●改革党The Reform Party of Canada)

 改革党→カナダ改革保守同盟→カナダ保守党

【歴代党首】
初代 プレストン・マニング(1987〜2000)

 

 (1) 旗揚げ
 進歩保守党のマルローニは、西部のポピュリスト、ケベック民族主義者、オンタリオの財界リーダー、東部のレッド・トーリーの「大連立」を実現し、政権に就いた。だが彼は次第に西部を軽視し、目に余るケベック優遇政策を採るようになる。進歩保守党の変節に危機感を抱いた西部の要人たちは1986年、バンクーバーで「カナダの経済と政治の未来」会議を開催し、「西部カナダの声を代表しカナダの政治システムの根源的構造改革を目指す新しい全国政党の設立」を決議し、翌年改革党を旗揚げした。初代党首は、社会信用党党首でアルバータ州首相だったアーネスト・マニングの息子プレストン・マニングである。彼は福音主義クリスチャンで、1965年社会信用党から連邦議会選挙に出馬しテキスト ボックス: プレストン・マニング。ているが、このときは落選している。彼の主任政策アドバイザーはカルガリー大学学生のスティーブン・ハーパー(後の首相)であり、ハーパーは1988年総選挙で改革党のマニフェストを作成している。

 2) 右派最大勢力に
 1988年、改革党は「西部は参加を欲する」というスローガンを採用し、西部の党としてのポリシーを明確にした。だがただの地方泡沫政党と見られ、1988年総選挙では72人の候補者全員が落選した。1989年の下院補欠選挙でデボラ・グレイが初めて議席を獲得し、また同年試験的に行われた「上院予備選」でスタンレー・ウォーターズが勝利し、最初(かつ最後)の上院議員に指名された。
 マルローニ首相のミーチレイク協定に見られる、ケベックへの過度の優遇と上院改革の不履行は、改革党にとって絶好のチャンスとなった。協定に反対する数少ない政党の一つであったことが、協定が破綻した結果有利に働いたのである。西部の有権者は進歩保守党を見限って改革党になだれをうち、また1991年にはブリティッシュコロンビアの社会信用党が壊滅し、改革党に流入する。1988年総選挙で議席獲得に失敗したマニングは、西部の利害のみを代表するのではなく、新自由主義を強調することによって全国政党への発展を目指し、1993年総選挙では52議席を獲得し、進歩保守党を上回りカナダの右派政党中最大勢力となった。

 3) 極右のイメージ
 改革党は本来、政治改革を促進するポピュリズム政党として結成されたが、しだいに保守主義が優位となり、右翼へと傾斜していった。彼らの狙いは、減税と社会福祉サービスの縮小、そして主要政党の全てが支持するフランス語の公用語化と多様文化主義の見直しであった。90年代初頭には「ネオナチ維持戦線」と、フランス語の公用語化に反対する「英語維持同盟」のような極右勢力に支持されるようになる。彼ら極右は、自分たちの主張を浸透させるため基盤の弱い新党に目をつけたのである。そしてこれは、カナダ全域に支持を拡大しようと努めていた党のイメージをすこぶる悪化させた
 多くの議員や候補者が人種差別・同性愛差別発言を繰り返したため、改革党は党自体は公的にはそのような政策を主張しなかったにもかかわらず、人々から極右と見なされるようになった。1993年の選挙期間中、ジョン・ベック候補者は「移民は白人から職を奪っている」「異教徒」「追い散らされたインディアンを見よ。次は我々の番だ。」などの移民中傷発言で非難された。マニング党首はすぐに、ベックの発言は党の政策と一致していない、支持もしないとコメントしたが、改革党は東部やオンタリオのレッド・トーリー支持者からは完全に見放されていた。彼らは進歩保守党に失望したものの、改革党があまりに極右だと感じ、連邦レベルでは自由党に投票するようになった。改革党も、ケベックに1人の候補者も立てなかった。改革党は要となるオンタリオではわずか1議席を獲得したのみで、ケベック以東では1議席も獲得できず、依然として西部の抗議党であって、それ以上のものではなかった。

 

 4) 過激派への反乱
 二言語政策、移民、同性愛者の権利、女性の権利、マイナリティと先住民の権利に対する反対は、改革党に不寛容、同性愛差別、女性差別、人種差別のイメージを定着させた。ボブ・リングマは「店のオーナーにはホモや有色人種を店の奥に下げる自由があるべきだ」と語って問題視された。アパルトヘイト政策を採る南アフリカ政府のために制裁を避ける方法を指南していたハーブ・グルーベルは、貧困にあえいでいるインディアンを「南の島のリゾートに住む甘やかされた子供のようだ」と言って物議を醸した。1995年のケベック独立を問う住民投票では、クレチエン首相やジャン・シャレー進歩保守党党首とは対照的に、マニング党首はフランス語を話せないためケベックで運動せず、非難された。
 ジャン・ブラウン、ジム・サイリー、スティーブン・ハーパーらは、改革党を極右から転換するために立ち上がった。ブラウンとハーパーは、同性愛者の権利拡大に反対する党の方針に反する投票をした。しかしデイブ・チャッターズは「児童への悪影響を防ぐため同性愛の教師を締め出すのは当然だ」と語った。そこでブラウンは、党から過激派を一掃しなければ自分たち穏健派は離党すると迫ったが、マニングはリングマとチャッターズを党員資格停止処分としたものの、ブラウンとサイリーの党への批判を非難し、ブラウンも党員資格停止処分とした。マニングの党運営に失望したハーパーは1997年、議員を辞職し政界の表舞台を去った。

 5) 「新しいスタート」の不発
 「新しいスタート」のスローガンを掲げた1997年総選挙で、マニングはマイナリティの候補者を多数募集し、初めてケベックを含む全ての州に候補者を立てた。またコメディ・グループ「ロイヤル・カナディアン・エアファース」がマニングの「リフォォォーム」という独特の発音を茶化していたので、マニングはボイストレーナーからスピーチの指導を受け、さらに堅苦しい眼鏡をやめ、コンタクトレンズと新しいヘアスタイルで登場した。その結果改革党は議席を60に伸ばし、初めて野党第一党となった。だがこれらの刷新にもかかわらず、改革党はオンタリオ以東で議席を得られなかった。改革党は4人の主要なケベックの指導者である自由党のクレチエン首相、進歩保守党のシャレー党首、ケベック連合のジル・デュセップ党首とルシエン・ブシャール元党首の顔写真に斜線を引いた選挙ポスターを用い、「カナダはあまりに長くケベック人政治家に牛耳られていた」と語ったが、有権者の評判はすこぶる悪く、他党の党首たちはこれをケベックそのものへの攻撃と見なし、マニングは偏屈だと逆に非難した。

テキスト ボックス: コンタクトに変えたマニング。

 6) 新新党結成へ
 既成政党への幻滅が改革党の最初の成長の原動力だったが、今や既得権益に抗議する党としての改革党は、マニングが公認反対党党首として政府から支給されたストーノウェイの豪邸に住むようになると、逆に抗議されるようになった。彼は以前、それは税金の浪費であり自分はそこに住まないと公言していたからである。
 改革党はまた、自由党に対抗する政権交代可能な二大政党の一角としての地位を確立することに失敗した。進歩保守党はシャレー党首の下で20議席を獲得して息を吹き返し、改革党が拡大するとともに進歩保守党を縮小させ保守合同を実現させるという戦略を狂わせた。自由党はわずか38.5%の得票率で51%の議席を獲得したが、改革党19.4%と進歩保守党18.9%を合わせた得票率もまた38.3%に達しており、選挙敗北の理由が保守票の分散にあることは明らかだった。
 マニングの次なる目標は、彼の指導のもとに保守政党を統一することだった。1998年の党首選に勝利した彼は、カナダ全域のための新しい右派政党旗揚げのため、改革党と進歩保守党から草の根運動家を結集する「ユナイテッド・オルタナティブ(UA)」運動を推進するが、党内の反対派は「改革党消滅に反対する草の根連合(Grassroots United Against Reform's Demise GUARD)」を結成して抵抗した。マニングはついに、これ以上改革党党首を続ける意思はないと語り、新党「カナダ保守改革同盟(仮称)」の結成を発表して、2000年3月、改革党は解散しテキスト ボックス: ユナイテッド・オルタナティブを抱いて心中を図るマニング。改革党は道連れか、それとも命綱か。た。
 州レベルではブリティッシュ・コロンビア改革党とマニトバ改革党がまだ存在しているが、いずれもほとんど活動していない。

 7) その後の改革党勢力
 カナダ同盟結成とそれに続くカナダ保守党結成は、かつての改革党ポピュリストを政治の中心から一掃した。これは新党「カナダ改革連合」と「真の改革に回帰せよ」の結成に至った。後者は「バック・トゥー・ザ・フューチャー作戦」と銘打ち、「家を失った全ての元改革党員のための傘」を称した。彼らのほとんどは反UAGUARD元メンバーであって、カナダ同盟では一貫して非主流であり、カナダ同盟幹部のほとんどが改革党出身者であるにもかかわらず、彼らは進歩保守党に党を乗っ取られたと主張していた。



●カナダ改革保守同盟Canadian Reform Conservative Alliance)

 改革党→カナダ改革保守同盟→カナダ保守党

【歴代党首】

初 代 ストックウェル・デイ(2000年7月〜200112月)
第2代 スティーブン・ハーパー(2002年3月〜200312月)

 1) 「右派結集」
 カナダ同盟は、右派諸党を結集し政権交代可能な二大政党の一角を作ることを目指していたが、改革党の大多数はそっくり移籍し、これにいくつかの地方の進歩保守党が合流したのみで、ジョー・クラーク率いる連邦進歩保守党は同盟参加を拒否したので、人々はカナダ同盟を改革党に毛が生えた程度にしか受け留めなかった。新党の綱領は改革党と進歩保守党のものをつぎはぎしたようなものだった。
 当初の党名「カナダ保守改革同盟(Canadian Conservative Reform Alliance)」にマニングは進歩保守党と改革党の保守合同の夢を託したが、批評家は政権獲得の可能性を疑問視し「語尾に“Party”をつけたら略称は“CCRAP”だ」と酷評した。マニングは「カナダ同盟」の略称を使用したが、メディアは冷静に「改革同盟」と呼んでいた。マニングは党名をすぐに「カテキスト ボックス: (左)ストックウェル・デイ、(右)スティーブン・ハーパー。ナダ改革保守同盟」に変更した。党首選が行われるまでの暫定党首としてデボラ・グレイが選ばれ、カナダ初の女性公式反対党党首となった。
 マニングは2000年、カナダ同盟最初の党首選でストックウェル・デイに敗れた。宗教右翼を避けるため結成した新党だったが、初代党首となったのは牧師であった。マニングは政界引退を表明し回顧録「大志を抱け」を出版したが、その最後を「私はカナダの未来を探す旅に出る」という言葉で締めくくり、さらなる改革の夢を次の世代に託して政治の表舞台から去っって行った。
 200010月、進歩保守党の上院議員ジェリー・サン=ジェルマン(カナダ初のメティスの閣僚)が入党し、カナダ同盟最初(かつ最後)の上院議員となった。

 2) ただ一度の選挙
 クレチエン首相は2000年秋、カナダ同盟の虚を突く抜き打ち解散・総選挙に打って出た。だが党首のデイは若く、新党はマスコミの注目を浴び、同盟は大きな希望を抱いて選挙戦に突入した。同盟は減税、連邦政府銃登録プログラムの廃止と家族の価値を訴えた。ある世論調査ではカナダ同盟の支持率は30.5%となり、同盟幹部の中には政権奪回できると考える者もいた。
 だが自由党は、カナダ同盟が公式には否定していた同性愛反対、妊娠中絶反対、健康保険の二種分割化などの「隠しマニフェスト」を持ち出し容赦なく攻撃した。結果66議席を獲得して改革党より勢力拡大し、オンタリオでも2議席を獲得して政権交代への悲願ともいえるオンタリオ進出を果たすが、やはりケベック以東では1議席も獲得できず、政権交代可能な二大政党の一角にはほど遠い結果に終わった。

 3) お家騒動
 家族の価値、中絶反対、同性愛反対を叫ぶデイ党首は「牧師様」と呼ばれ、その前時代的・非現実的政策はジョークの絶好のネタにされた。2001年、党内でデイ党首の指導力への不満が噴出し、7名の議員が離党して「民主議員の会(DRC)」を結成すると、進歩保守党はこれを統一会派として取り込み勢力を19議席に拡大した。進歩保守党は揺さぶりをかけ、カナダ同盟は分裂の危機に瀕した。この分裂劇はデイ党首に党大会の開催を余儀なくさせ、2002年4月、スティーブン・ハーパーがデイを破って党首に当選した。DRCメンバーは2名を除き復党した。

テキスト ボックス: 影の内閣。みんながデイ党首の首を狙っている。 4) 悲願の保守合同へ
 2003年5月、進歩保守党の党大会で若いピーター・マッケイが党首に就任すると、頑固一徹のクラーク党首の時代には拒否されていた両保守党による合併交渉が始まり、ハーパー党首とマッケイ党首は両党合併による新党結成への「保守党合意」を発表した。合意はカナダ同盟では12月5日、郵便による党員投票で96%の承認を得て、進歩保守党では12月6日、各地で党大会を開催し90%の承認を得て、翌日新党「カナダ保守党」を結成し、カナダ同盟は発展的に解消することとなった。初代党首にはハーパーが就任した。
 なおカナダ同盟の地方組織は、アルバータ同盟のみが今も存在している。

 

 

 

●カナダ保守党Conservative Party of Canada)

 

 改革党カナダ改革保守同盟カナダ保守党

【歴代党首】

初代 スティーブン・ハーパー(2004年3月〜)


 1) 2004年総選挙
 マーチン首相は2004年下院を解散し、総選挙に打って出た。自由党はスポンサーシップ事件で人気に翳りを見せ、またマーチン首相派とクレチエン前首相派の党内抗争が尾を引き、士気が上がらなかった。いっぽう保守陣営は保守合同を成立させ、保守票の分散に終止符を打ち、カナダ全域で支持される二大政党の一角を実現させており、それまでとは事情は異なっていた。
 だが選挙戦でスコット・リード議員は「二言語主義は非現実的で改善する必要がある」、ロブ・メリフィールド議員は「女性が妊娠中絶する前にカウンセリングを受けることを義務づけるべきだ」と発言し、チェリル・ギャラント議員は妊娠中絶をテロリズムに例える演説をした。そこで自由党はまたも極右イメージを持ち出し、保守党政権になればイラク参戦と徴兵制が行われると国民を煽った。その結果、保守党は99議席を獲得して健闘したが、自由党は135議席と過半数割れながら政権を死守した。この年は政権交代には至らなかったが、新生保守党が獲得したオンタリオ24議席と東部7議席(ケベックは0)の計31議席がなければ68議席に過ぎず、2000年総選挙でのカナダ同盟の獲得議席にほぼ等しいことがわかる。保守合同の効果は着実に現れていたのである。

 2) 2006年総選挙−悲願の政権奪回
 200511月1日、スポンサーシップ事件に関する中間報告で、ゴメリー調査委員がクレチエン前首相らの関与を指摘すると、自由党に閣外協力してきたNDPはマーチン政権不支持を表明した。ハーパー党首はこれを受けて24日に内閣不信任案を提出、NDPとケベック連合も同調し可決され、再び解散・総選挙が行われることになった。
 ハーパー党首は選挙期間の最初の1か月は、GST減税と児童保育手当を強調したので、スポンサーシップ事件を非難すると思っていた人々は意表を突かれた。彼は選挙期間の最初の数週間メディアを独占し、自由党にレッテルを貼られる前に自分自身にレッテルを貼ることに成功した。
 12月には連邦警察がラルフ・グッデール財務大臣のインサイダー取引を調査していると発表し、追い詰められた自由党は前回功を奏したネガティブ・キャンペーンに訴えたが、軍関係者からのクレームでCMをすぐに中止することになり、保守党は124議席を獲得してついに悲願の政権奪回を実現した。改革党結成から18年、マニングの執念はついに実ったのである。

 3) 地方の保守政党
 カナダ保守党は現在、公式には地方組織を持っておらず、各州の保守政党と提携している。ハーパー党首は地方の進歩保守党大会にしばしば出席し、また全ての連邦保守党員が地方の保守政党の会員資格を取得することを奨励している。
 オンタリオ進歩保守党は連邦保守党を支援しているが、アルバータでは連邦保守党と進歩保守党の関係は緊張している。クライン州首相は同性結婚に関し国民投票を要求し、また2006年総選挙では自由党の勝利を予言した。
 2007年度予算案が発表されたあと、ノバスコシア進歩保守連合とニューファンドランド&ラブラドル進歩保守党の2つの保守政権は連邦保守党を大西洋協定違反で告訴した。この協定は自由党政権が東部州と取り決めた、石油資源による収入は地方交付金算出に計上しないというものだが、法律家は政府と州の約束の反故は「契約違反」ではなく「政策変更」であり起訴できないと考えている。なお憲法には「天然資源はその発見された場所に帰属する」と明記されている。ノバスコシア選出の下院議員ビル・ケーシーは予算案採決に反対票を投じたため、連邦保守党の党大会で除名された。

 

 

 

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