[13] Good-by Scotland Rose 〜カローデン〜

 

 

 

 1688年の名誉革命でジェームズ七世が追放され、1714年にはスチュアート朝が断絶した。だがイギリス議会は、カトリックのスチュアート家を排除するため「王位継承法」を定め、王はプロテスタントに限るとし、ドイツからハノーバー家のジョージ一世を招いて即位させた。するとスコットランドでは、ハイランドのカトリック諸侯がジェームズ七世の子でジェームズ八世を自称したジェームズ=フランシス=エドワードの王位を主張して反乱を起こした。彼らはジェームズの名にちなんでジャコバイトと呼ばれた。

 1745年、ジェームズ八世の子チャールズ・スチュワート(愛らしい風貌からボニー・チャーリーと呼ばれた)がスコットランドに上陸すると、ハイランドのジャコバイト5000人がこれに呼応し、挙兵した。彼らは帽子につけた白バラをシンボルとした。銃を一度だけ斉射し、その後銃を捨てて楔形陣形に組み替え、小楯と剣を手に絶叫しながら突撃する彼らの「ハイランダー・チャージ」戦法は、相手が銃で応戦しても、次の弾を装填する間に突入されるため手がつけられず、恐れられていた。彼らはいつも見通しの悪い地に兵を伏せ、敵の準備する地での戦闘を避け、自軍に有利な決戦のチャンスを忍耐強く待ち続けた。こうして大砲を持つ近代装備の軍が、中世さながらの装備の軍に撃破されるという遭遇戦が幾度となく続いた。チャーリーはついにスコットランド全域を支配化に置き、父の連合王国王位を宣言した。ここで彼がスコットランド王位だけを宣言していたら、歴史は変わっていたのかもしれない。だが彼はイングランドの王位をも求め、イングランドに侵攻し、ダービーまで軍を進めロンドンまであと200キロに迫った。ロンドンの街はパニックに陥り、王室の移転すら検討されたが、約束のフランスの援軍は現れなかった。ジャコバイト軍は補給線が完全に伸びきっており、そしてノーサンバーランドにはウェイド軍8000、バーミンガムにはカンバーランド公(ウィリアム・オーガスタス)軍1万がいた。ここでチャーリーがいちかばちかの賭けでロンドンに突入していたら、案外簡単に首都を陥落させられたのかも知れない。だが背後に危険を感じた彼は、戦わずして撤退する道を選んだ。歴史を司る運命の女神は、人の器を見るということなのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

テキスト ボックス: 写真46 政府軍前線。ウォルフ将軍はこの辺りで戦った。

テキスト ボックス: 写真47 リーナッハ・コテージ。32名のジャコバイト軍兵士がここに逃れたが、生きたまま焼かれた。 わずか5400の兵でイギリス全土を制圧するなど、しょせん無理な話であった。一度退却を始めた軍は目的もなくずるずると後退し、やがて食糧も尽きると脱走兵が相次いだ。スコットランドは、かつての宿敵イングランドとの連合によって戦争の脅威から解放され、かつてない平和を享受していたのである。初めはチャーリー王子の来訪に歓喜していた人々も、時が経つにつれて急速にさめていった。

カンバーランド公(チャーリーのいとこにあたる)率いる政府軍8800はハイランドまで進撃し、ついにジャコバイト軍をカローデンに追い詰めた。チャーリーは、南北を森に挟まれたカローデン・ミュアで迎撃することを考えた。ジョージ・マレー将軍は、平地での決戦は政府軍の大砲を働かせることになり、また沼地ではハイランダー・チャージの利点を活かせないとして反対し、傾斜した地でのゲリラ戦を主張したが、チャーリーの決意は変わらなかった。4月15日はカンバーランド公の誕生日で、政府軍は酒宴を開いていたので、マレーは夜襲を決行することにしたが、ジャコバイトの兵たちは飢えており、夜明けまでに敵地に辿り着くテキスト ボックス: 図 カローデンの戦い。青=ジャコバイト軍、赤=政府軍。ことができず、そのうえ引き返す途中で食糧を探すのに時間を費やし、そのまま遊兵となりとうとう決戦に参加できなかった。

 4月16日、両軍がカローデン・ミュアに布陣した(図)。ジャコバイト軍は、見通しのよい平地で豊富な大砲を持つ政府軍に小盾と剣で戦うことになったのである。おりしもこの日は豪雨となり、風下のジャコバイト軍は顔を上げることができなかった。

 政府軍の大砲が火を噴くと、ジャコバイト軍前線が崩れ始めた。チャーリーは体勢を立て直そうとしたが、氏族長たちはチャーリーのまずい指揮に腹を立て、命令に従わなかった。何とか政府軍前線に切り込んだハイランダーたちは、第2陣の銃撃を受け次々と倒された。

 ジャコバイト軍はわずか60分で1250人の戦死者を出し、粉砕された。敗れたチャーリーはフローラ・マクドナルドに助けられ、彼女の女中に変装(彼が色白の美人であったことを伺わせる)してフランスに逃れた。彼はフローラへの感謝の印に、自らの肖像が入った金のロケットを与え「今度会うときはセント・ジェームズ宮殿で」と約束したが、それが果たされることはなかった。亡命したチャーリーは酒に溺れる生涯を送り、捕らえられたフローラは弾圧され、アメリカに移住するが、独立戦争でイギリス王党派についたためここでも弾圧され、晩年はスコットランドに戻った。

 だが本当に悲惨なのはその後だった。カンバーランド公は、ジャコバイトの落ち武者を徹底的に捜テキスト ボックス: 写真48 ジャコバイト軍前線跡に立つ旗。索し、カローデンハウスに集めて処刑し、彼らの白バラを赤い血で染めた。カローデンハウスはボニー・チャーリーが本陣とした館で、当時はフォーブス家の館であり、現在はホテルである。後年ケベックの戦いで有名になるジェームズ・ウォルフ将軍も副官としてこの戦いに参加し、カローデンハウスに宿泊している。

 

 ロンドンの為政者は、一人の王が二つの議会を統治するのは無理があると考えた。彼らはスコットランド人に、ハノーバー家のジョージを国王として認めなければ外国人として扱うという法律を制定し、経済制裁をちらつかせた。スコットランド人もまた、イングランド植民地との貿易に魅力を感じた。大規模な買収が行われ、ついに1707年両国の合同が成立し、スコットランド議会はロンドンの議会に統合され、イングランドとウェールズに513議席、スコットランドに45議席が割り当てられた。

 ハイランドには過酷な戦後処理が待っていた。バグパイプの禁止、キルト・タータン・スポーラン等の禁止、武器携帯の禁止、反乱に加担した氏族長は領地を没収され裁判権を廃止された。さらに、大規模な牧羊がハイランドに適しているという理由で「ハイランド清掃」が行われた。ハイランド人は土地を追われ、羊に置き換えられたのである。彼らの議会も王室もすでになく、若い男子を戦争で失い、氏族制度は崩壊し、民族の誇りも失った彼らは、政府に勧められるままにすし詰めの移民船に乗って、栄光ある大英帝国植民地へと向かった。彼らのうちのかなり多くがカナダに移民し、アカディアのフランス系住民を一掃して、そこにノバスコシア─ラテン語で新しいスコットランド─を建設した。今日アカディア人の悲劇ばかりが喧伝されているが、後からやって来た人々も、このような有様であった。なお今日ゲール語の話者が最も多いのは、スコットランドではなくカナダである。

 スコットランドの人口は510万人だが、在外スコットランド人の数は2千万人にものぼる。カナダで功成り名を遂げたスコットランド人にはジョン・マクドナルド、アレクサンダー・マッケンジー、グレアム・ベル、サンドフォード・フレミング、ルーシー・モンゴメリー(マクドナルド夫人)など枚挙に暇がない。

 

 拡大する一方の大英帝国植民地への兵力に、ハイランダーは勇敢だという理由で動員された。また軍隊では例外的にタータン・キルトの使用が認められていた。皮肉なことにかつて敵として戦ったウォルフ将軍は、今度はハイランダー部隊を率いてカナダでフランス軍と戦うことになったのである。イギリス軍は早朝アブラーム平原に上陸するとき、歩哨に見つかり“Qui vive?”(そこにいるのは誰だ?)と尋ねられたが、カローデンの戦いの後フランスに亡命していたハイランド部隊には、フランス語の流暢な者がおり“La France et vive le Roi!”(フランス軍だ。国王万歳!)と当意即妙に返して上陸に成功した。だがウォルフは密かに、ハイランダーについて「彼らが何人死のうと大したことじゃない(No great mischief if they fall.)。隠れた敵の最大の利用法は、共通の目的のために有意義な死を遂げさせることだ」と語っていた。

 カナダの作家アリステア・マクラウドの小説“No Great Mischief”(邦題「彼方なる歌に耳を澄ませよ」)のタイトルはこれに由来している。オンタリオの歯科医である主人公アレグザンダー・マクドナルドが、先祖たちのスコットランドの歴史、イギリスとフランスが戦ったカナダの歴史、ハイランドからノバスコシアのケープ・ブレトン島に渡ってきた一族の歴史、そして現代のマクドナルド氏族の歴史と、いくつもの歴史に思いを馳せる物語で、1999年カナダでベストセラーとなっている。

 

 1934年、スコットランド独立を提唱するスコットランド国民党(SNP)が結成された。彼らの独立運動は、やがてスコットランド議会の復活を求める「自治」運動へと変わっていく。1997年9月11日の住民投票では、74.3%もの高い支持を受けてスコットランド議会の設置が可決された。奇しくもこの投票日はちょうど700年前の1297年、ウィリアム・ウォレスがスターリング橋の戦いに勝利した日でもあった。

1999年、スコットランド議会がおよそ300年ぶりに復活した。そのときスコットランド国民党議員の胸に飾られていたのは、一輪の白バラであった。

 

 

 

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