[12] 金塊と女王陛下

   Joseph Whiteside Boyle(1867−1923)

 

 ジョー・ボイルはトロントに生まれた。父チャールズはサラブレッドの生産者で、1883年には持馬のローディープリングルが、カナダ4歳クラッシックレースの一つクイーンズプレートで優勝している。だが母マーサは息子を牧師にしようと考え、ジョーを競馬から遠ざけ、神学校に入学させた。

 しかしそんな願いもむなしく、卒業するとジョーは厩舎の手伝いをするようになった。ところが3ヶ月もすると「海へ行く 心配無用 ジョー」という置き手紙を残して家出し、船乗りになる。そして21歳のとき子連れの女性ミルドレッドと、航海先で知り合って3日目に結婚する。

 結婚後、彼は突然ボクシングクラブのマネージャーとなる。彼の仕事は、イギリス連邦ヘビー級チャンピオン、フランク・スレイビンのプロモーションとスパーリング・パートナーだった。とこテキスト ボックス: 勲章「ルーマニアの星」を身に着けたジョー・ボイル。ろがある日のタイトルマッチに、客が30人程しか入らなかったことに落胆する。ボクシングは当時、サーカスの前座のようなものでしかなかったのである。ジョーとスレイビンは1898年、ユーコンに行って興行の場所を探すが、全て断わられてしまい、2人はボクシングを捨てて金鉱探しを始めた。家族はニューヨークに放ったらかしだった。

 皿で砂をすくってふるいにかけるやり方では金持ちになれないと悟ったジョーは、政府に働きかけて11平方キロの土地の採鉱権と、独占的な水力採鉱の権利を獲得し、毎日1万1千立方メートルの砂利をさらう巨大な浚渫(しゅんせつ)機を借り入れ、1904年カナダ・クロンダイク鉱業社を創立する。またたく間に巨万の財を成した彼は、製材所、ドック、発電所、電話会社、不動産会社などを次々と興し、「クロンダイクの王」と呼ばれる億万長者となった。

 ほかにもスポーツ好きの彼は、1899年にアイスホッケーのユーコン・ナゲッツを結成してマネージャーとなり、スタンレーカップにも出場している。女性関係も多彩で、エルマ・ルイーズと再婚したほか、愛人も数人いたことが判明している。

 

テキスト ボックス: ユーコン・ナゲッツのオーナーとなったジョー(前列中央)。 第一次大戦が始まると、彼はユーコン機関銃社を設立して、政府に無償で武器を提供する。その見返りに彼は陸軍名誉中佐に任じられ、兵器委員会のメンバーとなる。そして彼はロシアでの鉄道復旧と、連合国側から離脱したルーマニアを戦線に復帰させる任務を与えられた。彼はユーコンの会社を長男に任せ、単身ロシアへと渡る。

 当時ロシアは、二月革命後の混乱で鉄道が麻痺しており、連合国側にとって大きな障害となっていた。ジョーはただちに運行を正常化させたが、1917年の十月革命で共産主義者が実権を握ると、ロシアは不穏な情勢となり、ジョーは活動の拠点をルーマニアへと移す。

 そのころルーマニアは連合国側について参戦していたが、ソ連が戦線から離脱すると国土の3分の2を同盟国側に占領され、1916年には首都ブカレストも陥落し、王室と政府はヤシーに避難していた。王室と言ってもフェルディナンド国王はドイツ人、マリア王妃はイギリス人である。弱小国ルーマニアが列強諸国の後ろ盾を得て独立を維持するため、このような奇妙な政略結婚がなされたのだった。

テキスト ボックス: マリア王妃。 ルーマニアはもともとドイツと同盟していたが、自由党政権が王妃に働きかけ、連合国側で参戦した。だがその結果、国を存亡の危機に追いやることとなり、そのことは国王と王妃の関係に微妙な影を落とした。そのうえ実の息子のカロルは、皇太子でありながら恋人と国外に駆け落ちするなど問題を起こし、両親に事あるごとに反発した。王妃は言葉も文化も異なる異国の地で、孤独感にさいなまれていたのである。ジョーがこの美貌の王妃と出会ったのは、そんなときのことだった。

 妻たちとの生活で満たされることのなかったジョーは、優雅で政治にも深い関心を寄せる王妃に強く惹きつけられた。いっぽう国家の一大事にも何ら打つ手もない夫とは対象的に、知的でたくましく、幅広い趣味と教養を持ち、冒険の末に億万長者となり、ルーマニア救援の使者として来たジョーは、王妃にとってダルタニアンだった。王子や王女たちは、冒険談を語る彼を「ジョーおじさん」と呼んでなつき、ジョーは王妃や王子たちにとってなくてはならない存在となった。いつしかジョーは、王妃と親密な関係になっていった。それは、決して許されざる関係であった。

 ジョーはさっそくカナダ政府から、ルーマニアへの2500万ドルの援助を取りつけ、さらに掠奪から食糧不足が起こっていたため、連合国から船3艘分の食糧援助も引き出した。またブカレストが陥落したとき、政府は3億レイの金塊、公文書、宝冠などをロシア帝室に預けていたが、ソ連新政府がこれを返還しようとしなかったため、ジョーはイギリス空軍のジョージ・ヒル大佐とともに、これらをクレムリン宮殿から秘かに運び出し、内戦中で警備の厳重なウクライナを巧みに汽車で通過することに成功する。ルーマニアに着いたのがちょうどクリスマスの夜のことで、王妃への最高のプレゼントとなった。なおヒルはテキスト ボックス: 黒海の夏の離宮にて。左からマリア王妃、ジョー・ボイル、イレアナ王女。後にこのできごとを題材に、小説「スパイよ その地へ行け」を執筆している。

 また革命後の混乱の中でソ連領ベッサラビアが独立を宣言し、ルーマニアとの合併を宣言したことに乗じて、ルーマニアがソ連政府の承認なしに軍を進駐させ既成事実化を図ったのに対し、ソ連は72名のルーマニア人を捕虜としてクリミアのテオドシアに収容していたが、ジョーの工作により平和条約が締結され、ベッサラビアからの撤退と捕虜の解放を実現させた。こうして彼は国王より「ヤシー公」の称号を許され、外国人としては異例の、勲章「ルーマニアの星」の最高位グランド・クロス章を王妃から授けられ、人々から「ルーマニアの救世主」とさえ讃えられたのだった。

たが、幸福の絶頂は長くは続かなかった。長男に任せたユーコンの会社が破産してしまったのである。さらに王妃との親密な関係や、カロルにまつわる王室内のトラブル、特に王位継承権に関する騒動に王妃の腹心として深く関与したことが、ルーマニアの政治家たちを怒らせた。ジョーは1920年ついに軍務を解かれ、そして王妃からも国外退去するよう促される。このころ王妃の心は、ジョーとバルボ・シュティルベイ公との「二つの忠誠と二つの愛」の間で揺れ動いていたのである。王妃はこう記している。「私は二人の心を傷つけていたにもかかわらず、どちらかを傷つけることに耐えられなかった」。そして事実を知ったジョーもまた、深く傷ついた。

ルーマニアを去ったジョーもまた、王妃への手紙にこう記した。

「私と、昔からの友人とともに過ごすのは、あなたにとってできない相談でした。私はあなたの影になることはできない、それでルーマニアを退去しました。あなたは私に何の負い目もありません。あなたはいつも私に何かを与えて下さいました。だから私は、今もあなたに感謝し、今もあなたを愛しています。」

 ジョーはその後ロイヤル・ダッチ・シェル社のエージェントとして、ルーマニアとソ連におけるイギリスの石油利権のために働いた。ところが1921年、ジョーの乗った列車がボルシェビキ暗殺のためブレーキを壊されており、脱線して先頭の2輌に乗っていた乗客のほとんどが死亡する惨事となった。ジョーは命に別状なかったものの半身不随となり、車椅子での生活を余儀なくされる。イギリスのハンプトン・ヒルで療養生活を始めた彼はテキスト ボックス: マリア王妃がジョーの部下に宛てた手紙
(ウッドストック市民図書館蔵)。
そこでも王妃に手紙を書き続けていたが、容態は悪化し、ついに書くこともできない体となり、かつての億万長者は貧しく、見取る家族もなく孤独の内にその激動の生涯を閉じた。

 ジョーの死の知らせを聞いた王妃が書いた手紙が、今も残っている。

For me he is not dead.                                                                                                       私にとって、彼は今も生きている。

For me he is in the trees, in the sky, in the sea, in the sun                                     木々の中に、空に、海に、太陽に、

and in the wind that sweeps round my house.                                                           そして私の家の周りをなびく風の中に。

He is in the freshness of the early morning and the silence of the night              朝のすがすがしさの中に、夜の静けさの中に、

the stars seem to watch me with his eyes                                                                   私を見つめる星の中に、

and the clouds seem to bring me messages                                                                    そして彼のメッセージを

from that great heart which was mine…                                                                      私の心に運んでくれる雲の中に・・・・

 

遺体はハンプトン・ヒルの聖ジェームズ教会に葬られ、王妃の命により十字架形の墓標が建てられた。そこにはジョーが愛したロバート・サービスの詩から、王妃が選んだ一節が刻まれている。

A man with the heart of a Viking,              バイキングの心と

and the simple faith of a child.          少年のような信仰を持った男

 

 王妃はその後も毎年のようにイギリスを訪問し、命日には必ず墓を訪れ、ユリの花を捧げて行った。ロンドンのコラムニストが、毎年墓参する謎の黒服の貴婦人の正体を知ったが、彼はそれを公にはしなかった。王妃は後年ジョーの娘フローラに対し、墓をルーマニアに移し、いつもユリの花で飾られているようにしたいと語ったが、宮廷クーデターで王位に就いたカロルが母の資産を凍結したため果たせず、「ルーマニアの救世主」と呼ばれた男の墓は今日雑草に覆われ荒れ果てている。禁じられた恋に生きた男とテキスト ボックス: ジョーの墓(ハンプトン・ヒル、1954年)。女の愛の証が、共同墓地の片隅に誰にも顧みられることなく、しかし確実に今も残っている。

 

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※追記:上の写真は1954年に撮影されたものである。筆者は2004年に聖ジェームズ教会を訪れているが、ジョーの遺体はその後故郷オンタリオ州ウッドストックに改葬され、マリア王妃によって設置された墓標は現在ウッドストック博物館に展示されている。詳しくは「イングランド歴史紀行」ハンプトン・ヒルの項目を参照。

 

 

 

 

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