舞台から去って行き、事件は忘れられていった。

ある日ロンドンの警察署に小柄な老婦人が訪れ、ドンネリー一家殺害事件の再審を請求した。関係者はみな他界し、新しい証拠や事実が見つかるはずもなく、無理な話と思ったが、その警官は遠方から訪ねて来た老婦人を哀れに思い、話だけは聞いてやろうと思った。そこで警官が名を尋ねると、その老婦人は「マーガレット・トンプソン」と名のったという。 

 

 

 

 

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