[4] イングランドの関ヶ原 〜ボズワース〜

 

 

 

レスター駅から電車を乗り換えてヒンクリー駅に行き、そこからタクシーでボズワースに行く。ここはバラ戦争最後の決戦場となった地である。

リチャード三世は、幼い国王エドワード五世とヨーク公リチャードの兄弟をロンドン塔に幽閉し、王位を簒奪した。だがランカスター王家の血を引くヘンリー・チューダーが彼の王位継承に異を唱え、1485年亡命先のブルターニュで2千の兵を率いて挙兵し、ウェールズのミルフォード・ヘブンに上陸する。彼はウェールズ王家の血も引いており、軍勢がボズワースに達したときには5千に膨れ上がっていた。対するリチャード軍は、ヘンリーの倍の1万を擁していた。

 

●リチャード三世側

1.ノーフォーク公軍

2.リチャード三世軍

3.ノーサンバーランド伯軍

●ヘンリー・チューダー側

4.タルボット軍

5.オックスフォード伯軍

6.ヘンリー・チューダーとジョン・サベイジ軍

7.ヘンリーの最終的な位置

9.ウイリアム・スタンレー軍

 

リチャードは、見晴らしが良く細長い地形で攻撃されにくいアンビアン・ヒルに本営を置いた(写真16)。いっぽうヘンリー軍はでこぼこの地に布陣したため、整列するのも容易でなかった。戦いは、ヘンリー軍右翼のオックスフォード伯(ジョン・ド=ベア)とリチャード軍左翼のノーフォーク公(ジョン・ハワード)の間で始まったが、緒戦はリチャード軍有利の展開となった。

ところが、最大の部隊を率いるトーマスとウィリアムのスタンレー兄弟はわざと遅参し、リチャード軍から少し離れて、東西に布陣した両軍を睨む中間地点に行司のように陣取った。実はトーマス・スタンレーはヘンリーの母マーガレットの3番目の夫であり、ヘンリーは彼の義理の息子に当たるのだった。しかし息子ストレンジ卿がリチャードの人質となっていたため、ヘンリーに味方することはできなかった。そこでスタンレー兄テキスト ボックス: 写真16 アンビアン・ヒル。弟はリチャードの命令を無視して動かず、ヘンリーが自分たち兄弟の助力で勝つ状況が来るのをじっと待っていた。そして後詰めのノーサンバーランド伯(ヘンリー・パーシー)の部隊も、スタンレー兄弟を警戒して動けずにいた。

リチャード軍の実質的指揮官であるノーフォーク公が戦死すると、戦況はリチャードに不利となった。すると、ヘンリーが本陣を北へ移動し始めた。これは、寝返る約束になっていたスタンレー兄弟がなかなか寝返ろうとしないので、業を煮やしたヘンリーが催促しに行ったとも、あるいは攻撃を加えに行ったとも言われている。

リチャードはこれを苦境を覆す好機と見て、勇敢にも数百の騎士とともにヘンリーの本陣を直接突くべく前進した。リチャードはヘンリーの姿が見える位置まで肉薄し、旗手ウィリアム・ブランドンを倒したが、そのときスタンレー兄弟の2500の新手の軍勢がリチャードに襲いかかった。リチャードは沼地で落馬し、敵に囲まれる。

シェイクスピアは戯曲の中で彼にこう言わせている。

「馬をよこせ! 馬をよこせば王国などくれてやる!」

だが彼にはもう、馬はなかった。リチャードは戦場に散り(写真17)、トーマス・スタンレーテキスト ボックス: 写真17 リチャード三世戦死の地。は彼の飾り輪を奪ってヘンリーの頭に載せ、その場で即位を宣言する。こうしてヨーク朝は終焉し、ヘンリーはヘンリー七世としてチューダー朝の創始者となるのである。

 

だがその後、エドワード五世とヨーク公リチャードの兄弟がロンドン塔から脱出したという噂が流れた。二人はリチャード三世によって暗殺されたとヘンリーは発表したが、死体はどこにもなかった。

やがてエドワード四世によく似たパーキン・ウォーベックという男が、ヨーク公リチャードを名のって挙兵した。アイルランドやオーストリアがこれを支持したが、ウォーベックは捕らえられ処刑、またこの陰謀に加担したとしてウイリアム・スタンレーも処刑された。

 

リチャードは関ヶ原と同様に、総勢では多数を保持しながら一部の部隊しか戦闘に参加せず、要衝に陣取る部隊の裏切りによって敗北したことになる。裏切り者が自滅していくところまで関ヶ原にそっくりである。

なおリチャードが醜いせむしだったというのは史実ではなく、チューダー朝によるプロパガンダであろう。

 

 

 

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