[6] 毛沢東の次に有名な人

   Henry Norman Bethune(諾爾曼 白求恩)(1890−1939)

 

 1960年、モントリオールで中国人による京劇が催された。カナダは当時中華人民共和国と国交がなく、このように中国からの賓客を迎えることは珍しかった。

 演技が終わると、劇団員たちは整列して挨拶した。

「中国の恩人ベチューン博士に感謝致します」。

 だが観客の中で誰一人、ベチューンの名を知る者はなかった。──

 

 ノーマン・ベチューンはオンタリオ州グレーブンハーストに生まれた。祖父ノーマンは医師で、トリニティー・カレッジ医学部で教えていたが、国教会信徒以外の入学を認めない規則に反発して辞職した。父マルコム・ニコルソンは若いころ放浪生活を送っていたが、宣教師で後に妻となるエリザベス・アンと出会って牧師となった。彼は金持ちを神の国にふさわしくないという理由で教会から閉め出し、説教中居眠りした長老を非難したため解任された。このような家風こそが、ベチューンの奉仕と反骨と強烈な自己主張の精神を培ったのだろう。

 ベチューンは1909年トロント大学に入り医学を学ぶが、在学中に第一次大戦が勃発すると衛生兵に志願し、フランスの最前線に赴く。だテキスト ボックス: ベチューン生家(オンタリオ州グレーブンハースト)。がそこで彼が見たものは、手当てをしても次から次へと運ばれてくるおびただしい数の負傷兵だった。

  軍医が手当てをしても、戦争を止めなければ、負傷者は減りはしない・・・・・。

 心に疲れを感じるようになった矢先、彼は榴散弾を浴び、イギリスの病院に収容され、そこで終戦を迎えた。

 彼は1916年に大学を卒業してから、インターンを経て、1924年にデトロイトに移り住み、そこでハーパー病院に勤めながら下町に診療所を開業した。デトロイトは自動車産業のメッカであり、富を求めて多くの人々が流入してきたが、成功者と敗残者との間で貧富の差は拡大していった。街中は自動車が走り廻って空気が汚れたため、金持ちは郊外に住み、貧乏人は下町にたむろするようになった。彼はハーパー病院で金持ちが治るのを見、診療所で貧乏人が不衛生な環境の中で結核を患い、入院費もないまま働き続け、他者を感染させ、そして死んでいくのを見たのである。いくら昼夜を問わず病院と診療所で働いても、結核患者は増える一方だった。彼は次第に疲れを感じるようになった。そして彼の脳裏に戦場の光景が浮かんだ。

  医者が努力しても、貧困を解決しなければ、結核は減りはしない・・・・・医療を本当に必要としているのは、貧乏人である。  

 彼は、医療費を払えない患者にはそれを免除した。そして気がつくと、彼の経済状態は、診療所の患者と同水準になっていた。貧しさの中で彼は診療所を手放すはめになり、妻は去って行き、そして  彼自身が結核を患っていた。

 

 彼はサナトリウムに入院することとなった。当時結核は治療法がなく、空気のきれいな田舎のサナトリウムで栄養のある食事を摂り、一日中ベッドに伏すことで進行を抑える「安静療法」しか方法がなかった。しかしそれができるのは金のある人だけで、貧乏人は働かないわけにはいかず、ここでも彼は金持ちが治り、貧乏人が死んでいくのを目の当たりにしたのである。

ベチューンが考案した気胸療法専用器具。右下はベチューン式肋骨用大鋏。

 
 だが何事にも積極的で規制を嫌う彼には、一日中何もせず寝ている生活など耐えられなかった。そんなとき彼は、気胸療法の存在を知ったのだった。それは主に片肺を侵された患者に対し、中空の針を胸腔に刺して空気を注入し、感染肺を圧潰して活動を停止させることで結核の進行を抑えるという方法である。まだ考案されたばかりで、肺を破裂させたら死に至るなど危険も大きかったが、どうせ死ぬのだと思い込んでいた彼は迷わず気胸療法を選んだ。そして病状は奇跡的に良くなったのである。

 気胸療法なら、貧乏人でも癒される  モントリオールの名門、ロイヤル・ビクトリア病院で医師に復帰した彼は、気胸療法の普及に生涯を捧げることを決心した。そして「ベチューン式」の名のついた肋骨用大鋏、気胸装置など気胸療法専用器具を次々と考案した。

 だが他の医師たちは、危険な手術を敢行して患者を死なせたら病院の名に傷がつくが、放っておけば「結核で死んだ」と言えるし、安静療法は長期間高額な入院費を得られるが、気胸療法は治っても死んでも入院費を取れなくなるので、その導入には賛同できなかった。彼はそんな医師たちを、病人が栄養を摂って安静にするなど当たり前で、何もせず自然な治癒を待つなど医療とは言えないと痛烈に批判した。また彼は同僚の医師たちがやりたがらない、リスクの高い手術を買って出たため、彼の手術における死亡率は同僚たちより高かったのである。彼の粗野な、そして冒険的姿勢は、名門病院に似つかわしくないものだった。気がつくと彼はすっかり孤立し、病院を去ることを余儀なくされた。

 1935年、学会に出席するためソ連を訪れた彼は、我が目を疑った。各国が世界恐慌にあえいでいる中、ソ連では計画経済が成功しており、サナトリウムでの無料医療が実現していたのである。彼は帰国するとただちに政府に対し公営医療制度と強制保険制度を要求し、病院に対しては、軽症の患者たちだけが他者を感染させる心配なく働ける「サナトリウム作業所」の設置さえ提案した。だが特権を失うことを恐れた医師たちは公営医療に敵意を示し、民衆も社会主義的政策に違和感を覚えた。「サナトリウム作業所」は問題にもならなかった。こうして社会から拒絶される中で、彼は次第に共産主義に傾倒していったのだった。

 スペイン内乱が起こったのはそんなときのことだった。軍事独裁政権を打倒して結成された人民戦線政府(共和主義と社会主義連立)に対し、フランコ将軍に率いられた軍部が、ドイツとイタリアの支援を受けて1936年にクーデターを起こしたのである。ベチューンは、社会主義を守る戦いに軍医とテキスト ボックス: 移動血液銀行とベチューン。して参加した。そして負傷者を病院で待っているのでは遅すぎ、最前線に出て輸血するべきだと考え、ワゴン車を手に入れ「移動血液銀行」を作った。これは、世界最初のものと言われている。

 しかし政府軍は、次第に圧倒されていった。彼は1年後帰国し、カナダ各地を巡回して援助を訴えた。

「戦争に巻き込まれたくないとか、内政不干渉とか言ってスペインを援助しないのは、結局ファシストに味方するのと同じだ。救急車の輸送を許可しなかったキング首相が、ヒトラーと握手している写真を私は見た」。

 だが彼が共産主義者であることが知れると、民衆も政府も冷淡な態度をとった。医師会の嫌われ者に協力する医師もいなかった。彼は祖国に失望した。かつて気胸療法が、保険制度が、そして今スペインへの援助が拒絶されたのである。

 

鳳凰山の毛沢東旧宅。延安には共産党幹部の邸宅が何個所か残っているが、映画「ベチューン─メイキング・ア・ヒーロー」では棗園の邸宅がロケに使われた。しかしベチューンが実際に毛沢東と会見したのはこの鳳凰山邸宅である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

延安で毛沢東と会見するベチーン。ベチューンがレーニン的風貌に描かれている。

 

 

 

 

 

 ベチューンが帰国している間に、政府軍の敗北は決定的となった。すると彼の目は中国へと向けられた。華北に侵入した日本軍に対し、八路軍(共産党)がゲリラ戦を展開していたのである。彼は1938年中国に渡り、延安にいた毛沢東と会見し、八路軍の軍医となる。そして訪れる村々に模範病院を建て、中国人医師に医療を教え、中国人がそれまで知らなかった輸血を施した。彼は中国人民とともに暮らし、同じ物を食べ、救護のためにどんな僻地にも最前線にも赴いた。敵軍が迫るなか69時間ぶっ通しで115名の手術を敢行し、自分の血を輸血するほどの献身を見せた白求恩恩を求む白人の到来は、「国際共産主義は中国を必ず支援する」という毛沢東の予言の成就にほかならなかった。彼はやがて中国人の間で伝説となり、軍歌となった。八路軍兵士たちは「攻撃だ! 白求恩は我らとともにいる」を合言葉に戦った。

 だが日本軍の包囲の中で、医薬品が欠乏していった。手袋なしで手術していた彼は、手術中に指を切ったのが原因で敗血症にかかり、治療薬を手に入れることもかなわず、河北省唐県黄石口村で波乱の生涯を閉じた。

テキスト ボックス: 手袋なしで手術するベチューン。彼が中国人民の靴を履いていることに注意。 遺体は軍城に葬られ、彼の国際奉仕を表して地球儀型の墓標が建てられた。これは日本軍の包囲の目をかいくぐって、村人たちが秘かに山へ行き大理石を切り出して造ったものだった。だが日本軍は唐県に侵攻したとき、これを射撃の標的にした。模範病院も次々と破壊された。避難した人々は口々に「この冒瀆が回復されるまで、決してこの地に戻らない」と誓テキスト ボックス: ベチュ−ン最期の家(黄石口)。ったという。

 

 

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 人々がこの地に戻って来たとき、日本軍の姿はもはやなかった。墓は石家荘の烈士陵園に再建され、その付近には模範病院が白求恩国際和平医院として再建され、構内に白求恩記念館が設置された。そして毛沢東の追悼辞「ノーマン・ベチューンを記念する」は、毛沢テキスト ボックス: 手袋なしで手術する姿を描いた切手。東が神格化され、毛沢東語録の携帯・暗記が義務づけられた文化大革命時には「愚公山を移す」「人民に服務せよ」と並んで三大必読文献「老三篇」の一つテキスト ボックス: 石家荘の烈士陵園に再建されたベチューンの墓。となり、大多数の中国人民がこれを暗唱した。白求恩の生涯を学ぶことは小学校のカリキュラムに取り入れられ、手袋をつけずに手術する姿は切手の肖像にさえなり、「白求恩より有名なのは毛沢東だけ」とさえ言われるようになったのである。

 

 しかしカナダ国内では、彼は全く無名だった。1943年カナダ労働会議は、ベチューンを重要カナダ人に指定するよう陳情したが、キング首相に無視された。ところがこのころ中国を訪れたカナダ人たちが、「ベチューン博士の同国人」と挨拶されて驚いたという報告が相次いだ。というのも、彼らはベチューンが誰なのか知らなかったからである。また1960年に京劇訪加団がベチューン記念慈善興行を申し出たとき、ロイヤル・ビクトリア病院の関係者は仰天したという。

 だがカナダは、小麦貿易の相手として中国を必要とした。ベチューンは踏み絵だった。中国の承認は、共産主義者ベチューンの承認を必要としたのである。するとマスコミの間で、彼が重要カナダ人にふさわしいかどうかという一大論争が巻き起こった。しかし1971年、トルドー内閣によって加中国交が締結されると、中国人が続々とオンタリオ州の田舎グレーブテキスト ボックス: 「合言葉は『ベチューン』だってさ。」 突然ベチューンを持ち上げだしたトルドー政権の、真の理由を諷刺したピルスワースの漫画。小麦袋を運んでいるのはカナダのシャープ外相、戸口に立っているのは、自分たちも内心では中国と取引したいと思うアメリカとオーストラリア(トロント・デイリースター、1972年)。ンハーストの生家に詣でるようになったのである。ここに至って政府はこのような動きを無視できなくなり、翌年ベチューンを重要カナダ人に指定し、さらにその翌年には生家を買い取って、ベチューン記念館として1976年に開館した。彼はようやく祖国で認められるに至ったのである。1964年にはカナダ国立映画局によって映画「ベチューン」が制作されたが、「共産主義者を讃美する映画」を制作したという非難が殺到し、アメリカ政府からも国内で配給しないよう抗議を受けている。

 今日、強制保険制度も公営医療制度も当たり前になっており、物笑いの種になった「サナトリウム作業所」も、職業補導協会によって後年実現された。また、安静療法か気胸療法かの長年の論争も、1940テキスト ボックス: カナダ人俳優ドナルド・サザーランド主演の映画「ベチューン─メイキング・ア・ヒーロー」(1993年)。年代の化学療法の導入により終止符が打たれた。ベチューンの名を冠した気胸療法専用器具も廃用に帰し、ベチューン式肋骨用大鋏だけが今日もなお使用されている。彼が望んだ通り、時代はようやく彼に追いつき、そして追い越していったのだった。

 

 

 

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