●ケベック連合Bloc Québécois


【歴代党首】
初 代 ルシエン・ブシャール(1990〜1996)
第2代 ミシェル・ゴティエ(1996〜1997)
第3代 ジル・デュセップ(1997〜2011)

第4代 ダニエル・パイエ(2011〜 )

 

 ケベック連合はケベック独立を綱領に掲げ、ケベック州にのみ候補者を立てる地方政党であると同時に、社会民主主義政党でもあり、京都議定書に賛成し、同性結婚・マリファナ解禁を支持し、イラク戦争参戦に反対した。下院の総数は308議席で、ケベック州の議席は75議席なので、主要4政党が立候補する限り、ケベック連合はケベック州の全議席を獲得しても政権を獲れないことになる。

 ルシエン・ブシャールは、マルローニ首相とはラバル大学時代からの盟友で、環境大臣として仕えた。ケベックを「独自の社会」と規定したミーチレイク協定の成立のため奔走したが、ジャン・シャレーの委員会が協定に変更を加えたとき、彼は閣僚を辞任(一説には罷免)して離党し、1990年ケベック連合を旗揚げした。マルローニは激怒し、夫人に「もし私が先に死んでも、ブシャールを絶対葬儀に参列させるな」と語ったという。同年ミーチレイク協定が廃案になると、ブシャールの元にケベック州選出の進歩保守党と自由党議員が集結し、非公式の連合としてケベック連合がスタートした。当初はケベック独立を実現したら解散する予定の、一時的な連合であった。
 ケベック連合が臨んだ最初の選挙は1990年8月、モントリオールのローリエ-テキスト ボックス: ルシエン・ブシャール元党首と夫人。ン・マリー選挙区補欠選挙だった。有権者のほとんどはケベック連合に投票しないだろうという大方の予想に反し、ケベック連合候補者は勝利した。その候補者とは後の党首ジル・デュセップである。最初の連邦議会選挙は1993年で、54議席を獲得しいきなり野党第一党となった。ケベック州以外では改革党・進歩保守党・新民主党に票が散ったためである。
 1995年の独立を問う住民投票では、ケベック党・ケベック民主行動党とともに「三党合意」を成し、独立賛成の立場を取ったが、否決された。ケベック党のパリゾー党首が州首相・党首を辞任したため、ブシャール党首はケベック党の党首に就任するため、翌年下院議員とケベック連合党首を辞任し、ケベック州政治に身を転じる。数奇な運命と言うべきか、州議会選挙で戦う相手は自由党党首となったシャレーであった。彼はブシャールの次の環境大臣となり、マルローニ党首辞任を受けたキャンベルの次の進歩保守党党首でもあった。
 ブシャールの次の党首には、ミシェル・ゴティエが選ばれた。だがそれは全ての党員による投票ではなく、役員会メンバーで行われたものであり、リーダーシップ欠如から議員の造反を招き、1997年に辞任した。
 次の党首に就任したデュセップはかつて労働者共産党のメンバーで、労働組合委員長を務めたこともある。公式反対党党首として、枢密院議員の地位を自動的に与えられることになったが、彼はそれを拒否した。
 2000年の下院選挙では、前回選挙より支持率は高かったにもかかわらず、38議席に減少した。原因の一つは、モントリオール、ケベック、ガティノーなどケベック州の主要な都市で、反対を押し切って市町村合併が強行されたことだった。これら合併された都市の多くでテキスト ボックス: ジル・デュセップ党首。は、自由党が議席を獲得したのである。

 カナダは中部のオンタリオ・ケベックの議席が多く、ケベック連合がケベック州で一定の勢力を持つ限り、当分の間どの党も過半数を獲得できない状態が続く可能性もあり、その場合ケベック連合が連邦政治でイニシアチブを握ることも十分考えられる。2004年下院選挙では実際に全ての党が過半数に達せず、自由党の少数政権が成立したが、野党3党が共同で内閣不信任したことにより倒閣に成功した。分離主義のケベック連合は相手にしないというのが従来のセオリーだったが、保守党は政権奪取のためなりふり構わずケベック連合と提携したため、党内でも異論が噴出した。200611月のハーパー首相の「ケベックはカナダの中の国家」発言も、政権維持のためのケベック連合への歩み寄りであろう。だがケベック連合が汎ケベック主義なのに対し、保守党は西部を地盤とする宿敵同士であり、この呉越同舟関係がいつまで続くか先行きは不透明である。かつて進歩保守党がケベック民族主義者と妥協して破滅した過去も、いまだ記憶に新しい。
 イタリアの例などから、少数政党乱立では談合政治が横行し、政治が腐敗するという指摘もなされている。

 

 

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