[7] インシュリンの発見

   Frederick Grant Banting   (1891−1941)

   John James Rickard Macleod(1876−1935)

   Charles Herbert Best    (1899−1978)

   James Bertram Collip    (1892−1965)

 

 フレデリック・バンティングはオンタリオ州アリストンの農家に生まれ、1916年トロント大学で医学を修める。第一次大戦中は軍医として働き、1920年オンタリオ州ロンドンに整形外科医を開業したが、客が来ないのでロイヤルゼリーの効能や、マスタードガスの研究などをし、ウエスタン・オンタリオ大学講師の職を得ていた。

 ジェームズ・マクラウドはイギリスのクラニーに生まれる。1898年アバディーン大学で生理学を修め、ライプツィヒ大学に留学し、1902年ロンドン大学講師、1903年ウエスタンリザーブ大学教授、1918年トロント大学教授となる。当時彼は炭水化物代謝の世界的権威として知られていた。

 チャールズ・ベストはメイン州ウエストペテキスト ボックス: バンティング生家(オンタリオ州アリストン)。ンブロックに医者の子として生まれ、トロント大学で生理学と生化学を学ぶ。在学中に第一次大戦に出征。戦後復学し、最終学年では成績優秀で銀メダルを取り、将来を嘱望されマクラウドの助手となる。

 バートラム・コリップはオンタリオ州ベルビルに生まれる。1912年トロント大学で生化学を修め、1916年理学博士となり、1920年アルバータ大学教授となる。彼は一年間の休暇中、奨学金を受けてトロント大学で講師の身分で研究生活を送っていた。

 

 当時糖尿病は不治の病で、考えられる治療法は、炭水化物代謝のできない患者に超低カロリー食を与える「減食療法」しかなかったが、調節を誤ると栄養失調で死ぬこともあった。だが1889年ドイツのヨーゼフ・フォン=メリンクとオスカー・ミンコフスキーは、動物の膵臓を摘出すると糖尿病になることを発見し、膵臓の内分泌機構が大きく関係していることが明らかになった。

 バンティングは19201030日の夜、寝る前に医学雑誌を読んでいたとき、モーゼス・バロンの論文に、

「膵臓の外分泌管を縛り十二指腸から切り離しても糖尿病にはならないので、消化酵素とは異なるものが糖尿病を阻止している」

とあるのを見た。彼はその夜ベッドに入ったものの、様々な考えが脳裏を駆けめぐり、眠れなくなってしまう。そして夜中の2時に机に向かい、ノートに

テキスト ボックス: ロンドンのバンティング旧邸と「インシュリン誕生の地」碑。ここは彼がインシュリン研究を思いついた場所であり、実際にインシュリンが発見されたのはトロント大学である。「犬の膵管を結紮し、腺房が変性して膵島から分離するまで犬を生かす。尿糖を減少させるためにその内分泌物の分離を試みる。」

となぐり書きした。

 彼は翌朝さっそく主任教授に相談した。するとこの大学では設備がないが、トロント大学のマクラウド教授ならその分野に詳しいので、相談してみたらどうかと言われる。そしてバンティングは、たまたま次の週末にトロントに行く用があったので、マクラウドに会いに行った。

マクラウドは、研究経験の乏しい若い開業医が、教科書に書いてある程度の知識で緊張しながら話すのを聞かされ、そのような研究は何人もの学者がやってきたと言って、引き取ってもらおうとした。だがバンティンクはしぶとく食い下がり、実験室を貸してくれるよう頼むのだった。話すうちマクラウドは、膵臓を変性させる発想に興味を引かれた。また膵管の結紮や膵臓の移植のための、外科医としての技術にも興味を持った。それで「この研究が失敗したとしても、生理学的に意味があるだろう」と告げて、スコットランドに行く夏期休暇の数週間に研究室と実験用の犬10匹、そして助手を貸す許可を与えた。マクラウドが成績優秀な2人の学生、ベストとクラーク・ノーブルに、この研究は失敗に終わるだろうが、この方法は失敗するということが確かめられる必要はあるし、少なくとも外科技術を学ぶことはできると告げると、2人はコインを投げて、ベストが助手に決まった。これは歴史を変えるくじとなった。このときわずかにバンティング29歳、ベスト21歳のことであった。

 だがバンティングは、医院の経営がうまくいかず、それが遠因となって婚約も解消したため、ロンドンから逃げ出したかったのである。知人たちの勧めでようやく、大学のポストも残し、医院もやめず、夏休みだけ研究することにしたのだった。1921年5月14日、バンティングはトロントに向かい、ベストとともに5月17日、もう10年以上使われていなかった研究室を掃除した。そしてこの日から、実験は始まったのだった。

 うだる暑さに耐えながら、二人は老朽化した研究室で連日手術を行った。しかしバンティングは犬の手術をしたことがなかったので、膵切除の際に出血多量、麻酔過量、感染症などで14匹も死なせてしまい、街へ犬を買いに行かなければならないほどだった。それでも7匹の犬に膵部分切除を行い、その後膵管を結紮すると、そのうち2匹の膵臓が変性しており、外分泌物を産生する細胞が破壊されたと考えられた。そこで変性した膵臓を取り出し、抽出物を調整して糖尿病の犬に注射すると、血糖値が低下した。そこでバンティングはその抽出物に、島細胞を意味する英語に因んで「アイレチン」と命名した(マクラウドが後にラテン語でインシュリンと改名)。

 9月末にマクラウドが帰国し、研究できる期間は終わっていたが、バンティングは予想外の進展に気を良くし、研究を続けるつもりで、大学の職を辞し、医院も閉鎖して自ら背水の陣を敷いた。そしてマクラウドに研究室の修繕、給料、犬の世話人などを要求した。バンティングは

「トロント大学がこの研究を認めないならよそへ行く」

と言ったが、マクラウドは

「君に関しては、私がトロント大学だ」

と答えた。新しい校舎が完成したら使わなくなる研究室を、修繕する気にはなれなかったのである。バンティングはその直後、「あのチビ野郎がトロント大学なんかじゃないことを教えてやる」とベストに漏らしている。

 その後バンティングの要望で、マクラウドとコリップがチームに加わった。チームは役割を分担して、バンティングが必要な手術をテキスト ボックス: バンティング(右)とベスト(左)。中央の犬は、膵臓を摘出されながらインシュリンによって70日生存したマージョリー。行い、ベストは膵臓を集めて抽出の第一段階を済ませ、コリップが抽出物を精製するものとした。生化学が専門のコリップは独自の方法を考案し、バンティングのものより純度が高く、副作用のないインシュリンの調整に成功した。また彼は、インシュリンによって肝臓がグリコーゲンを生成できるようになることを発見した。

 

 いつの間にかマクラウドが監督で、コリップがエースで、バンティングとベストは助手になっていた。研究を始めたバンティングとベストという、2人のアマチュアの情熱は、インシュリン発見時にはいなかった、プロの研究医であるマクラウドとコリップにかき消されつつあるように思えた。アメリカ生理学会での研究発表の際、初めての体験でバンティングはすっかりあがってしまった。そのうえバンティングとベストの研究は問題点が多く、高名な学者たちから厳しい質問を浴びせられた。学会には慣れているマクラウドは、2人をかばって代わりに答弁したが、このできごとはバンティングに屈辱を与える結果となった。またマクラウドが「私たちの研究」と答弁したこと、そしてバンティングは糖尿病患者を扱ったことがなかったため、トロント総合病院での臨床実験をダンカン・グレアム教授(マクラウドと親しかった)に断わられたことも、自分の功績を奪おうとしているという猜疑心をかき立てた。

 焦ったバンティングは、自分とベストが最初に人体投与ができるよう申し入れ、自分とベストが抽出したインシュリンを、1922年1月レナード・トンプンに注射したが、効果はなかった。数日後コリップの抽出したインシュリンを注射すると、血糖値が低下した。4人の中でただ一人医者でない、生化学者のコリップにとっては専門分野であり、当然ともいえる結果である。そこでバンティングは抽出法をきいたが、コリップは回答を拒否した。インシュリンの抽出はコリップの分担であり、バンティングらがインシュリンを抽出して投与したのは協定違反と見たのである。コリップはインシュリン発見の権利をバンティングに認める代わりに、抽出法で特許を取ろうと考えていたふしがある。しかし日々糖尿病患者が死のうとしているとき、それはバンティングにとって非協力的で利己的に思えた。彼は逆上してコリップを殴ってしまう。そしてコリップは、トロント大学との契約切れを理由にチームを去って行った。

 1923年バンティングとマクラウドは、カナダ初のノーベル賞(生理学・医学賞)に選ばれる。しかしバンティングはマクラウドも受賞すると聞いたとき、

「畜生、マクラウドの頭から出て来たアイデアが一つでもあったか! 一度でも自分で手を汚して実験したことがあったか!」

と叫んだという。彼はベストこそ受賞にふさわしいとして、賞金の半額を分け与えると発表した。2週間後、マクラウドもコリップに半額分け与えると発表した。

 

 農家の生まれ、はやらない開業医、不思議な夜のアイデア、貧乏に耐えた日々、古い借り物の研究室にたった一人の助手・・・人々はサクセスストーリーを求めていた。有名になってからも臨床医として患者の診察を続け、そしてアメリカからの好条件の誘いを蹴ってカナダに留まり、カナダ軍に出征もしていたという彼の愛国心と、インシュリンの特許を1ドルで大学に譲ったという無私の精神は、カナダ人を熱狂させた。その当時糖尿病患者は百万人以上いたが、インシュリンはわずかしかなく、そのほとんどはバンティングが管理していた。議会で終身年金を受けることも決まり、若くして絶大な権力を握った彼は、やがてマクラウドへの敵意を現わにしていく。「利己的で、いつも他人のアイデアを盗んでいる」とか「言葉は下痢のように出てくるが、アイデアと結果は便秘状態」などとことあるごとに批判されたマクラウドは、1928年ついにトロント大学退職に追い込まれる。バンティングは送別会の出席を拒否したばかりか、空席の自分の席を用意しておくよう要求さえしたという。

 マクラウドはその後、イギリスに戻ってアバディーン大学教授となり、小腸の糖吸収、大脳や内臓を摘出された動物の呼吸などを研究し、医学教科書の執筆で評価された。彼の温厚な人柄は同僚や学生たちに好評だったが、トロントでのできごとについては決して口にすることはなかったという。

 人々は、バンティングが今にも次の医学上の大発見をするものと期待していた。そこでトロント大学構内にバンティング&ベスト医学研究所が創設されたが、彼は当初、自分の名がベストと対等に扱われているのを快く思わなかったという。彼の名声を慕って多くの学生たちが集まって来たが、彼は何の準備もしていないという有様だった。研究医としての訓練を受けたことがなく、抜群のひらめきで栄光の座についた彼は、「研究に必要なことは訓練ではなくアイデアだ」と称して、つまらない作業は助手に押しつけていた。彼は1923年「3年前に婚約し、2年前に結婚したインシュリンとは、ここに離婚する」と宣言しテキスト ボックス: ジェームズ・マクラウド。て、全ての細菌を殺す「アンチトキシン」の調整に挑んだが失敗。次にウサギの精子をメスのウサギに注射し、抗癌剤「スペルモトキシン」を調整しようとしたが再び失敗。彼のこの「王国」は何の成果もなく、飲んだり騒いだりの、名目だけの存在だったという。

 そんな彼も1924年、トロント総合病院のX線技師と結婚するが、夫婦仲は悪く、彼は酒浸りとなり、8年後実際に離婚を体験する。そして1939年に研究所の助手と再婚。1934年にはナイトに叙せられた。このとき貴族(・・)となったフレデリック・バンティング卿は「今後私に『サー』をつけて呼ぶやつは、ケツに蹴りを入れてやる」との名言を残している。もう誰も彼を止めることはできなかった。一度グレアム教授の秘書が言ったことがある。「あなたはまるで15の子供ですわ!」

 1941年2月20日、バンティングは軍医として戦地に赴く途中、飛行機が墜落して死亡した。田舎者が努力して報われ、国家のために命を捧げた彼は、国民的英雄とされた。彼は学者としてより、人として成功したと言われている。

 コリップは1922年アルバータ大学教授に復帰し、同時に医学部で学び1926年医学博士号も取得。1928年マギル大学教授、1947年ウエスタン・オンタリオ大学学部長となり、1957年までカナダ医学研究機関の議長を務める。後年バンティングと和解し、1941年2月16日にモントリオールのホテルで会っている。このときバンティングは「インシュリン発見の功績は、80%は君、10%がベスト、残りがマクラウドと私だ」と語ったという。5日後バンティングは事故死した。

 「インシュリンチームのベストサイエンティスト」と呼ばれたコリップは、その後副甲状腺ホルモン、成長ホルモン、甲状腺刺激ホルモン、副腎皮質刺激ホルモンを単離し、ホルモン研究の権威となった。彼もまたインシュリンにまつわるエピソードを語りたがらなかった。

 くじでインシュリン発見者の光栄に浴し、「ラッキーガイ」と呼ばれたベステキスト ボックス: 左からコリップ・ベスト・スター夫人・バンティング。インシュリンチームの四人が同時に写っている写真は1枚も存在しない。

トは、その後も謙虚に学びを続ける必要を感じた。だが恩師マクラウドとバンティングの板挟みに悩み、イギリスのロンドン大学に留学して忘れようとした。1925年医学博士号を取得し、コンノート研究所の副理事、1927年にはマクラウドの後任としてトロント大学教授となる。だが彼はカナダにおいて、バンティングと名声を分かち合わなければならないという、恐るべき運命から逃れられなかった。バンティングはベストの台頭を警戒し、ベストは無知で粗暴なバンティングを尊敬していなかった。この緊張関係はバンティングの死によって解消し、ベストはバンティング&ベスト医学研究所の所長、カナダ医学研究機関代表に就任する。インシュリンを避けて通った彼は、肺のヒスタミン分解酵素作用、コリン代射、ヘパリンの単離、グルカゴンの作用などの研究で評価され、第二次大戦中には、夜間視覚の研究で赤色信号が効果的であることを示し、これは日本との海戦で実用された。学生時代から将来を嘱望されていた彼は、晩年にしてようやく若い日の栄光にふさわしい業績を成し遂げたのだった。

*    *    *    *    *    *    *

 ルーマニアのニコラス・パウレスコやドイツのゲオルク・ツュルツァー、アメリカのアーネスト・スコット、ジョン・マーリン、イズリアル・クライナーも、トロント大学チームと同様の研究を進めていたため、ノーベル賞受賞に関して抗議が殺到した。にもかかわらずトロント大学チームがノーベル賞に選ばれた理由として、コリップが副作用のないインシュリンを調整したこと、マクラウドの権威がトロント総合病院での臨床実験を可能にしたこと、イーライ・リリー社と提携していち早くインシュリンを商品化し、多くの人命を救ったことがあげられる。だがバンティングは死ぬまで、膵管結紮という偉大な発想こそ唯一の価値だと思い込んでいた。ところが1922年にフランコン・ロバーツは論文で、膵管結紮によって蛋白分解酵素である外分泌物トリプシンから膵内分泌物を保護するという、バンティングの仮説は誤りであると指摘した。このような反応は実際には起こり得ないため、結紮する必要がないのである。彼はこう結論づけている。

「インシュリンの発見は、誤った発想、誤った処理、誤った解釈の実験に基づいている。(中略)バンティングとベストの実験は、結論としてトリプシンが蛋白分解酵素としてインシュリンに何の影響も与えていないということを示しているに過ぎない」

このような研究がノーベル賞に値しないことは言うまでもない。これに対し、医学界の重鎮ヘンリー・デイル博士は、結果的にインシュリンは発見されたのだから、その経過に誤りがあったからと言って非難するべきではないとして、2人への批判をタブーにしてしまった。彼はこうも述べている。

「誤った構想によって敷設されたコースから、これに交差する正しい道へと、つまずいたはずみに出てしまったのだ」

 およそ研究者に向いてない一開業医が、誤った理論に基づき、全財産と婚約者を犠牲に研究を始めた。非科学的ともいえる情熱を持った男は、良きパートナーに恵まれ、幸運の女神はこのような男に、生涯ただ一度ほほ笑んだのだった。カナダ人は今もバンティングを英雄視する。性格上の数多い欠点にもかかわらず、歴史は彼を必要としたのである。「ラッキーガイ」はベストではなくバンティングだった。遅れて参加したコリップは不運としか言いようがない。「栄光は皆に十分」であったが、ノーベル賞の定員は3名までだったのだ。

 なお4人の働きを描いたマイケル・ブリスの小説「インシュリンのテキスト ボックス: 映画“Glory Enough for All”より。左はバンティング役のR・H・トムスン、右はベスト役のロバート・ウィスデン。発見」は、後に“Glory Enough for All”のタイトルで1988年に映画化された。

 

 

 

inserted by FC2 system