●デビルマン

 

 

2004年日本
監督:那須博之
出演:伊崎央登、伊崎右典、酒井彩名、渋谷飛鳥、染谷将太、宇崎竜童、阿木燿子、冨永愛

 

 本作は駄作である。だが、日本映画史上最低というほどひどくはない。漫画史上に残る傑作を原作とし、名作になったかもしれない「兆し」がかすかに見えているというだけでも、史上最低ではない。本作よりもっとつまらない映画は、いくらでもある。本作に対する評価の辛さは、やはり原作を冒涜したことへの失望の深さと見るべきだろう。本作は、原作がしっかりしていれば、役者が大根でもそれなりに見られるということを実証したという意味においても、その意義は小さくはない。
 本作は、制作者が原作を理解していないという致命的な問題がある。「デビルマン」は決して勧善懲悪のヒーローものなどではない。昔の西洋人は、悪の権化としてのサタンがいて、そのサタンが人の体内に入ることで人が邪悪な思いを抱くと考えていた。だが人がデーモンの影に怯え、疑心暗鬼となり、「デーモン狩り」と称して隣人を見境なしに虐殺する有様は、人の性が悪であることを容赦なく暴きたてた。人を罪に誘惑するサタンなどどこにも存在せず、悪はまさに人の心の中にあったのである。人を愛し、人を守るためにデビルマンはデーモンを裏切ったが、その人にデビルマンは裏切られる。そして人は罪深いから亡ぼすべきだというデーモンの方にむしろ、正当性があるかのように描かれているのである。
 原作では、デーモンに憑依されたミーコが、スケバンに脅されおびえるが、服を着て醜いデーモンの姿を隠していても、彼女の内心の怒りに体が反応してしまい、胸から酸を噴射してスケバンを溶かしてしまう。ここでは人の姿をした者が悪であり、醜いデーモ
ンが善と、善悪と美醜が見事に顛倒している。
 それゆえ映画の中でのミーコが、醜い姿をあらわにして怒りを表現するのではなく、翼が生え、魔力を使えるはずなのになぜか日本刀を振って(キルビルかよ!)、スーパースローで残像がスクリーンに映る。そこでススム君が言う。「おねえちゃん、きれいだね」。きれいなものをきれいというなら、それは何事もないだろう。醜悪なものを「きれいだ」ということこそ、「デビルマン」としての意味があるのではないか。役者が渋谷飛鳥では「胸から酸を噴射」は無理だったのだろうか。日本刀ならせめて全身返り血を浴びて帰って来てほしかった。命を守るために戦う女は美しい。

 原作にないラストシーンには、多くの批判がある。曰く、デーモンが滅びるほどの最終戦争で、どうして女と子供だけが生き残るのか、と。だがそれは、「ランボーにはなぜ弾が命中しないのか」「ロッキーはなぜパンチをくらってもダウンしないのか」と問うのと同じくらい野暮である。蓋然性など問題ではなく、女と子供だけが生き残ったことから制作者が何を訴えようとしているのかだけが重要だからである。
 建物は一切なく、見渡す限り一面の瓦礫。二人とも顔が煤けていて、最終戦争というより、火災現場から脱出してきたようである。最終戦争というからには、女の命としての髪はすべて抜け、皮膚は赤くだだれケロイドだらけになっていなければおかしいだろう。
 「どんなことがあっても、生き抜くのよ」。生物はもはやミーコとススム君の二人だけしかいないようだ。選択の余地はない。ミーコはここで、年端のゆかぬ少年のススム君を性行為にいざなうべきである。被爆してDNAは損傷し、しかも彼女は半分はデーモンであり、どんな子供が生まれてくるか想像もできない。それでも命をつないでゆかねばならない。「おねえちゃん、きれいだね」という台詞は、ここで言うべきであろう。それでこそ、エログロを愛した永井豪への最大級の敬意となるのだ。
 「悪を倒すための暴力は正当化される」というのが、原作者永井豪の突きつけたメッセージだとすれば、「生に対するあくなき執念だけが正当化される」というメッセージを突き返すことができたら、本作は屈指の名作となっていたことだろう。

 

 

 

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