[11] バンクーバーを築いた男

   John Deighton (Gassy Jack)(1830−1875)

 

 石畳とガス灯に彩られた、バンクーバー発祥の地ギャスタウン。その中心メイプルツリースクエアに、酒樽に乗った男の銅像がある。彼こそバンクーバーの礎を築いたギャシー・ジャックである。その名と姿が示す通り、彼はおしゃべりで大酒飲みだったとツアーガイドたちは説明するが、いったいなぜ彼は銅像になったのだろうか。そしてなぜ彼は酒樽に乗っているのだろうか。

 

 ほら吹きジャックことジョン・デイトンはイギリスの港町キングストン・アポン・ハルで、染物屋の父リチャードと母ジェーンの間に、6人兄弟の末っ子として生まれる。兄弟たちは船乗りになって外国を旅することにあこがれたが、兄トムとリチャードJr.が名門校トリニティーハウスで学び、航海士としての訓練を受ける機会が与えられたにもかかわらず、ジョンは初等教育しか受けず、放置されていた。ジョンが生まれたときジェーンが40歳と高齢だったことから推して、庶子だった可能性が高い。1870年に彼がバンクーバーから、ハルにいるトムに宛てた手紙に、

「アン(姉)は元気だ。母は、たぶん元気だろう。」

と書かれているが、ハルに住んでいるジェーンのことをトムに告げるのは不自然なため、ここで言う「母」テキスト ボックス: ギャスタウンに立つギャシー・ジャック像(バンクーバー)。とはジョンの母であろうと推察される。またこの手紙からアンとトムが音信不通だったことが伺え、複雑な家庭環境を思わせる。

 いずれにせよジョンにとって家の居心地は良いとは言えず、14歳で家を出て船乗りになるが、カリフォルニアで金鉱が発見されると、一獲千金を夢見て1853年サンフランシスコへ向かった。彼はそこでいくばしかの金塊を掘り出すが、酒と女に明け暮れてすぐに金を使い果たしてしまう。

 ところが降って沸いたように1858年、フレーザー川で再び金鉱が見つかった。彼はさっそくブリティッシュ・コロンビア州ヒルズ・バーへ行って金を掘り始めるが、何も得ることなく去って行くこととなった(そこは今日ギャシー・バーと呼ばれている)。彼は金探しをあきらめ、フレーザー川で山師たちを運ぶ船で働くことにした。そして当時の州都ニューウエストミンスターに居を移して、蒸気船ヘンリエッタ号の乗組員となり、ついには船長となった。1862年にはインディアンの娘と結婚する。教会でではなく、彼らの風習に従い、花嫁の父に贈り物を捧げてのものだった。

 だがジョンはこのころ心臓を病み、船乗りを続けられなくなってしまう。しかし彼には考えがあった。ゴールドラッシュの街々で酒場や宿屋が繁盛するのを、彼は見たのである。そこで1862年ニューウエストミンスターにある宿泊施設付き酒場「グローブ・サルーン」を買収し、妻とともに働き始めた。

 店の経営が軌道に乗りかかった1867年、店を船乗り仲間だったアメリカ人に預け、ジョンは妻を連れてダグラススプリングへ療養に行った。この年の7月1日、カナダ自治領が成立(建国記念日)したが、ブリティッシュ・コロンビアはまだカナダではなく植民地だったため、何のセレモニーも行われなかった。ところが7月4日のアメリカ独立記念日は違った。店を預かったアメリカ人が客と一日中どんちゃん騒ぎをし、店の酒を全部飲み、店の金も全部ロケットやクラッカーに使い果たしてしまったのだ。ジョンは帰って来て腰を抜かした。

 だが彼はくじけなかった。ニューウエストミンスターはフレーザー川が三つに分かれる地点に位置する港町で、上流で金を掘る人々に物資を補給する中継地として、ゴールドラッシュ時代ににぎわった花の都であり、一方バラード入江は終点に港町(ポートムーディー)があるほか、ヘイスティングズ村(今のパシフィック・ナショナル遊園地付近)に別荘が散在する程度で、ウエストエンドは人跡未踏の森、その先にはインディアンの住むホイホイ村(現スタンレーパーク)があり南岸は未開地で、北岸はインディアンの集落があり、入江は当時インディアンのカヌーが往来していた。入江でありながら流れが急で、風向きが変わりやすく港として不適切な「役立たずの窪地」と見られていたこの地に、彼はいつの日か港ができることを予見していたのである(ゴールドラッシュが過ぎ、州都がビクトリアに移るとニューウエストミンスターは一時ゴーストタウン化する)。彼は住み慣れた都を捨て、バラード入江の南岸で再び酒場を経営することに決めた。当時ギャスタウンにはブリティッシュ・コロンビア&バンクーバー島製材所があり、周囲の木を伐採した跡に従業員の掘立小屋や売店があったが、経営者エドワード・スタンプは酒嫌いで酒を売らなかったため、従業員は何とニューウエストミンスターまで30キロの距離を歩いて飲みに行ったのである。ジョンは妻とその母、そして妻のいとこピート・ウイリアムズを連れて、犬1匹、鶏2羽、毛布、飯盒(はんごう)、蝋燭、斧、大工道具、鍋、フライパン、壊れかかった椅子2つ、そしてウイスキー1樽をカヌーに乗せてニューウエストミンスターをあとにした。ポケットには6ドル、これが全財産である。ジョン・デイトン一世一代の賭けであった。

 カヌーはインディアン語でラック・ラッキー(楓の木立)と呼ばれるところ(現ギャスタウン)に着いた。ジョンが製材所の従業員に、ウイスキーと交換で酒場を建てないかと誘ったところ大勢の人が集まり、酒に飢えていた彼らはたった一日でキャロルストリートとウォーターストリートの角(今のメイプルツリースクエア)にグローブ・サルーンを再建した。客相手に大げさな冒険談を語る彼はギャシー (ほら吹き)・ジャック(ジョンの愛称)と呼ばれ、従業員のたまり場となった店は繁盛し、街もしだいに開けていった。これがバンクーバーの始まりである。

 ところがギャスタウンは実は政府の土地であり、個人が勝手に所有することはできなかった。政府は1870年に街を測量して区画整理を行い、グランビル卿にちなんでグランビル村と命名する。土地はその年競売にかけられたが、インディアンが混在する田舎町にしては地価が法外に高かったため、住民の多くは土地を買わずヘイスティングズ村へ移って行った。しかしグランビル村の将来性を見込んでいたジョンは土地を買い、酒場やプールバーのある2階建ての「デイトンホテル」を建てた。ここが今日バンクーバテキスト ボックス: デイトンホテル跡地にあった看板。ーの番地起点(キャロルストリートとオンタリオストリート)となっているところである。

 長くジョンを支えてきた妻がその年病死し、ジョンは妻の姪で12歳のマデライン(クワベルヤ)と再婚して、翌年長男リチャード=メイソンを生む。そしてそのころ兄のトム夫妻が借金を抱えていたので、ジョンはその肩代わりの代償としてホテルで働いてもらおうと思い、1873年に兄夫婦を呼び寄せた。だが2人はグランビル村に着いて仰天した。泥道の上をインディアンや製材所の荒くれ男たちが行きかい、人々は掘立小屋に住んで豚を飼い、英語を話さずチヌーク語を話すのである。裁判所でさえチヌーク語を使ったというから、当時は今のバンクーバーよりはるかに多様文化的だったのだろう。だがこの時代のイギリス人にインディアン文化への理解などあるはずもなく、兄夫婦はマデラインとリチャードをいじめて、インディアンの部落へ追い帰してしまった。

 そこでジョンは兄夫婦にホテルを任せ、妻子を呼んでニューウエストミンスターに戻ってともに暮らすことにした。ところが兄夫婦の経営は思わしくなく、借金をため込んでしまったため、ジョンが再び経営に乗り出すこととなった。

 しかしジョンの持病は良くならず、ついに病の床に倒れる。嵐の夜に彼が危篤状態に陥ると、長年かわいがってきた犬が遠吠えを始めた。見舞いに訪れた友人はそれを聞いて、

Oh, you're a son of a bitch.

これがジョンが生涯で最後に聞いたせりふだった。

 息子リチャードもその年病死し、ジョンの遺産は母ジェーンに相続されることになったが、彼女はなぜか受け取りを拒否した。マデラインはインディアンの部落に戻っていとこのピート・ウイリアムズと再婚し、1948年ノースバンクーバーで生涯を閉じた。

*    *    *    *    *    *    *

 グランビル村はジョンが見込んだ通り、その後も港町として発展を続け、1886年には市政が敷かれバンクーバー市となる。中心街はその開拓者にちなんでギャスタウンと呼ばれるようになったが、その年バンクーバー大火が起こり、デイトンホテルも灰となった。街が復興したときには中心地はヘイスティングズへ移っていき、ギャスタウンは倉庫街となり、浮浪者のたまり場となり果てていた。だが1969年、市がバンクーバー発祥の地としてのギャスタウンを再開発し、石畳の道路、ガス灯、カフェテラス、アートギャラリー、みやげ店などが建ち並ぶファッショナブルな街として甦ったのである。

 1986年、市政百周年を記念してメイプルツリースクエアにギャシー・ジャックの銅像が建てられた。その姿は、ただ1枚現存する彼の写真を服装まで忠実に再現したものだが、写真ではもちろん酒樽の上になど乗ってはいない。今日彼のある一面だけが誇大に、旅の座興のようにおもしろおかしく語られているようだが、彼がニューウエストミンスターを発ってグランビル村に移ったときも、人々は彼を笑い物にしたテキスト ボックス: ジョン・デイトンの現存する唯一の写真。のだろうか。彼はその生涯において、バンクーバーの今日の繁栄を見ることはなかった。しかし他に先駆けてバラード入江の将来性に着目し、まだ見ぬ未来を信じ、全てを賭けた彼の先見性と情熱こそ、語り継がれるべきであろう。

 

 

 

inserted by FC2 system