[25] 世界を席倦した名馬

   Northern Dancer(1961−1990)

 

 競馬のクラッシックレース三冠と言えば日本では皐月賞、日本ダービー、菊花賞、アメリカではケンタッキーダービー、プリークネスステークス、ベルモントステークス、カナダではクイーンズプレート、プリンス・オブ・ウェールズステークス、ブリーダーズステークスだが、レベルの劣るとされるカナダ産駒でただ一頭、アメリカの4歳クラッシックを制したのが、このノーザンダンサーである。

 

 エドワード=プランケット・テイラーが経営する、オンタリオ州オシャワのナショナルスタッド牧場(後のウインドフィールズ牧場)で5月27日に生まれる。競走馬は4月1日に年を取るため早く生まれるほどよく、この遅生まれの牡馬は1962年のオークションで、その年最高の2万5千ドルの値がつけられたにもかかわらず、両親ともに初供用同士だったせいか体高154 センチ、体重433.5 キロしかなかった(そのため“Little Horse”と呼ばれた)ため売れ残り、テイラーの牧場に連れ戻された。まさに「残り物には福がある」というところか。だがあまりの気性の激しさに手を焼いたルーロ調教師は、ダンサーの去勢も考えたという。もしテイラーが反対していなかったら、世界の競馬の歴史は大きく変わっていただろう。

 ダンサーの母ナタルマは、3歳時の調教中に骨折し引退したため、戦績テキスト ボックス: ケンタッキーダービーに勝利したノーザンダンサー。鞍上はビル・ハータック騎手、左は馬主のエドワード・テイラー。はたった7戦して3勝だった。繁殖入りしたのが6月だったため、配合相手に選択の余地はなく、テイラーの持ち馬だったニアクティックが選ばれた。ニアクティックは47戦して21勝、5歳時にカナダレコードやコースレコードを4回も出して、カナダの年度代表馬に選ばれるなど優れたスプリンターだったが、1マイル以上で勝つことはまれで、距離に限界があった。しかしナタルマの父は「灰色の幽霊」と呼ばれ、プリークネスステークスとベルモントステークスを制した2221勝の名馬ネイティブダンサーであり、またニアクティックもカナダのリーディングサイヤーになるなど、ノーザンダンサーは血統的には申し分ないと言えよう。

 かかとにひびが入ったため、ダンサーのデビューは遅れたが、1963年8月のデビュー戦コロネーション・フューチャリティを6馬身差の大差で勝ち、次のサマーステークスも7馬身差、さらに次のレースも8馬身差で圧勝するなど9戦7勝2着2回の成績で、カナダの3歳チャンピオンとなる。カナダに敵なしと見たテイラーは、ダンサーのアメリカ遠征を決意した。そして11月のニューヨークのレースで8馬身差勝ち、次いでレムセンステークス(約1,811メートル)を、右前肢に裂蹄があるにもかかわらず1分47秒8の驚異的タイムで勝つ。

 ほんの2、3年前まで、この種のけがは治療困難であり、即引退を意味したが、カリフォルニアの鍛冶屋ビル・ベインがラバーを接いで新しい蹄が生えて来るのを待つ手法を考案していた。テイラーはベインをニューヨークに呼び寄せ、8時間に及ぶ手術の後ダンサーは甦ったのである。

 明けて4歳、フラミンゴステークス(2馬身差)とフロリダダービーを、アメリカの6年連続リーディングジョッキー(通算8,833勝の記録は今も破られていない)、ウィリー・シューメーカーの騎乗で勝つ。破竹の勢いで勝ち進むダンサーに、テイラーはカナダ初のアメリカクラッシック制覇の夢を賭けた。ケンタッキーダービー出馬である。だが当てにしていたシューメーカーは、直前になってカリフォルニアの冬季チャンピオン、ヒルライズに乗り換えてしまった。ダンサーにはビル・ハータックが騎乗することになり、このコンビはブルーグラスステークスを制した。機は熟していた。

 1964年5月2日、ルイビルのチャーチルダウンズ競馬場は興奮のるつぼと化していた。1番人気はサンタアニタ・ダービーを制して8連勝中のヒルライズ。一流騎手に一流馬である。対抗はカナダのリトルホース。この馬の実力は未知数だったが、シューメーカーに見切りをつけられたことが人気の差の理由を物語っていた。7番ゲートに入ったダンサーは、11番のヒルライズより一回り小さく見えた。

 ゲートが開いて12頭がいっせいにスタート。第90回ケンタッキーダービー(約2,012メートル)の幕が切って落とされた。小柄なダンサーは馬群をぬって6番目の好位につける。ヒルライズの真後ろである。鞍上のハータックは、道中調教師の言葉を思い出していた。

「ダンサーは短距離馬だから、後半までペースに乗せられないように気をつけろ。馬群にもまれないよう外を廻れ。鞭で打つと不機嫌になるから、絶対に鞭は使うな」。

 気がつくとダンサーは内側に追い込まれていた。前には3頭の馬群、左には柵、右にはヒルライズが蓋をしていて動けない。シューメーカーの罠にはまったのである。ところがハータックはここで敢然と仕掛けに出た。ヒルライズの横から脱出したのである。スタンドはどよめき、テイラーは思わず飛び上がってガッツポーズをした。逃げるダンサーを、ヒルライズが追う。最終コーナーを廻って2頭は先頭の3頭を抜いた。ハータックは我を忘れてダンサーに鞭を入れる。ダンサーはそれに応えるかのようにピッチを上げた。ヒルライズが迫る。一馬身、肩、首・・・・だがヒルライズが追い付くより先に、ダンサーはゴールを駆け抜テキスト ボックス: ケンタッキーダービーのゴール。けていた。首差、2分フラットの堂々たるレコード勝ち(1973年三冠馬セクレタリアトに破られるまで続いた)、カナダ初の快挙であった。

 2週間後のプリークネスステークス(約1,911メートル)でもヒルライズが一番人気となったが、ダンサーは2馬身差で勝って二冠馬となり、さらに3週間後のベルモントステークスでは1.8倍の本命に押されたが、クォードランブルに6馬身差の3着(2着はローマンブラザー)に敗れ、カナダ産駒の三冠制覇は惜しくも成らなかった。1.5マイル(約2,414メートル)は短距離血統のダンサーには長過ぎ、またスローペースの展開も災いしたと言われたが、左前肢の屈腱炎が最大の原因だったようである。

 その後カナダに凱戦したダンサーは、ニンジンで作った「名誉市民の鍵」を贈られるなどカナダ人の熱烈な「ダンサー・フィーバー」に迎えられた。カナダのクラッシック三冠の一つクイーンズプレート(約2,012メートル)に出馬したダンサーは、1.15倍という圧倒的な一番人気に応え7馬身差で圧勝し、カナダ人を再び熱狂させた。この日、大勢のカナダ人競馬ファンがダンサーの馬券を購入していたが、換金せず記念に持ち帰る者も多かったという。

 だがレース後に屈腱炎が悪化したため、これを最後にダンサーは引退することとなった。戦績は1814勝(二着2、三着2)、獲得賞金は58万ドルであった。

 引退後は種牡馬生活に入るが、子のニジンスキー(戦績1311勝、「幻のダービー馬」マルゼンスキーの父)がイギリスの三冠馬となったことでダンサーの人気は急上昇し、240万ドルのシンジケートが組まれることとなった。

 ダンサーは生涯で635頭の仔を産んだが、そのうち511頭が出走し、その61%が勝ち星を挙げた。これは他馬の6倍近い数字である。重賞勝ち馬を146頭輩出し、その中にはザミンストレル(英・愛ダービー、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス)、シャリーフダンサー(愛ダービー)、エルグランセニョール(英2000ギニー・愛ダービー)、セクレト(英ダービー)、サドラーズウェルズ(愛2000ギニー)、ノーザントリック(仏オークス)などがおり、アメリカで197177年、イギリスで1970778384年リーディングサイヤーとなっている。日本ではダンサーの仔ノーザンテーストが種牡馬として大成功を収め、1982年から92年まで11年連続リーディングサイヤーとなった。1985年には種付け料に95万ドルの値がつき、「ダンサーの血一滴はダイヤ1カラットより高価」と言わしめた。また1983年のオークションでは、ダンサーの仔が史上最高値の1,020万ドルで取引されている。そして1985年に1,310万ドルの値をつけて記録を破ったシアトルダンサーは、ノーザンダンサーの孫(ニジンスキーの仔)である。

現在ではサラブレッドの75%がノーザンダンサーの子孫であり、今や世界の競馬界はノーザンダンサー系に席倦されていると言っても過言ではない。

 

 

資料:第90回ケンタッキーダービーの映像(.wmv

 

【追記】 ノーザンダンサーの初勝利戦コロネーション・フューチャリティには、ニューブランズウィック州ドラモンド出身のロン・ターコット騎手が騎乗していた。彼はその10年後、セクレタリアトの主戦騎手として三冠ジョッキーとなり、競馬関係者として初めてオーダー・オブカナダ勲章を贈られた。

 

 

 

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